October 29,2014
昨日は2週間ぶりに松本君の作品チェックを行った。。

作品は悪くない、しかし現時点で目標とする最大へ
は当然過程段階、、
しかしそれは私自身も折込み済みであるから、、
目標への足がかかりのつもりで少し意見をしよう
としたが、、、、
驚いた事に、逆に彼から問われた・・・・
今までの“やり方”=考え方、描法を含め、
実験的に変えて行こうかと思ってます。
あっ!やっと出てきた!
思索にふけり、知識を拡充し、それもあるが、、
プリミティブに、何かに憑依されたように忘我し
物事を変化させていく、、
その中で生まれてくるものには
必ず独特の思想哲学が生まれる。
絵に対しての欲求=幅の拡がりが如実に感じられる。
何よりも“挑戦”的姿勢、、これまでのコケオドシ
のような、気を衒ったような刹那的なものでない、、
何か・・・・
嬉しかった。
今その内容は具体的に話せない、、、
と言っても秘匿するというような偉そうに勿体つけた
ような事ではなく、、
長らく二人で話してきた抽象的な感覚の話であるが
故の事だ。。。
彼と二人で話してきた時間はかなりになる・・・
思い返せば、直近の大きな動きだけまとめても
作品の大幅な改造を指示したのが昨年の秋、そこから
生まれた作品を高松天満屋アートギャラリーの最終企
画にて展開したのが今年の2月。
兆しが少し見えたが、、より一層の改造を指示。
私のスケジュールとして4月は佐野くん公庄くん
の二人展をあべのハルカスにて、5月は釜くんの
松坂屋名古屋店での第二回目の個展、、、
これを終わらせた後6月末に松本君の個展を
BAMI galleryにて開催する予定とし、そこに
更なる改造作品を投入してもらう事を計画したのだが、
実はこの個展は今年の秋から冬に予定している百貨店
での個展を目標として設定していた本格的な改造計画
でもあった。
そのため5月の釜君の個展終了直後から始動させ
それから約半年
ほぼ毎週必ず、多い時には週二回COMBINEに来るという
事を続けてもらい、毎回途中経過を見、新しい作品に
対しての事と、細かいチェックをくり返しくり返し行
いました。
私が受け付けない作品もかなりありました。
怒鳴り散らした事も数限りなくです・・・・
そうこうしてやっと現在20点。。。。。
斯界の先達からすれば“既視感”満載、、
かもしれませんね。。。
このような事を書くと、私が如何に偉いかという事
をツラツラ書き連ねているいるような印象をもたれ
るかもしれません、、又、私のエゴ、、と言うのか
私の好みの絵=売れる=売れそうな=売り絵=パン絵
に無理やり改造しているように捉えられるかもしれま
せん。。。
しかし私は別段そのように感じてもらっても構わないのです。
売れる、大いに結構です。
私にとって追求すべき最大利益であり、抽象的な観念の中で
具体性のないのは一番忌避すべき仕事なのだから、、
何の問題もない。
私の言うが儘に引きずられた方が悪いのである。。
そういう理屈も私にとっては正当性があるが、、、、
ただ、、
私は、彼、松本君と出会ってもうすぐ5年になります。
その5年間近く彼と色々な話をし、実際に作品を市場に
問う事もした上で今、彼と新しい事をチャレンジしよ
うとしているのです。
だから、今の一時点の印象などどうでも良いのです。
これは彼も私は同じだと信じています。
今の時代、SNSなどで宣伝告知を兼ねて速射砲のよう
に情報を喧伝します。
かく言う私もその一人です。松本君の進捗もその商材です。
そこに寄せられるコメントは色々です。肯定も否定もあり
ます。まぁ無視も多いでしょう、、
我々が思い悩むほど他人にとっては“鼻くそ”ほどの
価値もない事柄でしょう。
ただ私が常々感じるのは
そんな簡単に人が変わるか?
その先の何かがあって変わろうとするのではないの?
なぜ即断で失敗というような結論へ物事を近づけようと
するのか?
