November 20,2010
どうも今年も健康診断というやつを又、、
スッポかしてしまった・・
健康診断という時点を境に病気が判明した
もしくは健康診断後かなりの時間が経過して
から病気になった。これは健康診断後であるから
決して健康診断での見落としてではないのだが、
いずれにしても何が言いたいかと言えば、そうなると
一時点で健康かどうか?などという判断はそもそも
おかしいと言うことになりはしないか?そうなると健康
診断といえども、実際にはルーレットやもしくはダーツ
のように、たまたまタイミングが合えば判明するという
ような事が本質のような気がしてならないのである。
健康診断で判明しない場合もしくは健康診断を
受けていないという人間が病気というものを感知
するのは変調というポイントを自分で感じた時だけ
であり、この場合、手遅れもしくは早期という、また
これも一種のゲームのようなものとなる・・・
まぁ、毎日健康をチェックする事があれば万事
先ほど述べた事は解決するのであるが、そうなると
基本は人間は病気持ちであるということが前提と
なり、健康などというのは一種の奇跡的な状態
であると言うことが言えなくもない・・・
と、実にくだらないことを書き連ねたのであるが、
私は小さい頃から不思議であったのは、家に
家庭用医学という分厚い本があったのであるが、
何のためにあるのか実に不思議でしょうがなかった。
大体変調を来すと、こんな本を読むより前に
医者に!と大抵はなる。先ず本を読みなどという
ことはほとんど無いのである。仮に実際に読んだ
ところで”かな””かも”という素人考えで近似値を
掴む程度にしかならず、、しかしそれは結局、自分で
勝手に病気になっているのに過ぎず、そうなると
かえって病気を知ろうという為の本が、実は精神衛
生上とんでもなく悪い書という事になり、極論から
言えばない方が良い書物なのだと思うのである
しかしこの”ぶっとい本”はずっと同じ所に陣取り何
の役も果たすでもなくずっと家にある。多分今も同
じ所にあると思うのであるが・・
何というのかお札のような存在とでもいうのか?
しかしある時気づいたのであるが、、この”ぶっとい本”
だが、、最初のページから最後まで全部病気が載って
いるのではないか?実に当たり前と言えば当たり前
の事なのであるが、そうなると驚くことに、私たちは一括
して先ず病気などと総称しているが、実際にはそれが
如何ほどの種類及び厄介なことにそこに重度軽度と
いう状態が加味されることに全く無頓着であることを
愕然と知ることになる・・
まぁ平たく言えば、こんなにも病気があるのに、この
中のどれ一つにも当てはまってないと言うことがある
のだろうか?と素朴な疑問が沸いてくる・・・・
どれも当てはまらない、故に君は健康だ!
などと思えるだろうか?やはり人間はまず病気が
あるという前提で成り立っているのではないか?
もしくは極端かもしれないが、病気に向かって生き
ていると言うことなのかもしれない・・・
あまりにも不健康な考え方であり、それは何の
健康不安もない人間の奢りだと言われれば、
まさにその通りかもしれない。しかし、極論かも
しれないが、時間軸が違うだけで結局、皆だれも
老いていき必ず身体に変調がくることは間違いない
事実であると思うのである。
なんでこんな事を書くのかと言えば、
病気って当然くるというのが最近の率直な感想
なのである。
もっと言えば、理解しかねるかもしれないが
ある日突然”壊れた”という感覚、こういう感覚
に最近なっているのである。
若いときはそんな事微塵も感じなかったのであるが
最近とみに感じるようになったのである。
先日も突如歯が痛くなり歯科医に行ったのであるが
診断の結果歯石というのがたまり云々・・とよく分からない
のであるが、私にとっての不思議というのか何故という
ポイントは、、、
なんで昨日まで何の痛みも無かったものが今日どうして
突然現れるのか?その境目はなんなのか?という事
なのである。その境目にある線が実に不思議というのか
・・・・
実はそんな事がこの2,3年結構あり、私の中では実は
壊れたという感覚がかなりを占めているのである。
何故壊れたという表現を使うかと言えば、
例えばパソコンやテレビや車なんかもそう
だと思うのだが、壊れるときは突如やって
くる場合がある。確かに予兆というのか前兆
のようなものがありだんだんと壊れていくという
事もあるが、実際突然動かなくなることも
ある。そんな時必ず壊れたという表現をする
のであるが、それに近いなぁというのが私の
感覚である。
この場合も同様に昨日まで動いていたものが
なんで急に止まるのか?その境目は一体なに?
