May 10,2011
先日松ちゃんのPVを作るのにインタビュー?
というのか彼が独白している場面が欲しくて、
私が有る程度質問し彼がそれに答えるとい
う形を取った時のこと、、
彼が語り出した中で二つのことが”おっ”と
引っかかった!!!
一つは九龍城
もう一つは人間が作り出した思想や哲学
が人間の何を制御しようとしていたのか?
その意味・・・という彼の考察点だった。
九龍城という無法地帯と化した状態
それは人間の制御すべき部分を突破
した先に現出した状況
営々と人間が考え続けている人間という
生き物とそれをとりまく世界に対しての
思想哲学という制御面
このともすれば一見相克・相反する状況を
並列化して考える思考性、同一線上として
考えそこから何か具体的な可視化状況を
生み出そうとする彼の考え方には瞬間的に
有ることを思い出さずにはいられなかった・・
・・・・・・・・・・
かなり以前、何気なく入ったコンビニで
時間つぶしのためマンガを立ち読みしていた。
パラパラと何冊かめくったが特に面白い物がなく
出ようかとした時、ラックの最下段にあった一冊が
目がとまった・・
今、そのマンガのタイトルは思い出せないが、
何かが
目を引いた。
手に取ると表紙が、大阪教育大付属池田小学校
(大阪府池田市)で二〇〇一年、児童八人を殺害、
教師を含む十五人に重軽傷を負わせた事件の宅間
の肖像だった。
この事件、実は今も興味がある。特にこの犯人の人生
の奇異さと、奇異な人生に走らせた異様な指向性、そ
して判決から即行で執行された死刑、どれをとっても通常
の理解を遥かに超えるものであり、なにか結論が出ないまま
抹殺されたような感があり、それが故に心の中で鮮烈かつ、
明確な棘のような引っ掛かりが今も私にはある。。。
その興味からマンガを読むと、なるほどぉ!と当時記事の
文言として読んでいたものがマンガの絵をかりて画像が動
きだし何かしらの窓口がつかみとれたような感じがした。。。
まぁ瞬間的な錯覚も多いにはあるだろうが・・・・・・・・・
この衝撃的な事件をはじめ、このマンガの編集は猟奇的
殺人事件をまとめた内容だった。。
次のストーリーを読もうと表題を見ると
「ロボトミー殺人事件」
・・あっ、このロボトミー・・いつか、何かの記憶がある・・
・・・うーん、思い出せない。。が、なにか覚えがある・・・
なんだったか????
と、モヤモヤしながら読み進めたのだが
驚いた!!
この聞きなれない“ロボトミー”とは
要するに、、脳に外科的手術を行うことにより精神疾患
を治療することなのである。
特に以前で言う精神分裂症、現在で言う統合失調症
を中心に外科的に手術をしたのだ。
ロボットのような人間にするからロボトミーではない。
ギリシア語の「λοβός lobos=葉、この場合は前頭葉、
τέμνω temno→tomy=切断」から作られた造語である。
発音が似ている「ロボット」は、チェコ語のrobota(労働)
という言葉から作られたとされ、語源が全く異なり関連性は
ない。
ロボトミーとは、、
例えば、瞬間的に激高し殺人まで犯す人間が現在も
存在するが、その潜在的な犯罪の可能性を考えれば
相当数の予備軍が存在するという前提に立ち、人間
は誰しもこれに近い感情を内包していると仮説を打ち
立てる。
これに関しては有る程度理解は出来る部分はある・・
しかし、ロボトミーはこの仮説段階を踏み越える・・
精神のバランスが崩れた瞬間、突発的に殺人にまで走
る人間とは所謂精神分裂状態のゾーンにあり、それら
の人間の頭を、メスを使い具体的に神経細胞を取り除
くもしくは切除することにより、事前に精神のバラン
スを人工的に保つ施術、これがロボトミーなのである。
えぇ??こんなことが行われていたのかぁ???