時として、狂奔するがごとくの焦燥感が蔓延する異常空間
にも感じられる。
もっとおおらかな気持ちになれないのか?
ああなったらこうなる、、こうなったらああなる、、、
そんな事ばかりが終始する。結局、、言う人間ほど案外なに
も出来ていないし、大して出来てもいない事を大仰に誇示する・・・
実にくだらないと思うのである。
そんな声が聞こえてくる中
彼と毎週毎週話したことは数多あります。
私自身も虚脱する事も多々ありました。ただ、いつも
自問しているのは何を伝えたいのか?何を変えて欲し
いのか?常に悩み続けています。
私は決して彼の描画技術に力点を置いて修正を企てて
いるわけではない。
何か彼の絵から出てくる、感じられるものの変化、
そこから大きな世界に向けて・・・・
そのあまりにも単純な言葉を持って彼と対峙した時
具体的に彼の何が変われば良いのか?もし仮に気付
いた点があったとして、、
それは変えて良いものなのか?
ただ常に感じる彼の作品に対しての違和感・・・
彼が大仰にテーマとしているモノと実際の絵の乖離
つまり関心はすれど感動がない・・・・
発表しても
面白いという言葉は聞けても、、、それ以上はない。
言葉は悪いが、、、見世物。
ある時、今から6年前の雑誌の記事が目に留まった・・・
-------------------
礒江毅
現代における写実絵画の意味を問い続けた画家
幽玄のごときもの (高山淳)
「私は長年スペインに暮らし、写実絵画に携わってきた
中で、コレクターの自宅等で数えきれない程の十九世紀
以前の画家達のアカデミックなデッサンを見てきた。
皆驚くべきデッサン力で、しかも殆ど無名である。
前述した“型”を破って名を成す事の出来なかった
作家だろうか」
「前述した型」
について礒江は次のように述べている。
「ルネッサンス以降、遠近透視法の発見や人体解剖学の
発達等でより一層リアルさを表現できるようになった。
その頃までが私なりに西洋美術の“型”形成期だと思っ
ている」
礒江はスペインに約20年を超えてヨーロッパの写実を学んだ。
にもかかわらず、その写実をはみ出るものが彼の中にあった。
おそらくそこには礒江のオリジナリティーがあらわれている。
型に入って、型を破るという言葉を聞くと、どこかで聞いた
気になる。それは世阿弥の風姿花伝の一節ではないかと思っ
た。能は徹底的に型から入る。しかも面をつける。それほど
徹底的に型に入って演者の自由はあるだろうか。
その自由を実際に演じたシテがいた。
それは友枝喜久夫であると白洲正子が述べている。橋懸から
友枝が現れてくると鑑賞者はすでに別の世界に引き寄せられ
る。それは白洲正子の理想の能であり、それを友枝にまざま
ざと見たことの感動が我々に伝わってくるのだが、そこに現
れてくるものは、“幽体”と言って差し支えないものだろう。
能の登場人物はほとんどが死んで成仏もしない幽体たちであ
る。つまり時間軸が現実の時間軸ではない。
能の話が長くなったが、白洲の言うそのイメージを礒江も
追っていたと思うのである。
礒江の本当にやりたかったビジョンは、写実という型を徹底
することによって、ものの魂を表現することである。そこに
は通常の時間軸は脱落する。ものが朽ちるまで礒江は対象を
眺めていたそうだ。眺めながら時間を越えた世界に遊んでい
たのではないだろうか。
-----------------
この文章を読んだときハッとさせられた。
その中でも取り分け、、、
礒江の本当にやりたかったビジョンは、写実という型を
徹底することによって、ものの魂を表現することである。
この文章の
ものの魂を表現
