November 4,2010
2008年1月4日年始
私があるところである種の怒りを
持って書いた個人的な”日記”で
ある。
今から3年近く前
当然今とは状況が違う筈なのであるが
さほど今と感情的に変わらない事に
茫漠とした感覚を覚えた・・・・・・
ほぼ変わってない。。
この時分と今との大きな違いは
政権が自民党であったということ
衆参ねじれの現象の中で
大連立を模索していたということである。
今とは大いに政治状況が違う
筈なのであるが・・・・
さほど違和感を感じないのは
まさしくこの国が未だ
。。。。。。。。。。。
と言う事は”0”ではなく
マイナスということでは??
・・・・・・・・・・
----------------------------------------
年末、週刊文春を久振りに買った。
たいして面白くなかったのであるが、
あるコラムに目がとまった。
何しろ歴史すきなもので!というタイトルで、
各界の著名人が、自らが過去啓発された歴史
書籍から現代を読み解く重要な要素をそれぞ
れがコメントをしていた。
これは慧眼であり、実におもしろかった。
何人かいたのであるが、私がおもしろかった
のは、二人である。
佐藤優が語る「新自由主義下のマルクス」。
今こそ『資本論』を読むべきだ。という文章と、
関川夏央が語る「司馬遼太郎文学の深淵」。
『坂の上の雲』に見る司馬遼太郎の勇気。
佐藤優は言わずと知れた鈴木宗男議員の懐刀
として活躍?した外務官僚であり、現在、起
訴休職外務事務官である。このひと、例の事
件以降結構な著述活動をしており、その内容
が斯界の間で高い評価を得ている。ひところ
外務省のラスプーチンなどという恐ろしげな
異名をとっていたが、最近著作以外のこうい
った週刊誌のコラムなどに自らの考えを示し
ているのだが、これが実に的確で面白い。い
や、かなりの常識人でもあり、くだらない解
説者など足元にも及ばないぐらいの識見があ
る。
実は私、彼の書いた本までは買ったことはな
いが、かれの週刊誌のコラムは結構マメに読
んでいる。案外この人の実相とは?と過去の
捜査から我々が受けた印象、マスコミが作り
上げた人物象と実際の人物象とのギャップが
一番分り易い存在なのではという、一種のア
ビルノ的な見方をしている。マスコミという
恐ろしい怪物に翻弄されたのであるが、実は
そのマスコミを使い、遅ればせながら内部か
ら真実を炙りだしているような気がするのと
同時に、いかにマスコミが単純な表層的な印
象からしか物事を伝えていないか、また大衆
を無暗に扇動し、終わりのない、結論のない
無責任な百姓一揆を誘発しているのかが、こ
の人物の見解をみるにつけ感じるのである。
彼が書いたこの今こそ資本論を読むべきだと
いう記述は、短文なのであるが実に優れてい
る。
彼はマルクスの資本論こそが人間が築く社会・
歴史という物語の構造を深く解明したもので
あると定義する。
そして彼はマルクスの資本論が示す歴史的な
構造を4つの論拠をもって分り易く解説し、
その限界を指し示すと同時に現代社会の壁を
提示し、そして資本論を再読することが、そ
の壁を突破出来得るヒントが隠れていると提
唱しているのである。
4つの論拠とは
1、交換形態から生まれる貨幣が人間を支配
していく過程。
2、貨幣が資本を生み出し、巨大な資本の運
動性が人間を束縛し、思想・生活などの
様式を規定する。
3、モノと金の交換には宗教性が埋め込まれ
ておりそう信じられているが,実は、モノ
が金に変わるその過程には宗教性とはか
い離した「命がけの 飛躍」があり、
通常の宗教観が崩れた途端、恐慌が起き
る。しかしながら資本主義とは強固であ
り資本主義が崩壊することはない。
4、マルクスは資本主義という特殊なガン細
胞を発見はしたが、ガン細胞の増殖?進
行を、後世に対しての明確な治療の処方
箋を書き残さなかった。
以上が論拠4点である。しかし、ここからが
彼の慧眼である。
彼が警鐘する最大は、この資本主義とどう付
き合っていくか?ここに新自由主義の危機要
素を嗅ぎ分けている。。
資本を中心とした社会とそれから構築した規範に、
漠然とした宗教観をふんわりとくるんだだけの現
代は、実は現実的な危機に無頓着になり過ぎてい
る。
実相の把握と長期的な展望が著しく欠如し、その
場その時の対応としての資本の論理は整合してい
るが、実はそれらの対処が深層の部分では崩壊が
始まり、恐慌の序章なのではないか?と考えるの
である。
命がけの飛躍をどの部分、どう言った内容にて仮
託し説明を位置づけるのか、信じられた宗教観を
どのように変化させるのか?これは大きな問題が