・・・・うーん、しかし、記憶のどこかに・・ある・・・
驚いた点は
この倫理的にかなり問題があると判断できる施術が、
実は1975年、「精神外科を否定する決議」が日本
精神神経学会で可決され、それ以降は行われてい
ないらしいのだが、当時、基本的な法的拘束がかか
っていなかったという点、そしてこの非倫理的な施術
が30年以上前は当然の方法論として肯定されてい
たという事実。
また、この手術を受けた人間が発表では3~12万人
とその数の多さもさることながら、あまりのアバウトな幅
の大きさにも驚嘆する。それはごく一般的な施術として
存在したから、データーとしての根拠がつかめていない
のが現実だと判断できる。。
風邪の患者を具体的にAIDS患者のような特定数値
では表わさないし、表せないだろうし、またその必要もな
いであろう、まさしくそれらと同内容が感じられるのである。
そしてなにより、この手術、手術例の蓄積からより大きな
成果を導きだそうと、一時期、医学会で奨励されていた
時期があったらしい。
施術当時の精神医学界では、精神外科手術が“画期的
な治療法”として脚光をあびており、臨床データをより多く
取るための目的もあって、多くの医師によって積極的にこの
手術が行なわれた。
しかし、この手術は当初より、しばしば、てんかん発作、
人格変化、無気力、抑制の欠如、衝動性などの重大
かつ不可逆的な副作用の報告がなされていたのである
が、抑止することなくかなりの年月継続されていた。。。
さて、マンガの中で紹介されていたロボトミー殺人事件で
あるが、このロボトミー手術の暗部がすべて剥き出しにさ
れた象徴的な事件だったのである。
-----------------------------------------------------
もともと暴力性をともなった精神的に問題のある男が
紆余あった末、スポーツライターとして、その才能を活
かすまでに努力するのであるが、些細なことで兄弟を
傷つけ警察に逮捕される。警察で前歴を調べると、
幾度となく繰り返される暴力事件に精神鑑定の必
要性を強いられ、精神病院へ強制的に入院させら
れる。
しかしこの時期、先述のとおりロボトミー手術が奨励
された時期と符号し、自らの意思とは別に、騙される
ような形で手術をされてしまう。本人はロボトミー手術
の存在も認識しており、その副作用もかなりの具体的
な部分で認識していた。それゆえにロボトミー手術に対
しては拒否を言葉としても行動としても医師に表してい
たのであるが、狡猾な手段により施術されてしまう。
あくまで私見ではあるが、、、、、
この時点での医師の感情は想像でしかないが、人の
人生を助ける仁術という観点ではなく実験としての興
味が強かったのだろうと感じる。
手術結果は医師の想像通りの、いやそれ以上の
成果を上げ、暴力指向性が消滅するのであるが、
その代償として、彼からは人間としての感動や精
神的意欲は極端に減退し、人にスポーツを通じて
感動を伝える仕事であるスポーツライターとしての
人生は停止したのである。
その後も手術の副作用に悩まされながらも真摯に
人生を歩もうとするのであるが、ある時、何を見て
も何も感じない自分に対し絶望を感じ、手術をし
た医師を殺害しようと思い立つ。
しかし乗り込んだ家には医師が不在であり、結局医師
の家族を殺害し捕まる。これがロボトミー殺人事件のあ
らましなのである。。。。
---------------------------------------------------
驚くのはこの事件の結審だが、1996年11月無期刑で
あった。僅か15年前に決着したのである・・・
唖然とする。。。つい近年まで脈々と審理され生き続け
ていた問題なのだ!!決して過去の不条理な問題、歴
史ではないのだ・・・
今、誰が聞いても、精神的な破綻をきたした人間の頭
を開けて、実験のような手術をすることを“是”とい
う人間はいないだろう。
過去、このような事件があったからそう思うのでなく、
何となくでもいけない事と感じるものなのだが、僅か30
年位前は劇的な手術方法として奨励までされていたのであ
る。。
うーん??しかしなにか覚えがある・・・
この、ロボトミー・・・一時ものすごく引っ掛かってい
たような????
その当時、家に帰って早速“ロボトミー”とキーワードを
入力し検索すると、やはりロボトミー殺人事件が上位
に掲示されていた。しかし順にみていくと
あっ!
これだ!
と、突き当たったものがあった!!!!