そんな感じがするのである。
人間の身体を機械に例えるのもどうかと思うが、
実は機械は案外人間の身体を模して作られている
部分が大きくあるのではないか?と私は勝手に想像
している。
基本的に形状とかそういった事ではなく、テレビに
してもパソコンにしてもある種の知能的な構造が
人間に似ていたり、逆に人間との相互感覚の調和
という前提があり作られているような気がするのである。
なぜ白黒テレビからカラーテレビ、より美しく鮮明なもの
この必要性とはなにから生まれているのか?別に物事の
状態を伝えるだけで良いのであるならば白黒で十分で
ある。実際我々は新聞というものにおいては未だに白黒
部分による情報伝達で処理しておりそれになんら疑問
や不満は感じていない。しかしテレビはどんどんそう言った
ことを改善というのか進化させている。今や3Dである・・
何のためにと冷静に考えても、新たな技術によりマーケット
を拡大してとかいろいろな理由があったり、常に技術革新
がなんの疑いもなく起こるという事になるのかも知れないが
根本はなにか?と言えばなんとなく、人間が裸眼で見ている
機能に如何に近づけるかもしくはその裸眼機能の上を行くか
という、やはり人間の機能と寄り添うような観念がそこには
あるような気がしてならない。
人間の視覚は脳との関係に依拠していることは分かって
いるが、実は画像の駒を取り込んで脳で瞬時に判断して
その画像の意味と連続性を成り立たせているのであるが、
実はその優先順位として先ず立体的な把握を脳は指示
するらしのであるが、その場合の情報処理と対象の整合が
取れない場合所謂”錯視”と呼ばれる現象が起きてしまう。
ここから考えれば実に人間という精巧な構造にも僅かな
欠陥があることに気づかされる。しかし3Dなどというものは
ある意味そういう人間の構造上の限界点を可視化する
試みのような気がしてそれもやはり人間の肉体構造からの
発想のような気がするのである。

壊れたと言う感覚が増すもう一つの要因は、確かに病気や
怪我などによって壊れたとしても人間はある程度再生させる
機能を持っていることに気づく。しかしもう一つ言えるのは
必ずしも一度痛んだものは完璧には戻らないということも
そこには厳然と存在する。そこから考えれば、ある意味かなり
精巧に作られているのだなぁ?と改めて感じることがあるのである。

もっと掘り下げて考えると、実際人間の身体の循環システム
というのか構造はかなり緻密かつ複雑な構造によってなりたって
いる。例えば神経や血管、骨組みに至るまで、なぜこんな
上手くできているのか?と驚くほどに精巧であり、人間の生活
上不満が起きない構造がある?いや実際には人間の身体の
構造上から可能な生活を人間が歴史を重ねて作り出した
と言う方が正しいかもしれないが、いずれにしても精巧なのは
間違いない。
また、食物を食べて栄養素を取りだし老廃物として輩出
するという事が、自分の意思とは別に身体の構造として
日夜動いていることに驚愕する。
当たり前ではないか、と言われればその通りなのであり
人間以外の動物も皆そのような仕組みの中で生命を
維持している。しかしである、なぜこのような複雑な仕組み
が出来上がったのか?分かる人間がいるだろうか?
少し形而上学的で不毛と思われる向きも多いかもしれないが
私は実はそんな事を常々考えている。
誰が作った
神、仏という答えは実にありがい存在としてある。
まぁある程度それで解決してもいいのであるが、、
しかし、率直な疑問としてなんで、心臓は動き続けているのか?