横たわっているのだが、誰も明確にその姿を示し
切れていない。
具体的には、ローコストオペレーションにて会社
や店を運営する。これは資本の論理としては整合
を果たすのである。しかし、現場の個々からする
とそれらの資本論理の整合を果たした環境は優れ
た仕事の現場とは言いがたくなる。
人数不足やそこからくる、規範、モラルの低下、
最大はその悪環境で一生懸命働いても評価されな
いという個々人の社会性としては最大のモチベー
ションが欠如しつづけ、そして評価をするための
現場を把握する人間すらが資本の論理のためだけ
にしか存在せず、資本の論理以外には的確人材が
不在であり、個々の努力や向上心が人事考課には
まったく反映されない。
ということは、個人個人の資本としては一向に給
料が上がるわけではなく、個人の交換の論理から
言うと、おそろしいデフレ傾向になってしまう。
働くほど自らの労働交換比率が下がるのである。
しかし、資本家からすると最大公約数としての資
本の整合を取り易くなる。ここに恐ろしい乖離点
が生まれ、その一穴をもって崩壊が始まる。すべ
てが資本の論理で貫かれ、金銭で社会の人的構造
が換算可能となってしまったため、個人がバラバ
ラになってしまう。
これは単純に数の論理の頂点でもあるのだが、こ
れが果たしてすべての到着点なのだろうか?数の
論理で解決しないものはこの今進行している資本
の論理で如何様に解決し、整合させるのか?これ
は今新たなテーマではない筈であり、形は変われ
ど、なんども繰り返される人間が作り出した空虚
な資本飽和社会との接触点における問題である。
しかし、今このポイントを整理し、過去から学ぶ
ことが如何に大事か、そしてそれはもう過去の産
物となってしまったかもしれないが、資本の形成
過程を、歴史的物語構造を最も深く解明した資本
論に求めるという佐藤の考え方はひょっとすると
今の我々には至極当たり前でありかつ賢明な選択
肢なのでは?と考えさせられた。。。この人が世
間から批判されたことが仮に真実だったとしても、
それはある種の手段であり、その奥にあった目的
とはいかなるものだったのか?これには大きな興
味を抱いていしまうのと同時に、それが頓挫する
この国のとてつもない稚拙な論理が虚無感を誘う。。
本来的な常識とは一体何なのだろうと?
そしてもうひとつ、関川夏央が語る「司馬遼太郎
文学の深淵」。『坂の上の雲』に見る司馬遼太郎
の勇気。であるが、これも短文なのであるが、こ
の国の現況をするどく論じている。
私は関川某なる作家はまったくしらないのである
が、かれが評する司馬遼太郎の文学史観は素晴ら
しいものがあった。
結論的に司馬遼太郎の志とは、全体小説にあった!
と喝破している。
この全体小説とはなにか?純文学に見られがちな
「個人」の中に閉じこもり、個人の意識の流れを
中心に展開をするのではなく、ある国民のある時
期の運命の全体像、または時代精神そのものを描
く試みのことを示すのである。
ここに司馬遼太郎が晩年こだわった「この国のか
たち」という言葉と考え方に、全体小説によって
訴え続けた志が読み解けるような意図が存在する
ように思える。
この『坂の上の雲』を書いた時代、日本は左翼思
想が社会を席捲しており、決して社会的な思想の
流行に合一したテーマでは無かった。国民国家の
到達点である日露戦争を描くということは、左翼
的思想家たちから歓迎どころか、誤解を招いても
仕方のない、いやそれどころか具体的なテロルも
考えられたところなのだが、あえてこの時代にそ
ういった内容を上梓するということが、この時代
に対しての警鐘であり、流行ということへの反駁
と本質からの逃避する蒙昧無知な指導者への挑戦
状だったと考えられる。
司馬遼太郎が歴史小説を書くきっかけを以前語っ
ているのを見た事がある。端的に、この国はいつ
から“アホ”になったのか?その源流を知りたか
った。
日露戦争を指導した日本人と第二次世界大戦を犯
した日本人は明らかに異質であり、到底この間約
50年の間の変質は理解しがたいと彼は語っていた。
ここに彼の全体小説が持つ最大のコンセプトが存
在したのであり、常に高い次元、過去から学び続
け発展するだけの要素をふんだんに持ち合わせな
がら、凝固しないこの国のかたち、そして本質や
常識を定義・訴求できないこの国の指導者や知識
階層を憂いていた彼の思想が読み解ける。
関川夏央が語る、司馬遼太郎とは反流行というこ
とに敏感な人であり、戦前・戦中・戦後を通じ人
々がこぞって叫ぶものはすべていかがわしい、結
局流行にすぎないと言い続けた人であり、一言で
いって偉大な常識人であったと・・・