カッコーの巣の上で!
アメリカンニューシネマの代表作・・・
そうだ、このとき知った言葉だったが、、、、、、
映画を観た当時、20年前、調べる手段がなかったのだ・・
それでも執拗に調べある程度は分かったが、それっきりに
なっていたのだった・・・
確か、主人公のジャックニコルソンがこのロボトミー手術を
強制的に施され、無気力、無感動を超え廃人になるシー
ンが強烈な印象として目に焼きついた。
そのときの興味がこの手術を探る動機になったのであるが、
当初は映画の中の想像的演出だとおもっており、現実に
存在するものだとは感じていなかった。
だから調べるといっても、ロボトミーという臨床医療の存在
をなぞるような事ではなく、類似事象、つまり施術で社会性を
失った事による提訴等の社会問題としての具体性があるのか
を整合させるということの方が強かったような気がする。
だから実際に存在する手術だと、、具体的に認知するまで
には当時到りはしなかった・・(当然インターネットなどと
いう利器も無く・・・である。。)
このカッコーの巣の上でという映画を始め
この当時の、、、
アメリカンニューシネマは私にとってかなり大きな存在であ
り、実は今私が芸術を判断するファクターの一つと呼んでも
おかしくない位置づけがある。
反体制、刹那的、個人の無力さと虚無感、不条理、暴力、
SEX、それらを客観的な世相として活写し包括するのでは
なく、人間個人の内面まで掘り下げる実存主義・・
今、現にここに存在している私・・という具体的なテーマ性
がバックボーンとして存在するこの芸術感性は、私のコアな
部分でもある。。
その中で、とりわけカッコーの巣の上でのロボトミー手術は、
他人は知らないが私にとってはかなり象徴的なシーンに映
り、体制から抹殺される不条理な手段・方法としては衝
撃的な印象が脳天を突き抜けた。。。
まさか・・こんな事??映画の象徴的な演出じゃないのか??
と感じたものの強烈な興味がそれ以降に病的に増幅した・・・
映画は精神病棟と患者、医師、看護婦が中心にストーリー
を展開していくのであるが、私がこの映画を見て感じたのは、
精神病棟の患者は我々常人からみると“異常”“奇異”な人
間なのであるが、逆の患者側から医師や看護婦、ある意味
一般社会と置き換えてもいいのであるが、それらを見た場合、
同じ感覚が生じるのではないかなぁ?というものである。
人間はある意味大多数が精神において小さな振れ幅の中で
生きているのかもしれない。
大きく振れる人間は小さな振れ幅の人間からみれば、驚異で
あり、自分の知らない未知の境地を体得しているという想像
が働くのかもしれない。
それが一種の恐怖と結びついているのか?とも考えてしまう。
例えば認知症というものがあるが、認知症患者自体は認知症
の中には存在しない。
認知症として存在し、苦痛を感じるのはその周辺の介護する
人間なのだ。
大きく振れた精神の、自分の振れ幅を超えるマージン部分は、
振れ幅の小さな人間が被る災厄でしかない。
ある意味、一般社会の精神的バランスは振れ幅の中心がすべ
てであり、ある一定の平均的な枠としての振れ幅が結果とし
て存在し、その枠からはみ出す部分に中心を持っていこうと
する人間は異常、奇異ではなく、一般社会の人間を超越した
存在として、その未来の行動の予測が取れないことが最大の
恐怖に結び付くのかもしれない。
もし、もっと人間の精神の振れ幅が大きなものであったら、
相対的な観点から人間の正常という幅は現在とは大きく相違
し簡単に変化する。
それをある種具体的な例として捉えられるのは“戦争”じゃ
ないかと思う。
現代で戦争を志向すると、間違いなく精神破綻者側の人間に
入れられる。
しかし、全員が戦争状態の時は、戦争を反対する者が精神破
綻者の側に組み込まれるのである。。。
それほど、あいまいであり、中心などと考えている物は外的
要因によっても簡単に変質するものなのである。。
だから人間は常にどこが中心なのか?日本人だと平均なのか
を模索する。
明らかに最初からそれらの中心や平均にとらわれない人間が
出現すると、精神破綻などというレッテルを貼る。
その方が自分達で導きだした結論を瓦解せずにすむからであ
る。
しかし、くどいが、中心や平均をもたない者からみると、
中心や平均に対して常にアンテナを張り巡らす人間は異常
に見えるのではないだろうか???