この部分を読んだとき瞠目させられた。
確かに彼の絵を解釈するとき、よくよく見れば彼がしようと
していることは分かる。
私なりの解釈は“魂の所在”これを追い求めていたという
ことだ。
大半の人はその精緻な描画部分に関心が動くだろうし、彼を
解説する第一番はその類稀な写実描写だ。しかしこのような
技術力の水準が並外れた絵画の場合、時としてその時点で止
まり、その事だけの判別、相対化を行うのだが、不思議と
礒江の絵に関しては、あまりにも突き抜けた描写力が逆に
問題とならない。
つまり文章の中に見られる死という現実状態を我々に感知さ
せ、その先の彼が追い求める“ビジョン”へ誘う・・・・・
そのための高水準の描写でしかない。。。
簡単に書いたが、果たしてこの構造を理解し具体化できて
いる作家が幾人存在するか?場合によってはキャプション
や自身の周りにあるパ-ソナルなメディアで文字としてその
ビジョンを文章化している作家が多いのでは??と私など
は考える。
それらと比較するまでも無いが、、彼の作品は、とんでも
なく純度の高い芸術だと感心させられる。
もっと踏み込んで言えば、、例えば、コンセプチャルアート
等とも構造が良く似ている事が分かる。
河原温というアーティストが示したデイ・ペインティングは
その認識できる作品としての物質面は日付を描き記している
だけだ、、この部分はある意味、礒江における写実描写部分
に相当する。
つまり誰が見ても何の疑問も持たない。その事が精緻である
かどうかすらも問題とならない。ただこの作業には厳然とし
た哲学が必要となる。それは河原温においては厳格な作画に
おけるルール、そして生涯続けるという、ある種の透徹感覚。
これを継続すればするほど、その奥に存在する作家のビジョン
は対峙した者の前にマザマザと浮かび上がってくる。。。。
時間という誰もが論理的に説明できないモノ、、又その把握
できない中で揺蕩うわが身、、、、この時点で作品の物質面
のプライオリティーは二義的なモノに変質している事がわか
り、第一義はそのビジョンに対しての感受度合い及び衝撃で
ある事が分かる。
結果として作家が打ち出す、自己が追及するビジョン、
その表出に関して構造自体は同じである。
松本君の問題箇所が少しずつ分かり始めた瞬間でもあった。
話を初めに戻すが
今までの“やり方”=考え方、描法を含め、実験的に変えて行こう
かと思ってます。

これが今までとは違う変化、、、

何を求めてかは
言うまでもないだろう!

作品は悪くない、しかし現時点で目標とする最大へ
は当然過程段階、、
しかしそれは私自身も折込み済みであるから、、
目標への足がかかりのつもりで少し意見をしよう
としたが、、、、
驚いた事に、逆に彼から問われた・・・・
今までの“やり方”=考え方、描法を含め、
実験的に変えて行こうかと思ってます。
あっ!やっと出てきた!
思索にふけり、知識を拡充し、それもあるが、、
プリミティブに、何かに憑依されたように忘我し
物事を変化させていく、、
その中で生まれてくるものには
必ず独特の思想哲学が生まれる。
絵に対しての欲求=幅の拡がりが如実に感じられる。
何よりも“挑戦”的姿勢、、これまでのコケオドシ
のような、気を衒ったような刹那的なものでない、、
何か・・・・
嬉しかった。
今その内容は具体的に話せない、、、
と言っても秘匿するというような偉そうに勿体つけた
ような事ではなく、、
長らく二人で話してきた抽象的な感覚の話であるが
故の事だ。。。
彼と二人で話してきた時間はかなりになる・・・
思い返せば、直近の大きな動きだけまとめても