そして、国家において、孤立した天才の技術に頼
ることは一代限りでしかないが、傑出した常識人
の技術は教育によって伝達できると確信していた
人でもあったと。。
これら二つの書評は、僅か2ページに書かれていた
ものであり、気を付けなければ読みすごしてしま
う。
しかし、偶然目に留まった。そして僅かな時間で
読み、その慧眼に瞠目した。
この二つの書評には現代に通じ、解決までとはい
かないまでも一つの大きな考え方のテーマが存在
する。そしてこの二つは歴史ということから今の
時代をどう読むのか先人が残した課題と指針を改
めて冷静に引き継ぐ必要性に迫られている状況を
示唆しているように感じたのである。
人口が明らかな減少を示した。これはある程度想
定されていた事象なのであるが、私は同時に、こ
の減少が時間的にいつ落ち着くのかも考えておか
なくてはいけないと思う。そのとき日本の人口は
8000万人なのか6000万人なのかわからないが、単
純に考えても、これらの人口による国家形成は過
去通過してきた筈であり、その時点が一体いつな
のか?これは歴史的時系列として把握しておくこ
とは大きな検証項目だと考えている。人口が飛躍
的に伸びた時点よりも、現在の人口低減がおちつ
く時点が過去のどの時代に合致するのか?ここに
歴史的な問題点が集約しており、その過去の時代
に表出した問題が案外現代の病巣を集約している
ように感じるのである。
社会情勢がまったく違う!や国家の成熟度合いが
違うと言えども、所詮人間の数からくる国家の形
成に違いはない。それよりも大事なのは人口が一
億数千とこの何十年か経験したことのない境地だ
ったのが、この時点で過去経験した人口による国
家形成に逆戻りになるのである。今後は過去の経
緯と比較対照することが可能になり、そこから判
断出来得ることが結構多く存在するのではないか
と考えるのである。私は漠然とでしかないが、な
んとなく諸問題の根源が人口に比例するような気
がしてならないのだ。
歴史とは時間の推移を中心として考えがちである
が、この時間的推移には主観的な判断は存在しな
い。現象をすべて列記したにすぎないような気が
するのである。
しかし人間を中心に歴史を考えた場合、人がその
つど死にそして誕生するというような人間社会の
世代間の入れ替わりが、歴史の大きな連続性を生
み出す波動を示しているような気がするのである。
だから人口の推移が意外と人間の歴史と一番深く
かかわる部分であり、歴史物語性を構成する上で
一番重要な運動法則のような気がするのである。
だからこそ人口減少という事象は過去のある時点、
それも我々が仕出かした大きなブラックホールの
ような過ちの穴に吸引されているような感覚が芽
生えるのである。
これは勘でしかないが、私はなんとなく昭和10年
代前半が実はその人口増減の折り返しポイントの
ような気がしてならない。それぐらいに現代の状
況と合致しているような気がする。その時点から
増加して迎えた戦争という狂気とその時点に減少
して向かう狂気が実は人間社会の構成ドグマとし
ては合致しているのではないか?とうっすらなが
ら感じるのである。
ある意味、この時代、今の社会が突如劇的に政治
状況だけで変わるとは到底思えない。先日若者を
リサーチする番組を見ていると、意外と戦争を期
待する人間が多いのである。彼らの戦争を期待す
る論拠とは“リセット”なのである。これをどの
ように考えるのか?そして先日政治の世界で起き
た大連立!これなどは識者がいろいろと論評を加
えているが、本質はどう考えても大政翼賛会でし
かない。現状国会、ねじれ国会を正し、法案を通
過させることが国民生活にとっての最大利益であ
ると訴えるのであるが、これは本当にそうなのだ
ろうか?このねじれた国会を提案したのは国民で
あり、この国会の形態で国民生活を検証するのが
現状の本質なのだが、これを簡単に回避すること
が、国民生活の最大利益になると考えるのはどう
考えても民主主義のテーゼを逸脱しているとしか
思えない。
自民党は早晩崩壊することは間違いないであろう、
それも国民は察知している。しかしながら民主党
に全幅の信頼を寄せていないのも事実である。な
んらかの政治的な命がけの飛躍を期待しているの
であり、これが本質だと思う。そしてある種の恐
慌も覚悟している。
ここに保守も革新もない同じ目的地が示されてい
るにも関わらず、どうもその空気が読めていない。
これは昭和10年代前半に起きた軍部と官僚主導の
国家指導体制とどうも酷似するような気がするの
である。
現在の一次資源の高騰と物価高騰の兆しは、ロシ
アの資源と中国を中心とした人件費が世界にすべ