それに対する対抗手段としてロボトミーとは具体的戦術と
して編み出された方法論かもしれない。
しかしこの時点で、このロボトミーを肯定する側は果たし
て精神バランスの振れ幅は一般社会の人間の振れ幅に合致
するのだろうか?
場合によっては精神異常者と呼んでいる人間の振れ幅を遥
か超えているのではないだろうか?
これらカオス状態を抑止するために人間は“神の領域”
なる言葉を編み出したのではないだろうか??でもロ
ボトミーは明らかに神の領域を土足で侵入し、皆、侵入
したことすら気付かなかった事に最大の不思議が存在す
る。
そして今もって不思議なのは、ロボトミーに対する怒
りが社会にないのである。。
だから、ロボトミー、イコール、ロボトミー殺人事件
だけが取り上げられている。。
しかし、それすらも実は社会の中で末梢寸前であり、
知っている人間の方が少ないのである。
明らかに何かの手順を飛び越えた結論に思える、ロボトミーは・・・・
脳の構造を理解し、それに対して機械を修理するように
思考することは拙速過ぎるし、人間の智慧に対しての大
いなる欠落を感じる・・・
まぁいずれにしても、人間の脳を解剖することで、日常
生活は送れても、人間の感情はいとも簡単に変質・崩壊
するという、いかにも単純な行為が、実は人間の本質的
な軸を容易に歪めるものなのかと改めて感嘆してしまう
のである。。
逆に言うとそれほど精密にできているのかとも考え、
すこしナーバスにもなってしまう。。
外科的手術なしで崩壊する人間の感情の主要因はストレ
スなどと呼んでいる。これは誰しもに存在し、これによ
り人間は外科的手術を超える崩壊を始めるのも確かであ
る。
そういう意味では人間は誰しも眼前に精神バランスを崩
すものと対峙しているのかもしれないし、今、ある姿は
偶然の結果なのかもしれない・・・
そしてこのロボトミーで総合的に分かったのは、人間の
“怒り”の部分、これは暴力や凌辱という人間社会を崩
壊させる主要因であり、また逆にそれらに対抗する原動
力にもなるものなのだが、この部分を取り除くと、人間
は無気力無感動の廃人に近づくのだと。
人間の行動原理の根幹が実は様々な感情の種類があるに
も関わらず“怒り”というものにかなり深く依存してい
るということがなんとなく分った。
それは、、怒りのない人間は人間ではないという事に
もつながり、社会の構成要件としてはかなり重要な部
分となり、何に怒りをもつかによって人間の行動は明
らかな表現主体とその見え方が変わり、怒りの持続が
ある種人間と社会を律動させ行動し続ける原動力にな
るのである。。
カオスの中に身を置き、具体性のない平和を専行して
など到底夢想できはしない、必ずカウンターが必要で
あり、そのカウンターに対する原動力としての怒りが
エネルギーの条件となる。
戦いが存在するから平和という概念が存立し、平和の
概念があるから戦いの概念もまた存在する。
そのどちらかにおいても、それらを具体的にしようと
する怒りが生じ人間を動かす。
蛮行が存在してしまうのは思慮の欠如ではなく、興奮
を求めてやまない精神の所産なのである。しかしなが
らそれらを如何に抑制・覚醒させるか人間がもった性
(さが)との葛藤であり、ある意味怒りの根本となり得、
行動の根幹なのではないだろうか??
何もなければ、赤ん坊が母親の胎内の羊水の中で浮遊
しているだけでしかない。。
しかし、そのままでいるわけにはいかないし、摂理として
もありえない・・・
ではなぜ出現するのか人間は??