実に不思議で仕方がない。
そう考えると自分の身体はなんで動いていて生命
維持の機能としての人間の精巧な構造を大半は
分からず、人間という姿形の肉体を着ているように
思うのは私だけなのだろうか?
まぁ近い感覚としてあげられるのは、車やパソコン、なんかも
その起動や維持の原理などほとんど知らなくても人間は
当たり前に活用している。だから壊れた、、などと言うことで
その機能が停止した時にあきらめを付けたりしている。
しかしホントは壊れると壊れていないという境目は一体
何が支配しているのかほとんど理解できていない。
基本は主体性が無いのである。その線は一体誰が
引くのか、、、そう考えると機械にしても人間にしても
起動している事に関しての構造上の主体性はまったくない。
強いて言えば
『おかげさまで、なんか良く分からないのですが偶然、壊れずに
生きています』というのが実際は正しいように思う。
ここから面白いなぁと思うのは、、人間とくに日本人と限定
してもいいのだが、ロボットという存在である。
なぜか日本人はロボットを作ろうと考えた場合、人間に近い
ものを猛然と考え出す。所謂ヒューマノイドと言う奴なのであるが、
西洋的なロボットの概念を考えれば、ロボットはそんなものである
必要はない。どちらかと言えば合理主義にかなう部分の補助的
役割の色が濃い、例えば工業用のロボットなどが良い例なのだが
産業革命以降、基本的には合理主義的概念による革新的社
会の発展、これが所謂ロボットの概念の底流にあるように感じる
のであるが、なんというのか日本人はなぜか人間そっくりなロボット
を追い求める。
これは何故かは分からないが、どこかで先述した偶然生きている
自分というモノを感じていて、その壊れる境界となる線を探して
いるような気が私はするのである。
可笑しいなぁと思うのは、ロボットが人間と同じような表情をした
などという事が出ると、皆見たがる。かくいう私も率先して見たい。
しかし冷静に考えればそんなものを見てなんになるのかという
冷静さも実は皆持ち合わせている。しかし見たい。これは何が
見たいのだろうか?
アイボという人工知能を有したペットロボットが以前存在したが、
なんでこんなものを日本人は作り出したのであろう?実に不思議
である。生き物で良いのではないかとも思うが、これはこれで別の
感覚としての生き物を感じているのである・・・・
私は思うのであるが、、
ロボットを作るというのは実は人間というものを知る一番の方法
なのではないか?と常々感じている。その肉体的構造も、ましてや
日本人は感情という部分までもロボットに担わそうとしている。
その感性から二次元世界のアニメーションではロボットというものが
人格を持ちという発展をさせたりエゴイズムを生ましたりという事を
夢想したりもしている。
別にそういった問題を想起するならば、作る必要もないのではないか?
と単純に思うのであるが、それが何故か猛烈に作っているのである。
まぁ、、からくり人形にしても、なぜ茶を運ばせるのか?
実にその発想が面白いのである。劇的な合理性というよりも
非合理性、、本来お茶を作る部分に合理性を認めれば
良いものを、どうでもよい運ぶ方に着眼するその考え方
が可笑しいのと同時になんの疑問もなく拍手喝采するその
感覚と連綿と邁進するその発想は何とも言えない可愛らしさがある。
以前、養老孟司さんが何かで語っていたが、機械とりわけ今の
コンピューターにおける知能は基本的に記憶容量の増大の恩恵が
大きいと語っていた。
確かにここ数年で記憶媒体の容量は格段に進化を遂げている。
ビット(bit) → バイト(B) → キロバイト(KB)
→ メガバイト(MB) → ギガバイト(GB) → テラバイト(TB)
テラバイトというのが一番大きな容量の単位になるのであるが
実際人間の記憶容量とはという疑問については
約1.25テラバイトらしいのである。
こう書いてもなんの感覚も生まれないが、
これを感覚的に分かるようにある例えを並べると
12テラバイトという約10倍で見てみると
その容量は
メモ用紙片面 : 約52億8000万枚分
電話帳 : 約100万6633冊分
オーディオCD : 約1万9358枚分
DVD : 約2614枚分
200GBのハードディスク : 約61個分
に相当する。これの約10分の一を考えれば
人間の記憶容量というものが大体感じ取れる
メモ用紙で5億枚分の機能が人間の知能には
備わっているらしいのである。。。。。
実際現在コンピューターの記憶容量は人間の
その数値を遙かに凌ぐものがあるらしい。
しかし養老孟司さん曰わく、そんなモノでは
人間というモノは作り出せないらしいのである。
これは単純な感覚として理解できる。
そんな機械に我々生身の人間がつくれるかい!