て行き渡った結果であり、今後これらは国際的な
投機の激しい対象となる。これにこの国はなんの
対応も施していない。
それどころかどうも戦争に突入する前夜に酷似し
ているような気がするのである。これらの激しい
状況にどのように対応するのか?国家的な戦略が
まったく示されていない。行き詰まりが明確に見
えているにも関わらず・・・
それどころか、国内の安定、国家を支える内需を
盲目的に信じていて恐ろしい搾取を繰り返してい
る。これは第二次大戦以前よりも政治状況として
は、ひょっとするとひどい状態なのかもしれない。
資源と食料の安定確保というこの国が一番脆弱な
側面の需給がすでに崩壊し始めている。
この部分が常にどの時代おいても、この国が抱え
る最大のウィークポイントであることは間違いな
い。ここを他国に抑えられるとこの国はニッチモ
サッチモ行かないのは過去の歴史においても歴然
としており、ここを克服する戦略がないと、いか
に高い思想を掲げても、奇麗な外交を展開しても
何も解決はしない。
あげる方と貰う方という単純な図式は、即ち上下
の関係を肯定するわけであり、これまでは経済力
というか国家の発展を背景にその上下のバランス
を逆転させ保てたのであるが、それが国の価値が
暴落したとき、一体全体どの部分で交渉上のカー
ドを保つのであろうか?実に不安である。
そして人口の減少、これは単純にこの国の国力低
下を意味する。資本の論理を貫徹するならば人間
誕生という個々にとってのコスト高現象は抑止傾
向に向かうのは当然である。しかしそれは逆説的
に国家運営のコストを大きく跳ねあげることに直
結する。
これでは普通の感覚として今まで保ってきたバラ
ンスがそのまま通用するなどとは到底思えない。
日本の国力は客観的な数値においても年々低下し
ており、国際的な国の価値は暴落に等しいが、訳
の分らない関数が混入することによって漠然とし
た景色にしか見せていないのは、今の政治家達・
官僚の大なる国家反逆罪であると考えるのである。
歴史を紐解けば、この国の美しさと強さは厳然と
見えてくる筈だと確信している。
前の総理が“美しい国”などと空虚なことを提言
していたが、かの輩こそが一番分っていなかった
のである。。
一体美しい国とはどういった事をさすのか?いや
具体的にどの時代のどれがそうで、どれが違うの
か?そういった具体性を示せるのは歴史があるか
らであって、またそこから反省と新たな想像・創
造が出来るのであり、それこそが美しい国の最大
であると思うのである。それが突如美しい国など
と言われてもなぁ?悪いがこの国は大戦以降、国
民と会社員が存在した国であり、個々の市民が不
在なのであることを把握しなくてはいけない。
この国はある種、企業が運営してきたようなもの
ではないか!!そういう本質を理解しない政治家
の妄言には
まったく歴史的な背景がない。
戦後レジームの脱却?
戦後レジーム自体がこの国の国民?会社員の歴史
観にない。
周到にアメリカからの煙幕の中に放り込まれただ
けであり、あの大戦以降この国は国家という概念
を放棄し、国民は皆、企業の戦闘員になったので
ある。
ここから問題意識をどのように組み立てるのか?
それがないままキーワードと政治家だけが抱えた
問題にしか見えない定義のありようでは到底具体
的な国家の戦略には見えはしないし、そんな程度
では、それは企業の戦略にすり寄ることしかでき
ない。。せいぜい企業から利を吸い取ることしか
できない。
国益など構築できるとは到底思えない。
もう、そろそろ、おできを治す程度を治療とよび
対処するのではなく、死を賭すかのごとき大手術
をしなくてはいけないのではないのか?
この国はもう暴動が起きないないぐらいに疲弊し
ている・・・
暴動を起こすことによって自らの不満を表現する
ことや、国家の欺瞞に抵抗するということは無く
なった。
その代わりそれと同じような表現行為が、個々が
隠ぺいに走り、状態を平静に保つことを最良とし
ているのである・・・資本の論理?なんだか
ぐちゃぐちゃだ・・・
。。。。。。。。。。。。。
私は今年正月を迎え街に出かけたとき感じたの
であるが、
なぜ皆正月元旦から働くのか?
なんのための行為なのか?誰が幸せになるのか?
これがこの国の中心的な考え方なのか?
時代が違う?馬鹿をいっっちゃいけない!!
判然としない怒りが込み上げてきた。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
街に
実験によって生まれ
狂奔した
マウスが
あふれ出しているように見えた。。。。
こんな歴史は過去あったのだろうか??