出現とは一種の怒りの肉体言語表現だと思う。。
---------------
松本央 solo exhibition
【Beast Attack!】
2011.06.01 (wed) - 2011.07.08 (fri)
gallery close 6/4・5・11・12・18・19・25・26・7/3
open 11:00~18:00
というのか彼が独白している場面が欲しくて、
私が有る程度質問し彼がそれに答えるとい
う形を取った時のこと、、
彼が語り出した中で二つのことが”おっ”と
引っかかった!!!
一つは九龍城
もう一つは人間が作り出した思想や哲学
が人間の何を制御しようとしていたのか?
その意味・・・という彼の考察点だった。
九龍城という無法地帯と化した状態
それは人間の制御すべき部分を突破
した先に現出した状況
営々と人間が考え続けている人間という
生き物とそれをとりまく世界に対しての
思想哲学という制御面
このともすれば一見相克・相反する状況を
並列化して考える思考性、同一線上として
考えそこから何か具体的な可視化状況を
生み出そうとする彼の考え方には瞬間的に
有ることを思い出さずにはいられなかった・・
・・・・・・・・・・
かなり以前、何気なく入ったコンビニで
時間つぶしのためマンガを立ち読みしていた。
パラパラと何冊かめくったが特に面白い物がなく
出ようかとした時、ラックの最下段にあった一冊が
目がとまった・・
今、そのマンガのタイトルは思い出せないが、
何かが
目を引いた。
手に取ると表紙が、大阪教育大付属池田小学校
(大阪府池田市)で二〇〇一年、児童八人を殺害、
教師を含む十五人に重軽傷を負わせた事件の宅間
の肖像だった。
この事件、実は今も興味がある。特にこの犯人の人生
の奇異さと、奇異な人生に走らせた異様な指向性、そ
して判決から即行で執行された死刑、どれをとっても通常
の理解を遥かに超えるものであり、なにか結論が出ないまま
抹殺されたような感があり、それが故に心の中で鮮烈かつ、
明確な棘のような引っ掛かりが今も私にはある。。。
その興味からマンガを読むと、なるほどぉ!と当時記事の
文言として読んでいたものがマンガの絵をかりて画像が動
きだし何かしらの窓口がつかみとれたような感じがした。。。
まぁ瞬間的な錯覚も多いにはあるだろうが・・・・・・・・・
この衝撃的な事件をはじめ、このマンガの編集は猟奇的
殺人事件をまとめた内容だった。。
次のストーリーを読もうと表題を見ると
「ロボトミー殺人事件」
・・あっ、このロボトミー・・いつか、何かの記憶がある・・
・・・うーん、思い出せない。。が、なにか覚えがある・・・
なんだったか????
と、モヤモヤしながら読み進めたのだが
驚いた!!
この聞きなれない“ロボトミー”とは
要するに、、脳に外科的手術を行うことにより精神疾患
を治療することなのである。
特に以前で言う精神分裂症、現在で言う統合失調症
を中心に外科的に手術をしたのだ。
ロボットのような人間にするからロボトミーではない。
ギリシア語の「λοβός lobos=葉、この場合は前頭葉、
τέμνω temno→tomy=切断」から作られた造語である。
発音が似ている「ロボット」は、チェコ語のrobota(労働)
という言葉から作られたとされ、語源が全く異なり関連性は
ない。
ロボトミーとは、、
例えば、瞬間的に激高し殺人まで犯す人間が現在も
存在するが、その潜在的な犯罪の可能性を考えれば
相当数の予備軍が存在するという前提に立ち、人間
は誰しもこれに近い感情を内包していると仮説を打ち
立てる。
これに関しては有る程度理解は出来る部分はある・・
しかし、ロボトミーはこの仮説段階を踏み越える・・
精神のバランスが崩れた瞬間、突発的に殺人にまで走
る人間とは所謂精神分裂状態のゾーンにあり、それら
の人間の頭を、メスを使い具体的に神経細胞を取り除
くもしくは切除することにより、事前に精神のバラン
スを人工的に保つ施術、これがロボトミーなのである。
えぇ??こんなことが行われていたのかぁ???