と威勢の良いことを言いがちだが
本質的にはなにも分かっていない。
逆から考えれば、これほどの英知をもって
しても作り出せない存在が人間なのであり、
その一人一人の緻密かつ精巧な構造は
現実の人類総体の知能を結集しても
作り出すことが出来ない。と言うことは
ある種、奇跡的に生まれて活動してい
るとしか思えない存在なのである。
今の我々は奇跡的に成り立っている。
これが壊れるというのは実際どれほど
恐ろしいことか・・・・
例えば3000万円のフェラーリを平然と
破壊できる人間がどれほどいるのか?
しかし人間一個人で其の感覚と整合
させた場合、フェラーリなど実に安価な車
でしかないのである。所詮人間の英知の
何割かで作り出せるものでしかない。
しかしそれに比べて人間と言えば、先述
の通り人間総体の英知を合わせても決して
作りだせない代物なのである。
こんな奇跡的な存在という事を解れば、、、、、
人は簡単に人を殺したりできないのではないだろうか?
二度と作り出す事ができないような存在。
奇跡的に存在する存在・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
などと考えてしまう。
自分がそんな大層な存在とは思わないが
たまに壊れる自分の身体を感じながら
なんかそんな事をフワフワ考えていると
憎たらしい奴も
可愛く感じる・・・

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スッポかしてしまった・・
健康診断という時点を境に病気が判明した
もしくは健康診断後かなりの時間が経過して
から病気になった。これは健康診断後であるから
決して健康診断での見落としてではないのだが、
いずれにしても何が言いたいかと言えば、そうなると
一時点で健康かどうか?などという判断はそもそも
おかしいと言うことになりはしないか?そうなると健康
診断といえども、実際にはルーレットやもしくはダーツ
のように、たまたまタイミングが合えば判明するという
ような事が本質のような気がしてならないのである。
健康診断で判明しない場合もしくは健康診断を
受けていないという人間が病気というものを感知
するのは変調というポイントを自分で感じた時だけ
であり、この場合、手遅れもしくは早期という、また
これも一種のゲームのようなものとなる・・・
まぁ、毎日健康をチェックする事があれば万事
先ほど述べた事は解決するのであるが、そうなると
基本は人間は病気持ちであるということが前提と
なり、健康などというのは一種の奇跡的な状態
であると言うことが言えなくもない・・・
と、実にくだらないことを書き連ねたのであるが、
私は小さい頃から不思議であったのは、家に
家庭用医学という分厚い本があったのであるが、
何のためにあるのか実に不思議でしょうがなかった。
大体変調を来すと、こんな本を読むより前に
医者に!と大抵はなる。先ず本を読みなどという
ことはほとんど無いのである。仮に実際に読んだ
ところで”かな””かも”という素人考えで近似値を
掴む程度にしかならず、、しかしそれは結局、自分で
勝手に病気になっているのに過ぎず、そうなると
かえって病気を知ろうという為の本が、実は精神衛
生上とんでもなく悪い書という事になり、極論から
言えばない方が良い書物なのだと思うのである
しかしこの”ぶっとい本”はずっと同じ所に陣取り何
の役も果たすでもなくずっと家にある。多分今も同
じ所にあると思うのであるが・・
何というのかお札のような存在とでもいうのか?