作品の大幅な改造を指示したのが昨年の秋、そこから
生まれた作品を高松天満屋アートギャラリーの最終企
画にて展開したのが今年の2月。
兆しが少し見えたが、、より一層の改造を指示。
私のスケジュールとして4月は佐野くん公庄くん
の二人展をあべのハルカスにて、5月は釜くんの
松坂屋名古屋店での第二回目の個展、、、
これを終わらせた後6月末に松本君の個展を
BAMI galleryにて開催する予定とし、そこに
更なる改造作品を投入してもらう事を計画したのだが、
実はこの個展は今年の秋から冬に予定している百貨店
での個展を目標として設定していた本格的な改造計画
でもあった。
そのため5月の釜君の個展終了直後から始動させ
それから約半年
ほぼ毎週必ず、多い時には週二回COMBINEに来るという
事を続けてもらい、毎回途中経過を見、新しい作品に
対しての事と、細かいチェックをくり返しくり返し行
いました。
私が受け付けない作品もかなりありました。
怒鳴り散らした事も数限りなくです・・・・
そうこうしてやっと現在20点。。。。。
斯界の先達からすれば“既視感”満載、、
かもしれませんね。。。
このような事を書くと、私が如何に偉いかという事
をツラツラ書き連ねているいるような印象をもたれ
るかもしれません、、又、私のエゴ、、と言うのか
私の好みの絵=売れる=売れそうな=売り絵=パン絵
に無理やり改造しているように捉えられるかもしれま
せん。。。
しかし私は別段そのように感じてもらっても構わないのです。
売れる、大いに結構です。
私にとって追求すべき最大利益であり、抽象的な観念の中で
具体性のないのは一番忌避すべき仕事なのだから、、
何の問題もない。
私の言うが儘に引きずられた方が悪いのである。。
そういう理屈も私にとっては正当性があるが、、、、
ただ、、
私は、彼、松本君と出会ってもうすぐ5年になります。
その5年間近く彼と色々な話をし、実際に作品を市場に
問う事もした上で今、彼と新しい事をチャレンジしよ
うとしているのです。
だから、今の一時点の印象などどうでも良いのです。
これは彼も私は同じだと信じています。
今の時代、SNSなどで宣伝告知を兼ねて速射砲のよう
に情報を喧伝します。
かく言う私もその一人です。松本君の進捗もその商材です。
そこに寄せられるコメントは色々です。肯定も否定もあり
ます。まぁ無視も多いでしょう、、
我々が思い悩むほど他人にとっては“鼻くそ”ほどの
価値もない事柄でしょう。
ただ私が常々感じるのは
そんな簡単に人が変わるか?
その先の何かがあって変わろうとするのではないの?
なぜ即断で失敗というような結論へ物事を近づけようと
するのか?
時として、狂奔するがごとくの焦燥感が蔓延する異常空間
にも感じられる。
もっとおおらかな気持ちになれないのか?
ああなったらこうなる、、こうなったらああなる、、、
そんな事ばかりが終始する。結局、、言う人間ほど案外なに
も出来ていないし、大して出来てもいない事を大仰に誇示する・・・
実にくだらないと思うのである。
そんな声が聞こえてくる中
彼と毎週毎週話したことは数多あります。
私自身も虚脱する事も多々ありました。ただ、いつも
自問しているのは何を伝えたいのか?何を変えて欲し
いのか?常に悩み続けています。
私は決して彼の描画技術に力点を置いて修正を企てて
いるわけではない。
何か彼の絵から出てくる、感じられるものの変化、
そこから大きな世界に向けて・・・・
そのあまりにも単純な言葉を持って彼と対峙した時
具体的に彼の何が変われば良いのか?もし仮に気付
いた点があったとして、、
それは変えて良いものなのか?