・・・・うーん、しかし、記憶のどこかに・・ある・・・
驚いた点は
この倫理的にかなり問題があると判断できる施術が、
実は1975年、「精神外科を否定する決議」が日本
精神神経学会で可決され、それ以降は行われてい
ないらしいのだが、当時、基本的な法的拘束がかか
っていなかったという点、そしてこの非倫理的な施術
が30年以上前は当然の方法論として肯定されてい
たという事実。
また、この手術を受けた人間が発表では3~12万人
とその数の多さもさることながら、あまりのアバウトな幅
の大きさにも驚嘆する。それはごく一般的な施術として
存在したから、データーとしての根拠がつかめていない
のが現実だと判断できる。。
風邪の患者を具体的にAIDS患者のような特定数値
では表わさないし、表せないだろうし、またその必要もな
いであろう、まさしくそれらと同内容が感じられるのである。
そしてなにより、この手術、手術例の蓄積からより大きな
成果を導きだそうと、一時期、医学会で奨励されていた
時期があったらしい。
施術当時の精神医学界では、精神外科手術が“画期的
な治療法”として脚光をあびており、臨床データをより多く
取るための目的もあって、多くの医師によって積極的にこの
手術が行なわれた。
しかし、この手術は当初より、しばしば、てんかん発作、
人格変化、無気力、抑制の欠如、衝動性などの重大
かつ不可逆的な副作用の報告がなされていたのである
が、抑止することなくかなりの年月継続されていた。。。
さて、マンガの中で紹介されていたロボトミー殺人事件で
あるが、このロボトミー手術の暗部がすべて剥き出しにさ
れた象徴的な事件だったのである。
-----------------------------------------------------
もともと暴力性をともなった精神的に問題のある男が
紆余あった末、スポーツライターとして、その才能を活
かすまでに努力するのであるが、些細なことで兄弟を
傷つけ警察に逮捕される。警察で前歴を調べると、
幾度となく繰り返される暴力事件に精神鑑定の必
要性を強いられ、精神病院へ強制的に入院させら
れる。
しかしこの時期、先述のとおりロボトミー手術が奨励
された時期と符号し、自らの意思とは別に、騙される
ような形で手術をされてしまう。本人はロボトミー手術
の存在も認識しており、その副作用もかなりの具体的
な部分で認識していた。それゆえにロボトミー手術に対
しては拒否を言葉としても行動としても医師に表してい
たのであるが、狡猾な手段により施術されてしまう。
あくまで私見ではあるが、、、、、
この時点での医師の感情は想像でしかないが、人の
人生を助ける仁術という観点ではなく実験としての興
味が強かったのだろうと感じる。
手術結果は医師の想像通りの、いやそれ以上の
成果を上げ、暴力指向性が消滅するのであるが、
その代償として、彼からは人間としての感動や精
神的意欲は極端に減退し、人にスポーツを通じて
感動を伝える仕事であるスポーツライターとしての
人生は停止したのである。
その後も手術の副作用に悩まされながらも真摯に
人生を歩もうとするのであるが、ある時、何を見て
も何も感じない自分に対し絶望を感じ、手術をし
た医師を殺害しようと思い立つ。
しかし乗り込んだ家には医師が不在であり、結局医師
の家族を殺害し捕まる。これがロボトミー殺人事件のあ
らましなのである。。。。
---------------------------------------------------
驚くのはこの事件の結審だが、1996年11月無期刑で
あった。僅か15年前に決着したのである・・・
唖然とする。。。つい近年まで脈々と審理され生き続け
ていた問題なのだ!!決して過去の不条理な問題、歴
史ではないのだ・・・
今、誰が聞いても、精神的な破綻をきたした人間の頭
を開けて、実験のような手術をすることを“是”とい
う人間はいないだろう。
過去、このような事件があったからそう思うのでなく、
何となくでもいけない事と感じるものなのだが、僅か30
年位前は劇的な手術方法として奨励までされていたのであ
る。。
うーん??しかしなにか覚えがある・・・
この、ロボトミー・・・一時ものすごく引っ掛かってい
たような????
その当時、家に帰って早速“ロボトミー”とキーワードを
入力し検索すると、やはりロボトミー殺人事件が上位
に掲示されていた。しかし順にみていくと
あっ!
これだ!
と、突き当たったものがあった!!!!
カッコーの巣の上で!