しかしある時気づいたのであるが、、この”ぶっとい本”
だが、、最初のページから最後まで全部病気が載って
いるのではないか?実に当たり前と言えば当たり前
の事なのであるが、そうなると驚くことに、私たちは一括
して先ず病気などと総称しているが、実際にはそれが
如何ほどの種類及び厄介なことにそこに重度軽度と
いう状態が加味されることに全く無頓着であることを
愕然と知ることになる・・
まぁ平たく言えば、こんなにも病気があるのに、この
中のどれ一つにも当てはまってないと言うことがある
のだろうか?と素朴な疑問が沸いてくる・・・・
どれも当てはまらない、故に君は健康だ!
などと思えるだろうか?やはり人間はまず病気が
あるという前提で成り立っているのではないか?
もしくは極端かもしれないが、病気に向かって生き
ていると言うことなのかもしれない・・・
あまりにも不健康な考え方であり、それは何の
健康不安もない人間の奢りだと言われれば、
まさにその通りかもしれない。しかし、極論かも
しれないが、時間軸が違うだけで結局、皆だれも
老いていき必ず身体に変調がくることは間違いない
事実であると思うのである。
なんでこんな事を書くのかと言えば、
病気って当然くるというのが最近の率直な感想
なのである。
もっと言えば、理解しかねるかもしれないが
ある日突然”壊れた”という感覚、こういう感覚
に最近なっているのである。
若いときはそんな事微塵も感じなかったのであるが
最近とみに感じるようになったのである。
先日も突如歯が痛くなり歯科医に行ったのであるが
診断の結果歯石というのがたまり云々・・とよく分からない
のであるが、私にとっての不思議というのか何故という
ポイントは、、、
なんで昨日まで何の痛みも無かったものが今日どうして
突然現れるのか?その境目はなんなのか?という事
なのである。その境目にある線が実に不思議というのか
・・・・
実はそんな事がこの2,3年結構あり、私の中では実は
壊れたという感覚がかなりを占めているのである。
何故壊れたという表現を使うかと言えば、
例えばパソコンやテレビや車なんかもそう
だと思うのだが、壊れるときは突如やって
くる場合がある。確かに予兆というのか前兆
のようなものがありだんだんと壊れていくという
事もあるが、実際突然動かなくなることも
ある。そんな時必ず壊れたという表現をする
のであるが、それに近いなぁというのが私の
感覚である。
この場合も同様に昨日まで動いていたものが
なんで急に止まるのか?その境目は一体なに?
そんな感じがするのである。
人間の身体を機械に例えるのもどうかと思うが、
実は機械は案外人間の身体を模して作られている
部分が大きくあるのではないか?と私は勝手に想像
している。
基本的に形状とかそういった事ではなく、テレビに
してもパソコンにしてもある種の知能的な構造が
人間に似ていたり、逆に人間との相互感覚の調和
という前提があり作られているような気がするのである。
なぜ白黒テレビからカラーテレビ、より美しく鮮明なもの
この必要性とはなにから生まれているのか?別に物事の
状態を伝えるだけで良いのであるならば白黒で十分で
ある。実際我々は新聞というものにおいては未だに白黒
部分による情報伝達で処理しておりそれになんら疑問
や不満は感じていない。しかしテレビはどんどんそう言った
ことを改善というのか進化させている。今や3Dである・・
何のためにと冷静に考えても、新たな技術によりマーケット
を拡大してとかいろいろな理由があったり、常に技術革新
がなんの疑いもなく起こるという事になるのかも知れないが
根本はなにか?と言えばなんとなく、人間が裸眼で見ている
機能に如何に近づけるかもしくはその裸眼機能の上を行くか
という、やはり人間の機能と寄り添うような観念がそこには
あるような気がしてならない。
人間の視覚は脳との関係に依拠していることは分かって
いるが、実は画像の駒を取り込んで脳で瞬時に判断して
その画像の意味と連続性を成り立たせているのであるが、
実はその優先順位として先ず立体的な把握を脳は指示