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私があるところである種の怒りを
持って書いた個人的な”日記”で
ある。
今から3年近く前
当然今とは状況が違う筈なのであるが
さほど今と感情的に変わらない事に
茫漠とした感覚を覚えた・・・・・・
ほぼ変わってない。。
この時分と今との大きな違いは
政権が自民党であったということ
衆参ねじれの現象の中で
大連立を模索していたということである。
今とは大いに政治状況が違う
筈なのであるが・・・・
さほど違和感を感じないのは
まさしくこの国が未だ
。。。。。。。。。。。
と言う事は”0”ではなく
マイナスということでは??
・・・・・・・・・・
----------------------------------------
年末、週刊文春を久振りに買った。
たいして面白くなかったのであるが、
あるコラムに目がとまった。
何しろ歴史すきなもので!というタイトルで、
各界の著名人が、自らが過去啓発された歴史
書籍から現代を読み解く重要な要素をそれぞ
れがコメントをしていた。
これは慧眼であり、実におもしろかった。
何人かいたのであるが、私がおもしろかった
のは、二人である。
佐藤優が語る「新自由主義下のマルクス」。
今こそ『資本論』を読むべきだ。という文章と、
関川夏央が語る「司馬遼太郎文学の深淵」。
『坂の上の雲』に見る司馬遼太郎の勇気。
佐藤優は言わずと知れた鈴木宗男議員の懐刀
として活躍?した外務官僚であり、現在、起
訴休職外務事務官である。このひと、例の事
件以降結構な著述活動をしており、その内容
が斯界の間で高い評価を得ている。ひところ
外務省のラスプーチンなどという恐ろしげな
異名をとっていたが、最近著作以外のこうい
った週刊誌のコラムなどに自らの考えを示し
ているのだが、これが実に的確で面白い。い
や、かなりの常識人でもあり、くだらない解
説者など足元にも及ばないぐらいの識見があ
る。
実は私、彼の書いた本までは買ったことはな
いが、かれの週刊誌のコラムは結構マメに読
んでいる。案外この人の実相とは?と過去の
捜査から我々が受けた印象、マスコミが作り
上げた人物象と実際の人物象とのギャップが
一番分り易い存在なのではという、一種のア
ビルノ的な見方をしている。マスコミという
恐ろしい怪物に翻弄されたのであるが、実は
そのマスコミを使い、遅ればせながら内部か
ら真実を炙りだしているような気がするのと
同時に、いかにマスコミが単純な表層的な印
象からしか物事を伝えていないか、また大衆
を無暗に扇動し、終わりのない、結論のない
無責任な百姓一揆を誘発しているのかが、こ
の人物の見解をみるにつけ感じるのである。
彼が書いたこの今こそ資本論を読むべきだと
いう記述は、短文なのであるが実に優れてい
る。
彼はマルクスの資本論こそが人間が築く社会・
歴史という物語の構造を深く解明したもので
あると定義する。
そして彼はマルクスの資本論が示す歴史的な
構造を4つの論拠をもって分り易く解説し、
その限界を指し示すと同時に現代社会の壁を
提示し、そして資本論を再読することが、そ
の壁を突破出来得るヒントが隠れていると提
唱しているのである。
4つの論拠とは
1、交換形態から生まれる貨幣が人間を支配
していく過程。
2、貨幣が資本を生み出し、巨大な資本の運
動性が人間を束縛し、思想・生活などの
様式を規定する。
3、モノと金の交換には宗教性が埋め込まれ
ておりそう信じられているが,実は、モノ
が金に変わるその過程には宗教性とはか
い離した「命がけの 飛躍」があり、
通常の宗教観が崩れた途端、恐慌が起き
る。しかしながら資本主義とは強固であ
り資本主義が崩壊することはない。
4、マルクスは資本主義という特殊なガン細
胞を発見はしたが、ガン細胞の増殖?進
行を、後世に対しての明確な治療の処方
箋を書き残さなかった。
以上が論拠4点である。しかし、ここからが
彼の慧眼である。
彼が警鐘する最大は、この資本主義とどう付
き合っていくか?ここに新自由主義の危機要
素を嗅ぎ分けている。。
資本を中心とした社会とそれから構築した規範に、
漠然とした宗教観をふんわりとくるんだだけの現
代は、実は現実的な危機に無頓着になり過ぎてい
る。
実相の把握と長期的な展望が著しく欠如し、その
場その時の対応としての資本の論理は整合してい
るが、実はそれらの対処が深層の部分では崩壊が
始まり、恐慌の序章なのではないか?と考えるの
である。
命がけの飛躍をどの部分、どう言った内容にて仮
託し説明を位置づけるのか、信じられた宗教観を
どのように変化させるのか?これは大きな問題が