ただ常に感じる彼の作品に対しての違和感・・・
彼が大仰にテーマとしているモノと実際の絵の乖離
つまり関心はすれど感動がない・・・・
発表しても
面白いという言葉は聞けても、、、それ以上はない。
言葉は悪いが、、、見世物。
ある時、今から6年前の雑誌の記事が目に留まった・・・
-------------------
礒江毅
現代における写実絵画の意味を問い続けた画家
幽玄のごときもの (高山淳)
「私は長年スペインに暮らし、写実絵画に携わってきた
中で、コレクターの自宅等で数えきれない程の十九世紀
以前の画家達のアカデミックなデッサンを見てきた。
皆驚くべきデッサン力で、しかも殆ど無名である。
前述した“型”を破って名を成す事の出来なかった
作家だろうか」
「前述した型」
について礒江は次のように述べている。
「ルネッサンス以降、遠近透視法の発見や人体解剖学の
発達等でより一層リアルさを表現できるようになった。
その頃までが私なりに西洋美術の“型”形成期だと思っ
ている」
礒江はスペインに約20年を超えてヨーロッパの写実を学んだ。
にもかかわらず、その写実をはみ出るものが彼の中にあった。
おそらくそこには礒江のオリジナリティーがあらわれている。
型に入って、型を破るという言葉を聞くと、どこかで聞いた
気になる。それは世阿弥の風姿花伝の一節ではないかと思っ
た。能は徹底的に型から入る。しかも面をつける。それほど
徹底的に型に入って演者の自由はあるだろうか。
その自由を実際に演じたシテがいた。
それは友枝喜久夫であると白洲正子が述べている。橋懸から
友枝が現れてくると鑑賞者はすでに別の世界に引き寄せられ
る。それは白洲正子の理想の能であり、それを友枝にまざま
ざと見たことの感動が我々に伝わってくるのだが、そこに現
れてくるものは、“幽体”と言って差し支えないものだろう。
能の登場人物はほとんどが死んで成仏もしない幽体たちであ
る。つまり時間軸が現実の時間軸ではない。
能の話が長くなったが、白洲の言うそのイメージを礒江も
追っていたと思うのである。
礒江の本当にやりたかったビジョンは、写実という型を徹底
することによって、ものの魂を表現することである。そこに
は通常の時間軸は脱落する。ものが朽ちるまで礒江は対象を
眺めていたそうだ。眺めながら時間を越えた世界に遊んでい
たのではないだろうか。
-----------------
この文章を読んだときハッとさせられた。
その中でも取り分け、、、
礒江の本当にやりたかったビジョンは、写実という型を
徹底することによって、ものの魂を表現することである。
この文章の
ものの魂を表現
この部分を読んだとき瞠目させられた。
確かに彼の絵を解釈するとき、よくよく見れば彼がしようと
していることは分かる。
私なりの解釈は“魂の所在”これを追い求めていたという
ことだ。
大半の人はその精緻な描画部分に関心が動くだろうし、彼を
解説する第一番はその類稀な写実描写だ。しかしこのような
技術力の水準が並外れた絵画の場合、時としてその時点で止
まり、その事だけの判別、相対化を行うのだが、不思議と
礒江の絵に関しては、あまりにも突き抜けた描写力が逆に
問題とならない。
つまり文章の中に見られる死という現実状態を我々に感知さ
せ、その先の彼が追い求める“ビジョン”へ誘う・・・・・
そのための高水準の描写でしかない。。。
簡単に書いたが、果たしてこの構造を理解し具体化できて
いる作家が幾人存在するか?場合によってはキャプション
や自身の周りにあるパ-ソナルなメディアで文字としてその
ビジョンを文章化している作家が多いのでは??と私など
は考える。
それらと比較するまでも無いが、、彼の作品は、とんでも
なく純度の高い芸術だと感心させられる。
もっと踏み込んで言えば、、例えば、コンセプチャルアート
等とも構造が良く似ている事が分かる。
河原温というアーティストが示したデイ・ペインティングは
その認識できる作品としての物質面は日付を描き記している
だけだ、、この部分はある意味、礒江における写実描写部分
に相当する。
つまり誰が見ても何の疑問も持たない。その事が精緻である
かどうかすらも問題とならない。ただこの作業には厳然とし
た哲学が必要となる。それは河原温においては厳格な作画に
おけるルール、そして生涯続けるという、ある種の透徹感覚。
これを継続すればするほど、その奥に存在する作家のビジョン
は対峙した者の前にマザマザと浮かび上がってくる。。。。
時間という誰もが論理的に説明できないモノ、、又その把握
できない中で揺蕩うわが身、、、、この時点で作品の物質面
のプライオリティーは二義的なモノに変質している事がわか
り、第一義はそのビジョンに対しての感受度合い及び衝撃で
ある事が分かる。
結果として作家が打ち出す、自己が追及するビジョン、
その表出に関して構造自体は同じである。
松本君の問題箇所が少しずつ分かり始めた瞬間でもあった。
話を初めに戻すが
今までの“やり方”=考え方、描法を含め、実験的に変えて行こう
かと思ってます。

これが今までとは違う変化、、、

何を求めてかは
言うまでもないだろう!