するらしのであるが、その場合の情報処理と対象の整合が
取れない場合所謂”錯視”と呼ばれる現象が起きてしまう。
ここから考えれば実に人間という精巧な構造にも僅かな
欠陥があることに気づかされる。しかし3Dなどというものは
ある意味そういう人間の構造上の限界点を可視化する
試みのような気がしてそれもやはり人間の肉体構造からの
発想のような気がするのである。

壊れたと言う感覚が増すもう一つの要因は、確かに病気や
怪我などによって壊れたとしても人間はある程度再生させる
機能を持っていることに気づく。しかしもう一つ言えるのは
必ずしも一度痛んだものは完璧には戻らないということも
そこには厳然と存在する。そこから考えれば、ある意味かなり
精巧に作られているのだなぁ?と改めて感じることがあるのである。

もっと掘り下げて考えると、実際人間の身体の循環システム
というのか構造はかなり緻密かつ複雑な構造によってなりたって
いる。例えば神経や血管、骨組みに至るまで、なぜこんな
上手くできているのか?と驚くほどに精巧であり、人間の生活
上不満が起きない構造がある?いや実際には人間の身体の
構造上から可能な生活を人間が歴史を重ねて作り出した
と言う方が正しいかもしれないが、いずれにしても精巧なのは
間違いない。
また、食物を食べて栄養素を取りだし老廃物として輩出
するという事が、自分の意思とは別に身体の構造として
日夜動いていることに驚愕する。
当たり前ではないか、と言われればその通りなのであり
人間以外の動物も皆そのような仕組みの中で生命を
維持している。しかしである、なぜこのような複雑な仕組み
が出来上がったのか?分かる人間がいるだろうか?
少し形而上学的で不毛と思われる向きも多いかもしれないが
私は実はそんな事を常々考えている。
誰が作った
神、仏という答えは実にありがい存在としてある。
まぁある程度それで解決してもいいのであるが、、
しかし、率直な疑問としてなんで、心臓は動き続けているのか?
実に不思議で仕方がない。
そう考えると自分の身体はなんで動いていて生命
維持の機能としての人間の精巧な構造を大半は
分からず、人間という姿形の肉体を着ているように
思うのは私だけなのだろうか?
まぁ近い感覚としてあげられるのは、車やパソコン、なんかも
その起動や維持の原理などほとんど知らなくても人間は
当たり前に活用している。だから壊れた、、などと言うことで
その機能が停止した時にあきらめを付けたりしている。
しかしホントは壊れると壊れていないという境目は一体
何が支配しているのかほとんど理解できていない。
基本は主体性が無いのである。その線は一体誰が
引くのか、、、そう考えると機械にしても人間にしても
起動している事に関しての構造上の主体性はまったくない。
強いて言えば
『おかげさまで、なんか良く分からないのですが偶然、壊れずに
生きています』というのが実際は正しいように思う。
ここから面白いなぁと思うのは、、人間とくに日本人と限定
してもいいのだが、ロボットという存在である。
なぜか日本人はロボットを作ろうと考えた場合、人間に近い
ものを猛然と考え出す。所謂ヒューマノイドと言う奴なのであるが、
西洋的なロボットの概念を考えれば、ロボットはそんなものである
必要はない。どちらかと言えば合理主義にかなう部分の補助的
役割の色が濃い、例えば工業用のロボットなどが良い例なのだが
産業革命以降、基本的には合理主義的概念による革新的社
会の発展、これが所謂ロボットの概念の底流にあるように感じる
のであるが、なんというのか日本人はなぜか人間そっくりなロボット
を追い求める。
これは何故かは分からないが、どこかで先述した偶然生きている
自分というモノを感じていて、その壊れる境界となる線を探して
いるような気が私はするのである。
可笑しいなぁと思うのは、ロボットが人間と同じような表情をした
などという事が出ると、皆見たがる。かくいう私も率先して見たい。
しかし冷静に考えればそんなものを見てなんになるのかという
冷静さも実は皆持ち合わせている。しかし見たい。これは何が
見たいのだろうか?