横たわっているのだが、誰も明確にその姿を示し
切れていない。
具体的には、ローコストオペレーションにて会社
や店を運営する。これは資本の論理としては整合
を果たすのである。しかし、現場の個々からする
とそれらの資本論理の整合を果たした環境は優れ
た仕事の現場とは言いがたくなる。
人数不足やそこからくる、規範、モラルの低下、
最大はその悪環境で一生懸命働いても評価されな
いという個々人の社会性としては最大のモチベー
ションが欠如しつづけ、そして評価をするための
現場を把握する人間すらが資本の論理のためだけ
にしか存在せず、資本の論理以外には的確人材が
不在であり、個々の努力や向上心が人事考課には
まったく反映されない。
ということは、個人個人の資本としては一向に給
料が上がるわけではなく、個人の交換の論理から
言うと、おそろしいデフレ傾向になってしまう。
働くほど自らの労働交換比率が下がるのである。
しかし、資本家からすると最大公約数としての資
本の整合を取り易くなる。ここに恐ろしい乖離点
が生まれ、その一穴をもって崩壊が始まる。すべ
てが資本の論理で貫かれ、金銭で社会の人的構造
が換算可能となってしまったため、個人がバラバ
ラになってしまう。
これは単純に数の論理の頂点でもあるのだが、こ
れが果たしてすべての到着点なのだろうか?数の
論理で解決しないものはこの今進行している資本
の論理で如何様に解決し、整合させるのか?これ
は今新たなテーマではない筈であり、形は変われ
ど、なんども繰り返される人間が作り出した空虚
な資本飽和社会との接触点における問題である。
しかし、今このポイントを整理し、過去から学ぶ
ことが如何に大事か、そしてそれはもう過去の産
物となってしまったかもしれないが、資本の形成
過程を、歴史的物語構造を最も深く解明した資本
論に求めるという佐藤の考え方はひょっとすると
今の我々には至極当たり前でありかつ賢明な選択
肢なのでは?と考えさせられた。。。この人が世
間から批判されたことが仮に真実だったとしても、
それはある種の手段であり、その奥にあった目的
とはいかなるものだったのか?これには大きな興
味を抱いていしまうのと同時に、それが頓挫する
この国のとてつもない稚拙な論理が虚無感を誘う。。
本来的な常識とは一体何なのだろうと?
そしてもうひとつ、関川夏央が語る「司馬遼太郎
文学の深淵」。『坂の上の雲』に見る司馬遼太郎
の勇気。であるが、これも短文なのであるが、こ
の国の現況をするどく論じている。
私は関川某なる作家はまったくしらないのである
が、かれが評する司馬遼太郎の文学史観は素晴ら
しいものがあった。
結論的に司馬遼太郎の志とは、全体小説にあった!
と喝破している。
この全体小説とはなにか?純文学に見られがちな
「個人」の中に閉じこもり、個人の意識の流れを
中心に展開をするのではなく、ある国民のある時
期の運命の全体像、または時代精神そのものを描
く試みのことを示すのである。
ここに司馬遼太郎が晩年こだわった「この国のか
たち」という言葉と考え方に、全体小説によって
訴え続けた志が読み解けるような意図が存在する
ように思える。
この『坂の上の雲』を書いた時代、日本は左翼思
想が社会を席捲しており、決して社会的な思想の
流行に合一したテーマでは無かった。国民国家の
到達点である日露戦争を描くということは、左翼
的思想家たちから歓迎どころか、誤解を招いても
仕方のない、いやそれどころか具体的なテロルも
考えられたところなのだが、あえてこの時代にそ
ういった内容を上梓するということが、この時代
に対しての警鐘であり、流行ということへの反駁
と本質からの逃避する蒙昧無知な指導者への挑戦
状だったと考えられる。
司馬遼太郎が歴史小説を書くきっかけを以前語っ
ているのを見た事がある。端的に、この国はいつ
から“アホ”になったのか?その源流を知りたか
った。
日露戦争を指導した日本人と第二次世界大戦を犯
した日本人は明らかに異質であり、到底この間約
50年の間の変質は理解しがたいと彼は語っていた。
ここに彼の全体小説が持つ最大のコンセプトが存
在したのであり、常に高い次元、過去から学び続
け発展するだけの要素をふんだんに持ち合わせな
がら、凝固しないこの国のかたち、そして本質や
常識を定義・訴求できないこの国の指導者や知識
階層を憂いていた彼の思想が読み解ける。
関川夏央が語る、司馬遼太郎とは反流行というこ
とに敏感な人であり、戦前・戦中・戦後を通じ人
々がこぞって叫ぶものはすべていかがわしい、結
局流行にすぎないと言い続けた人であり、一言で
いって偉大な常識人であったと・・・
そして、国家において、孤立した天才の技術に頼