アメリカンニューシネマの代表作・・・
そうだ、このとき知った言葉だったが、、、、、、
映画を観た当時、20年前、調べる手段がなかったのだ・・
それでも執拗に調べある程度は分かったが、それっきりに
なっていたのだった・・・
確か、主人公のジャックニコルソンがこのロボトミー手術を
強制的に施され、無気力、無感動を超え廃人になるシー
ンが強烈な印象として目に焼きついた。
そのときの興味がこの手術を探る動機になったのであるが、
当初は映画の中の想像的演出だとおもっており、現実に
存在するものだとは感じていなかった。
だから調べるといっても、ロボトミーという臨床医療の存在
をなぞるような事ではなく、類似事象、つまり施術で社会性を
失った事による提訴等の社会問題としての具体性があるのか
を整合させるということの方が強かったような気がする。
だから実際に存在する手術だと、、具体的に認知するまで
には当時到りはしなかった・・(当然インターネットなどと
いう利器も無く・・・である。。)
このカッコーの巣の上でという映画を始め
この当時の、、、
アメリカンニューシネマは私にとってかなり大きな存在であ
り、実は今私が芸術を判断するファクターの一つと呼んでも
おかしくない位置づけがある。
反体制、刹那的、個人の無力さと虚無感、不条理、暴力、
SEX、それらを客観的な世相として活写し包括するのでは
なく、人間個人の内面まで掘り下げる実存主義・・
今、現にここに存在している私・・という具体的なテーマ性
がバックボーンとして存在するこの芸術感性は、私のコアな
部分でもある。。
その中で、とりわけカッコーの巣の上でのロボトミー手術は、
他人は知らないが私にとってはかなり象徴的なシーンに映
り、体制から抹殺される不条理な手段・方法としては衝
撃的な印象が脳天を突き抜けた。。。
まさか・・こんな事??映画の象徴的な演出じゃないのか??
と感じたものの強烈な興味がそれ以降に病的に増幅した・・・
映画は精神病棟と患者、医師、看護婦が中心にストーリー
を展開していくのであるが、私がこの映画を見て感じたのは、
精神病棟の患者は我々常人からみると“異常”“奇異”な人
間なのであるが、逆の患者側から医師や看護婦、ある意味
一般社会と置き換えてもいいのであるが、それらを見た場合、
同じ感覚が生じるのではないかなぁ?というものである。
人間はある意味大多数が精神において小さな振れ幅の中で
生きているのかもしれない。
大きく振れる人間は小さな振れ幅の人間からみれば、驚異で
あり、自分の知らない未知の境地を体得しているという想像
が働くのかもしれない。
それが一種の恐怖と結びついているのか?とも考えてしまう。
例えば認知症というものがあるが、認知症患者自体は認知症
の中には存在しない。
認知症として存在し、苦痛を感じるのはその周辺の介護する
人間なのだ。
大きく振れた精神の、自分の振れ幅を超えるマージン部分は、
振れ幅の小さな人間が被る災厄でしかない。
ある意味、一般社会の精神的バランスは振れ幅の中心がすべ
てであり、ある一定の平均的な枠としての振れ幅が結果とし
て存在し、その枠からはみ出す部分に中心を持っていこうと
する人間は異常、奇異ではなく、一般社会の人間を超越した
存在として、その未来の行動の予測が取れないことが最大の
恐怖に結び付くのかもしれない。
もし、もっと人間の精神の振れ幅が大きなものであったら、
相対的な観点から人間の正常という幅は現在とは大きく相違
し簡単に変化する。
それをある種具体的な例として捉えられるのは“戦争”じゃ
ないかと思う。
現代で戦争を志向すると、間違いなく精神破綻者側の人間に
入れられる。
しかし、全員が戦争状態の時は、戦争を反対する者が精神破
綻者の側に組み込まれるのである。。。
それほど、あいまいであり、中心などと考えている物は外的
要因によっても簡単に変質するものなのである。。
だから人間は常にどこが中心なのか?日本人だと平均なのか
を模索する。
明らかに最初からそれらの中心や平均にとらわれない人間が
出現すると、精神破綻などというレッテルを貼る。
その方が自分達で導きだした結論を瓦解せずにすむからであ
る。
しかし、くどいが、中心や平均をもたない者からみると、
中心や平均に対して常にアンテナを張り巡らす人間は異常
に見えるのではないだろうか???
