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田村さんの個展行います!


田村博文 solo exhibition
STONE+SABI 原風景からの切り貼り
2011.04.27 (wed) - 2011.05.31 (tue)
gallery close 4/29・30・5/1・3・4・5・8・14・15・22・29
open 11:00~18:00


【個展ステートメント】

広い河原。

辺り一面を占める石・石・石。

時を忘れて無心で遊ぶ。

積み上げたり、崩したり、並べたり並び変えたり。

すべりそうな石があれば助けてやる。

お気に入りの小石は大切にポケットへ。

先人は樹・石・金属と時をかけて、その利用すべき術を手に入れた。


私はまだ樹で石を削り出し続けている。


樹は削り出すことでその樹が所有した時間を 剥き出しにされる。

有機物としての樹、それと対峙する側にある 石や金属


私はまだ樹で石を削り出し続けている。


樹で石をつくり、その石にメタリックな表皮を装着する。

時と共にSABIがで出る。

原風景に存在するか否か不確かな時間。

樹が所有した時間。

そして今、樹から磨き出した石に施したメタリックなフィルターと

それから発生するSABIと時間を共有する。


私はまだ樹で石を削り出し続けている。





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私は何度も何度も作家と話をする。
否、そう自分に言い聞かせている・・



それは彼らが創作した作品を見る時間
など及びもつかない位である。



作品から受けた直感が惹きつける
彼らの考え方に対する興味、、



その面白さ・・・
可能性・・・・・



今はまだ作品に現れていないが、、、
その兆しを感じ取りたい、自分の直感
を何度も何度も検証するように彼らと
様々な話をする・・・・



そして開花するために自分は
何ができるのか?


ほとんど何もできていないのであるが
それでも同じ事を繰り返す。



私の職業柄



これは不必要な度合いと大いに遠回り
となる事は理解しているつもりである。。



既に価値形成がなされたものを
右から左に動かす日本の特殊事情
に立脚する完全セカンダリーの市場に
身を置いた方が経済的な展望は
遥かに広がる。



分かりやすくて流通上の価格・価値感が
仮想上担保されている客観的な”商材”、、、



しかし私が扱うのは



感じやすさを追求し、流通上の価格・価値感
が全く担保されていない”作品”である。



この選択は、理解されないことや誤解、誹
り嘲り、場合によっては愚にもつかないと
批判され痛罵される事もしばしばである。



それと同時に、、



何のアカデミックな背景も、その実績も
ないものの意見などは老若問わずものの見事
に無視され小馬鹿にされることも、、、、



理解できている・・



しかし、、、、、



私が選択したのは



そういった障壁に真っ向からぶつかる



広範な面積の中の【先端】である。



先端を志す者が他人に阿るような理解を
求めてはいけない。そして、おそらく理解
されないであろうという気概を人一倍
強靭に必要としなくてはいけない。



田村さんの



STONE+SABI 原風景からの切り貼り



の展覧は、その私の考えの一端でもある。。




木で石を削り出すという行為から
見える、自然界の時間軸の交差。

自然界の生命体としての木、石。
消滅に至る時間がが異なる二つの
生命体をまったく相違する時間軸に
生きる人間が創作という行為で
生み出す。


ここに時間の位相関係が生まれる。


そこから感じる人間個人の生き物
としての瑣末としか言いようのない
か細い生命感。

時計の針とは人間の時間を削り取る
道具でしかない。また指し示す時間
とはあくまで人間が作った時空でしか
ない。

自然界の時間軸はそれらとは大いに
相違する時空を有する。


木から削り出した石には、そういう
時間軸の交差を濃縮した意味を私は
感じた。。。



今回はそこに”錆”という要素を
加えた・・・


錆びるとは



高炉で鉄鉱石にエネルギーを与えると、
炭素は鉄鉱石を鉄に還元する。こうし
て「鉄」が産み出される。放置してお
くと、やがて鉄は酸化してエネルギー
を失って、酸化鉄に復って行く。つま
り、錆は、還元された鉄が酸化して安
定な状態へとかえろうとする過程に生
じる結果である。


鉄の要素・鉄鉱石で言えば


木や石と変わらない自然物である。


高炉と言う人工の変換機器を通すことに
より鉄と言う物質に変化するが、素から
考えれば鉄も自然物だ。


鉄が時間を経ると


酸化し錆が発生する。


この現象は


自然に戻ろうとする鉄の自助作用と
考えれられなくもない。


鉄が錆びるとは朽ちる腐食する
という一般のイメージで言えば
劣化を意味するが、、、、


自然に戻ろうとするパワーと読み
説けば、それは又違った意味を
持つ。


人間も同様なのでは?と考えてしまう。


自然界の中で


人間と言う瑣末な生き物が時間をかけて
得ようとするものは一体なんなのだろうか?
劣化なのだろうか?


また、過去から営々と継続してきた
人間総体の追い求めるものとは一体なにか?
この永続を宿命づけられている生き物に
現れている”錆”とは何を意味している
のであろうか?


何のパワーなのか?


田村さんの木と石と錆そして人間と言う
時間の交差から考えさせられる。




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