ることは一代限りでしかないが、傑出した常識人
の技術は教育によって伝達できると確信していた
人でもあったと。。
これら二つの書評は、僅か2ページに書かれていた
ものであり、気を付けなければ読みすごしてしま
う。
しかし、偶然目に留まった。そして僅かな時間で
読み、その慧眼に瞠目した。
この二つの書評には現代に通じ、解決までとはい
かないまでも一つの大きな考え方のテーマが存在
する。そしてこの二つは歴史ということから今の
時代をどう読むのか先人が残した課題と指針を改
めて冷静に引き継ぐ必要性に迫られている状況を
示唆しているように感じたのである。
人口が明らかな減少を示した。これはある程度想
定されていた事象なのであるが、私は同時に、こ
の減少が時間的にいつ落ち着くのかも考えておか
なくてはいけないと思う。そのとき日本の人口は
8000万人なのか6000万人なのかわからないが、単
純に考えても、これらの人口による国家形成は過
去通過してきた筈であり、その時点が一体いつな
のか?これは歴史的時系列として把握しておくこ
とは大きな検証項目だと考えている。人口が飛躍
的に伸びた時点よりも、現在の人口低減がおちつ
く時点が過去のどの時代に合致するのか?ここに
歴史的な問題点が集約しており、その過去の時代
に表出した問題が案外現代の病巣を集約している
ように感じるのである。
社会情勢がまったく違う!や国家の成熟度合いが
違うと言えども、所詮人間の数からくる国家の形
成に違いはない。それよりも大事なのは人口が一
億数千とこの何十年か経験したことのない境地だ
ったのが、この時点で過去経験した人口による国
家形成に逆戻りになるのである。今後は過去の経
緯と比較対照することが可能になり、そこから判
断出来得ることが結構多く存在するのではないか
と考えるのである。私は漠然とでしかないが、な
んとなく諸問題の根源が人口に比例するような気
がしてならないのだ。
歴史とは時間の推移を中心として考えがちである
が、この時間的推移には主観的な判断は存在しな
い。現象をすべて列記したにすぎないような気が
するのである。
しかし人間を中心に歴史を考えた場合、人がその
つど死にそして誕生するというような人間社会の
世代間の入れ替わりが、歴史の大きな連続性を生
み出す波動を示しているような気がするのである。
だから人口の推移が意外と人間の歴史と一番深く
かかわる部分であり、歴史物語性を構成する上で
一番重要な運動法則のような気がするのである。
だからこそ人口減少という事象は過去のある時点、
それも我々が仕出かした大きなブラックホールの
ような過ちの穴に吸引されているような感覚が芽
生えるのである。
これは勘でしかないが、私はなんとなく昭和10年
代前半が実はその人口増減の折り返しポイントの
ような気がしてならない。それぐらいに現代の状
況と合致しているような気がする。その時点から
増加して迎えた戦争という狂気とその時点に減少
して向かう狂気が実は人間社会の構成ドグマとし
ては合致しているのではないか?とうっすらなが
ら感じるのである。
ある意味、この時代、今の社会が突如劇的に政治
状況だけで変わるとは到底思えない。先日若者を
リサーチする番組を見ていると、意外と戦争を期
待する人間が多いのである。彼らの戦争を期待す
る論拠とは“リセット”なのである。これをどの
ように考えるのか?そして先日政治の世界で起き
た大連立!これなどは識者がいろいろと論評を加
えているが、本質はどう考えても大政翼賛会でし
かない。現状国会、ねじれ国会を正し、法案を通
過させることが国民生活にとっての最大利益であ
ると訴えるのであるが、これは本当にそうなのだ
ろうか?このねじれた国会を提案したのは国民で
あり、この国会の形態で国民生活を検証するのが
現状の本質なのだが、これを簡単に回避すること
が、国民生活の最大利益になると考えるのはどう
考えても民主主義のテーゼを逸脱しているとしか
思えない。
自民党は早晩崩壊することは間違いないであろう、
それも国民は察知している。しかしながら民主党
に全幅の信頼を寄せていないのも事実である。な
んらかの政治的な命がけの飛躍を期待しているの
であり、これが本質だと思う。そしてある種の恐
慌も覚悟している。
ここに保守も革新もない同じ目的地が示されてい
るにも関わらず、どうもその空気が読めていない。
これは昭和10年代前半に起きた軍部と官僚主導の
国家指導体制とどうも酷似するような気がするの
である。
現在の一次資源の高騰と物価高騰の兆しは、ロシ
アの資源と中国を中心とした人件費が世界にすべ
て行き渡った結果であり、今後これらは国際的な