それに対する対抗手段としてロボトミーとは具体的戦術と
して編み出された方法論かもしれない。
しかしこの時点で、このロボトミーを肯定する側は果たし
て精神バランスの振れ幅は一般社会の人間の振れ幅に合致
するのだろうか?
場合によっては精神異常者と呼んでいる人間の振れ幅を遥
か超えているのではないだろうか?
これらカオス状態を抑止するために人間は“神の領域”
なる言葉を編み出したのではないだろうか??でもロ
ボトミーは明らかに神の領域を土足で侵入し、皆、侵入
したことすら気付かなかった事に最大の不思議が存在す
る。
そして今もって不思議なのは、ロボトミーに対する怒
りが社会にないのである。。
だから、ロボトミー、イコール、ロボトミー殺人事件
だけが取り上げられている。。
しかし、それすらも実は社会の中で末梢寸前であり、
知っている人間の方が少ないのである。
明らかに何かの手順を飛び越えた結論に思える、ロボトミーは・・・・
脳の構造を理解し、それに対して機械を修理するように
思考することは拙速過ぎるし、人間の智慧に対しての大
いなる欠落を感じる・・・
まぁいずれにしても、人間の脳を解剖することで、日常
生活は送れても、人間の感情はいとも簡単に変質・崩壊
するという、いかにも単純な行為が、実は人間の本質的
な軸を容易に歪めるものなのかと改めて感嘆してしまう
のである。。
逆に言うとそれほど精密にできているのかとも考え、
すこしナーバスにもなってしまう。。
外科的手術なしで崩壊する人間の感情の主要因はストレ
スなどと呼んでいる。これは誰しもに存在し、これによ
り人間は外科的手術を超える崩壊を始めるのも確かであ
る。
そういう意味では人間は誰しも眼前に精神バランスを崩
すものと対峙しているのかもしれないし、今、ある姿は
偶然の結果なのかもしれない・・・
そしてこのロボトミーで総合的に分かったのは、人間の
“怒り”の部分、これは暴力や凌辱という人間社会を崩
壊させる主要因であり、また逆にそれらに対抗する原動
力にもなるものなのだが、この部分を取り除くと、人間
は無気力無感動の廃人に近づくのだと。
人間の行動原理の根幹が実は様々な感情の種類があるに
も関わらず“怒り”というものにかなり深く依存してい
るということがなんとなく分った。
それは、、怒りのない人間は人間ではないという事に
もつながり、社会の構成要件としてはかなり重要な部
分となり、何に怒りをもつかによって人間の行動は明
らかな表現主体とその見え方が変わり、怒りの持続が
ある種人間と社会を律動させ行動し続ける原動力にな
るのである。。
カオスの中に身を置き、具体性のない平和を専行して
など到底夢想できはしない、必ずカウンターが必要で
あり、そのカウンターに対する原動力としての怒りが
エネルギーの条件となる。
戦いが存在するから平和という概念が存立し、平和の
概念があるから戦いの概念もまた存在する。
そのどちらかにおいても、それらを具体的にしようと
する怒りが生じ人間を動かす。
蛮行が存在してしまうのは思慮の欠如ではなく、興奮
を求めてやまない精神の所産なのである。しかしなが
らそれらを如何に抑制・覚醒させるか人間がもった性
(さが)との葛藤であり、ある意味怒りの根本となり得、
行動の根幹なのではないだろうか??
何もなければ、赤ん坊が母親の胎内の羊水の中で浮遊
しているだけでしかない。。
しかし、そのままでいるわけにはいかないし、摂理として
もありえない・・・
ではなぜ出現するのか人間は??
出現とは一種の怒りの肉体言語表現だと思う。。
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松本央 solo exhibition
【Beast Attack!】
2011.06.01 (wed) - 2011.07.08 (fri)
gallery close 6/4・5・11・12・18・19・25・26・7/3
open 11:00~18:00