アイボという人工知能を有したペットロボットが以前存在したが、
なんでこんなものを日本人は作り出したのであろう?実に不思議
である。生き物で良いのではないかとも思うが、これはこれで別の
感覚としての生き物を感じているのである・・・・
私は思うのであるが、、
ロボットを作るというのは実は人間というものを知る一番の方法
なのではないか?と常々感じている。その肉体的構造も、ましてや
日本人は感情という部分までもロボットに担わそうとしている。
その感性から二次元世界のアニメーションではロボットというものが
人格を持ちという発展をさせたりエゴイズムを生ましたりという事を
夢想したりもしている。
別にそういった問題を想起するならば、作る必要もないのではないか?
と単純に思うのであるが、それが何故か猛烈に作っているのである。
まぁ、、からくり人形にしても、なぜ茶を運ばせるのか?
実にその発想が面白いのである。劇的な合理性というよりも
非合理性、、本来お茶を作る部分に合理性を認めれば
良いものを、どうでもよい運ぶ方に着眼するその考え方
が可笑しいのと同時になんの疑問もなく拍手喝采するその
感覚と連綿と邁進するその発想は何とも言えない可愛らしさがある。
以前、養老孟司さんが何かで語っていたが、機械とりわけ今の
コンピューターにおける知能は基本的に記憶容量の増大の恩恵が
大きいと語っていた。
確かにここ数年で記憶媒体の容量は格段に進化を遂げている。
ビット(bit) → バイト(B) → キロバイト(KB)
→ メガバイト(MB) → ギガバイト(GB) → テラバイト(TB)
テラバイトというのが一番大きな容量の単位になるのであるが
実際人間の記憶容量とはという疑問については
約1.25テラバイトらしいのである。
こう書いてもなんの感覚も生まれないが、
これを感覚的に分かるようにある例えを並べると
12テラバイトという約10倍で見てみると
その容量は
メモ用紙片面 : 約52億8000万枚分
電話帳 : 約100万6633冊分
オーディオCD : 約1万9358枚分
DVD : 約2614枚分
200GBのハードディスク : 約61個分
に相当する。これの約10分の一を考えれば
人間の記憶容量というものが大体感じ取れる
メモ用紙で5億枚分の機能が人間の知能には
備わっているらしいのである。。。。。
実際現在コンピューターの記憶容量は人間の
その数値を遙かに凌ぐものがあるらしい。
しかし養老孟司さん曰わく、そんなモノでは
人間というモノは作り出せないらしいのである。
これは単純な感覚として理解できる。
そんな機械に我々生身の人間がつくれるかい!
と威勢の良いことを言いがちだが
本質的にはなにも分かっていない。
逆から考えれば、これほどの英知をもって
しても作り出せない存在が人間なのであり、
その一人一人の緻密かつ精巧な構造は
現実の人類総体の知能を結集しても
作り出すことが出来ない。と言うことは
ある種、奇跡的に生まれて活動してい
るとしか思えない存在なのである。
今の我々は奇跡的に成り立っている。
これが壊れるというのは実際どれほど
恐ろしいことか・・・・
例えば3000万円のフェラーリを平然と
破壊できる人間がどれほどいるのか?
しかし人間一個人で其の感覚と整合
させた場合、フェラーリなど実に安価な車
でしかないのである。所詮人間の英知の
何割かで作り出せるものでしかない。
しかしそれに比べて人間と言えば、先述
の通り人間総体の英知を合わせても決して
作りだせない代物なのである。
こんな奇跡的な存在という事を解れば、、、、、
人は簡単に人を殺したりできないのではないだろうか?
二度と作り出す事ができないような存在。
奇跡的に存在する存在・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
などと考えてしまう。
自分がそんな大層な存在とは思わないが
たまに壊れる自分の身体を感じながら
なんかそんな事をフワフワ考えていると
憎たらしい奴も
可愛く感じる・・・

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