投機の激しい対象となる。これにこの国はなんの
対応も施していない。
それどころかどうも戦争に突入する前夜に酷似し
ているような気がするのである。これらの激しい
状況にどのように対応するのか?国家的な戦略が
まったく示されていない。行き詰まりが明確に見
えているにも関わらず・・・
それどころか、国内の安定、国家を支える内需を
盲目的に信じていて恐ろしい搾取を繰り返してい
る。これは第二次大戦以前よりも政治状況として
は、ひょっとするとひどい状態なのかもしれない。
資源と食料の安定確保というこの国が一番脆弱な
側面の需給がすでに崩壊し始めている。
この部分が常にどの時代おいても、この国が抱え
る最大のウィークポイントであることは間違いな
い。ここを他国に抑えられるとこの国はニッチモ
サッチモ行かないのは過去の歴史においても歴然
としており、ここを克服する戦略がないと、いか
に高い思想を掲げても、奇麗な外交を展開しても
何も解決はしない。
あげる方と貰う方という単純な図式は、即ち上下
の関係を肯定するわけであり、これまでは経済力
というか国家の発展を背景にその上下のバランス
を逆転させ保てたのであるが、それが国の価値が
暴落したとき、一体全体どの部分で交渉上のカー
ドを保つのであろうか?実に不安である。
そして人口の減少、これは単純にこの国の国力低
下を意味する。資本の論理を貫徹するならば人間
誕生という個々にとってのコスト高現象は抑止傾
向に向かうのは当然である。しかしそれは逆説的
に国家運営のコストを大きく跳ねあげることに直
結する。
これでは普通の感覚として今まで保ってきたバラ
ンスがそのまま通用するなどとは到底思えない。
日本の国力は客観的な数値においても年々低下し
ており、国際的な国の価値は暴落に等しいが、訳
の分らない関数が混入することによって漠然とし
た景色にしか見せていないのは、今の政治家達・
官僚の大なる国家反逆罪であると考えるのである。
歴史を紐解けば、この国の美しさと強さは厳然と
見えてくる筈だと確信している。
前の総理が“美しい国”などと空虚なことを提言
していたが、かの輩こそが一番分っていなかった
のである。。
一体美しい国とはどういった事をさすのか?いや
具体的にどの時代のどれがそうで、どれが違うの
か?そういった具体性を示せるのは歴史があるか
らであって、またそこから反省と新たな想像・創
造が出来るのであり、それこそが美しい国の最大
であると思うのである。それが突如美しい国など
と言われてもなぁ?悪いがこの国は大戦以降、国
民と会社員が存在した国であり、個々の市民が不
在なのであることを把握しなくてはいけない。
この国はある種、企業が運営してきたようなもの
ではないか!!そういう本質を理解しない政治家
の妄言には
まったく歴史的な背景がない。
戦後レジームの脱却?
戦後レジーム自体がこの国の国民?会社員の歴史
観にない。
周到にアメリカからの煙幕の中に放り込まれただ
けであり、あの大戦以降この国は国家という概念
を放棄し、国民は皆、企業の戦闘員になったので
ある。
ここから問題意識をどのように組み立てるのか?
それがないままキーワードと政治家だけが抱えた
問題にしか見えない定義のありようでは到底具体
的な国家の戦略には見えはしないし、そんな程度
では、それは企業の戦略にすり寄ることしかでき
ない。。せいぜい企業から利を吸い取ることしか
できない。
国益など構築できるとは到底思えない。
もう、そろそろ、おできを治す程度を治療とよび
対処するのではなく、死を賭すかのごとき大手術
をしなくてはいけないのではないのか?
この国はもう暴動が起きないないぐらいに疲弊し
ている・・・
暴動を起こすことによって自らの不満を表現する
ことや、国家の欺瞞に抵抗するということは無く
なった。
その代わりそれと同じような表現行為が、個々が
隠ぺいに走り、状態を平静に保つことを最良とし
ているのである・・・資本の論理?なんだか
ぐちゃぐちゃだ・・・
。。。。。。。。。。。。。
私は今年正月を迎え街に出かけたとき感じたの
であるが、
なぜ皆正月元旦から働くのか?
なんのための行為なのか?誰が幸せになるのか?
これがこの国の中心的な考え方なのか?
時代が違う?馬鹿をいっっちゃいけない!!
判然としない怒りが込み上げてきた。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
街に
実験によって生まれ
狂奔した
マウスが
あふれ出しているように見えた。。。。
こんな歴史は過去あったのだろうか??

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