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吉野ロボ 3
年末の海外出張と国内の長期出張で途切れてしまったが


続けて吉野ロボという項を再開したい。



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ここで説明しておきたいのであるが、、、、

吉野ロボというタイトルは私が吉野さんという愛知県で
ロボットを個人で作り研究している方に会いに行く、、

なぜ会いに行ったかと言うことを書きだしたのが始まりで
本来もうすでに吉野さんが登場していてもおかしくない
のだが、書き始めて色々なこれまで考えてきた事を纏め
はじめるとだんだん面積がおおきくなり、なかなかたどり
着けていないというのが現状です。おそらく、そこにたどり
着くまでにはまだ何回か先になるということだけ予めお断
りしておきます。


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以前の吉野ロボ2にて最後に記したのは



存在理由としての人間ではなく、存在そのものとしての
人間をしりたいのじゃないのかなぁ?



という事が日本人とロボット、とりわけヒューマノイドに固執した
開発の関わりにおいて、、、一番の接点というか根の深さなの
ではないかと類推したのであった。



なぜこのような事をアート・芸術を生業として標榜する私が
書き記さなくてはならないか?という疑問があってもしかる
べきであり、またこの記述が一体どこに出口をもって書き進めて
いるのか?ひょっとすると(いや確実かも・・)遠回りするだけして
何らの結論もない漂流と捉えられても仕方が無いのであるが・・・・



私の中では現在のロボットを中心とする科学とアートの関連
については漠然とではあるが、大きな接触点・面積を感じて
いるのである。



特に日本人がその部分において特別優れた感性をもって
いてこれからのアート概念・潮流を構築する”武器”になるよう
にも感じている。



武器になる根拠とは



少し強引な論法かもしれないが、



私はアート(便宜上芸術全般をここではそう総称する)は
概念的な端緒及びそれを如何に昇華したかの違い、もしくは
有無を別にして、概ね社会にとって”触媒”なのだと考えて
いる。



◎触媒の定義は、特定の化学反応の反応速度を速める物質で、
自身は反応の前後で変化しないものである。



これはあくまで科学的な説明を引用しているのであるが、
これを人間総体の社会とアートの関係性に置き直して考え
ていただければその比喩も理解していただけると思うので
あるが、アートという触媒が現在時点での社会に対して何
らかの化学反応的な変化をもたらすという、なにとなにを
触媒するかといえば、それは社会の中にある、歴史から堆
積されてきた現時点での感受性を新たなものへ変化させる
と言うことと、経済的な触媒機能があるように考えるので
ある。



反応を創出した、その時物質的なアートは何の変化もなく
その時点に留まる。しかし結果として歴史の一時点で機能
した触媒装置として残り続ける・・・・・



まぁ大半のアートが美術館や博物館にコレクションされ
ている根幹的な要素は機能を終えた触媒装置として陳列
されていると考えても差し支えないだろう・・・・


しかし、この触媒装置は時を経ると又機能し出すという
側面も内包しているから純然と科学的な触媒概念とは
異にするかもしれないが・・・・・・


村上隆というのはそういう意味では触媒機能を分かりや
すくした存在なのだと思う。


村上隆というアーティストは、私は2側面で触媒機能を
21世紀に突入した日本の中で発揮してきたと考える。



一側面は日本にあるアートビジネスの触媒


もう一側面は世界市場におけるアート概念という部分に
おいての触媒。



この二つが彼を象徴的存在にした、もしくは、していると
考えている。



アートビジネスにおける触媒というのは私がここで説明する
までもなく、欧米中心のマーケットの中で資本を中心とした
価値形成を体現した部分であり、これまで世界に評価される
という部分において不明瞭であった構造の一旦を露見させた
触媒効果は大きかったと思う。



当然その効果の最たるものは日本の中での価値と世界マーケ
ットでの相対性への問題定義であり、実質的な金銭の高から
くる相違点は大きなインパクトがあったと断言できる。又、
アートマーケットを形成する主要素としてのオークションの
存在を中心的に活動表現したのも彼が日本では間違いなく最
初のアーティストであると断言できる。



当然、世界の機能とは資本主義であり、そこには需要と供給
という基本的な関係性があり、アートといえどその物質的流
通構造は一緒である。と言うことは需給のバランスの中で生
まれる価格という簡単な結論が実はこれまでこの日本の中で
は存在しなかったという逆説的な説明を精緻に整合させ、こ
の国の中に存在するアートの価値、この場合資本・資産の方
が正確かもしれないが・・は何を根拠に算定されているのか?
という大いなる疑問の門戸を開かせたのと同時に、日本の中
でそういった事を実は司る機能もないというこれまである意
味のアンタッチャブルな部分にまでその触媒効果は発揮された・・・



この国内での革新を平明に言えば



アートの物質的な価値は、、、、、及びアーティストの
ヒエラルキーは必ず乱高下する状況に晒される、、と言
うことである。



これは当然世界の経済状況もその要因として
あるが、これは日本でもこれまで経験したが、
それ以外の要素、アーティストのサバイバルが
存在するという事である。



現役アーティストの価値は相対的な市場評価で
その位置が流動的存在であると言うことだ・・・・



当然現在朝日新聞にて論じられている”壇の存在”という
論説も、実は誰もが知っていたことである筈なのに、ここ
まで大きな反響が出るのは、もうその虚構になにも触媒
効果がないという事の証左でもある。



当然だと思う。需給の関係性を生み出す交換所でも
なければ、世界的な市場性と乖離した権威など、これ
からのマーケット志向の中で一体どんな立ち位置がある
のか?



滑稽なのは今、ミヤケイッセイや安藤忠雄などもうすでに
世界的に抱えきれないほどの栄誉に浴した者を選定
するというのは、少し逆説的な欺瞞が感じられる・・・
だからこれは権威があるのだよ・・的な、、、しかしもう
誰もだまされない?と言うよりも世界との相対から明確に
直言する。価値を形成できないものには・・・・価値はない。



単純である、需要と供給という関係性は需要が肥大し
供給が過小であると言うことから価値は促進される。


しかしそれをどこでどのようにやるのか?


この単純な疑問をある意味村上は自身をもって
説明したと言うことだと思う。



さて別の側面としての触媒効果、
世界市場におけるアート概念という部分であるが、、、、




(つづく)



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