April 7,2016
4展 shiten Round4
COMBINE/BAMI gallery 代表上山潤
■ 展覧会テーマ: 第四回目は、【ごみ】
■ 展覧会会期 :2016年4月10日(日)~4月22日(金)
■ テーマに関して

ごみ
BAMI gallery2 階スタジオを使用する4 名による実験展。
4 名の4、視点(してん・Shiten)、各自通常の表現とは
違う統一テーマにて展覧会を構成します。
この企画も丸1 年となり第4 回目を迎えます。
今回のテーマは“ごみ”です。実は第一回目のテーマに据え
ようかと悩みました。開始早々“ごみ”というのもどうだろ
うか?との判断で第一回目はテーマを“お金”としました。
このテーマも実は際どいのですが、際どいもの同士の中の
選択でした。過去三回のテーマは“お金”“種”そして
今回の“ごみ”(12 月のさるは別にして・・・)お気づき
かと思いますが、現代の人間社会の外郭=芸術家が描き出
す現代社会の輪郭とその中に流れるモノ・思想・哲学・欺瞞
と言うのものをどのように抽出するのかが、この企画の
テーマとなっております。
この網目(現代人間社会を構成)をどう解釈し、作品と
して図像化・具現化するのか、また何処にそれぞれの
視点が当たるのかというのがコンテンポラリーアーティスト
=同時代性芸術家の精度としては実に大事だと考えます。
決して政治活動ではないし、答えがあるわけではない。
ましてや正義感に溢れるメッセージなどは論外です。
あくまでも、現時点の4 名の制作テーマ性とは別の文脈・
角度を求めるこの企画は、引いてはそれぞれの視野の幅を
広げ、それぞれの芸術の栄養となる事を考え企画しております。
さて、今回のテーマ“ごみ”ですが、
今企画の起案ディレクターの私が考える“ごみ”という
テーマ性には大きく分けて3 要素があります。
1、 価値観
2、 大量消費社会の現出から生まれたPOP アート、
その後の大量消費社会の“ごみ”と向き合う芸術=
大量ごみ産出社会のアート?
3、 核廃棄物を中心とする消滅しない“ごみ”=非循環型社会
以上の3 点が、私がテーマとし据えた根拠です。
1、 価値観
Wikiに言い得て妙の一文がありますので転載いたします。
ごみは、誰がその物体をごみと考えるかに依存した相対的な
定義である。ある集団にとってはごみでも、別の集団にとっ
ては宝の山という状況が存在する。そこに含まれているもの
に対して価値をいかに見出すかであり、そのために必要な
労働力と賃金とも密接に関係している。
昨今のごみ屋敷問題はある意味、その主体となる人間の
精神構造の問題及び法規抵触に集約されがちだが、実は
案外、価値観という観点から、ごみ屋敷の主を見れば
面白いとも思います。

1 対大多数。しかし社会には必ずこの1人というのが存在
します。誰がどう見てもオカシな事象で取り締まり対象で
あることは間違いないのですが、この状況が1対大多数では
なく、それなりの割合があれば、これは少数派という事に
なります。
そうなるとこの誠にもってオカシな事象も、不思議な価値?
もしくは大多数はからみれば現代社会の集約された病理と
いう枠組みを感じ始めます。つまり自らを取り巻く病理。

社会としても見過ごせない??今現在、日本全国で少ない
事象ではありますが、各所で問題となり、同じような現象
が現れているのは何故なのか?という事から観る方が、
良いか悪いかではなく、面白いと私は思います。
実に不思議ではないでしょうか?周りにさんざんやかましく
言われても止めない。しかも全国どの場所で起こってもその
主の対応が一緒・・・そして何よりもその対処を皆が汗した
税金で数百万、場合によっては数千万円かけて処理するという、、、、
全く価値のないというモノに大多数の善良な市民
が大金を叩くと言う、パラドックスは実に面白いと思います。

又、本当に冷たい視線で、春秋の公募展などを見れば、
ある意味瞬間的に美術館はゴミ屋敷ではないのか??
とも私は思います。。。。。
2、大量消費社会の現出から生まれたPOP アート、その後の
大量消費社会の“ごみ”と向き合う芸術=大量ごみ産出社会
のアート?
良く現代美術という言葉を日本人は使いますが、この現代
とは一体何時なのかという疑問があります。常々本来は
コンテンポラリー=同時代というのが、今現実を中心に
考えれば正確であることは間違いありません。
しかし、存在する言葉の定義としてあえて枠組みを嵌める
とするならば、欧米では1945 年以降というのが定説です。
ではその現代=1945 年以降の芸術動向の大局を見れば何が
見えるか?それはアメリカ主導でありPOP アートがその
エンジンだという事を置いて他にはないと思います。
つまり現代美術とはアメリカが生んだPOP アートという
事が言えます。極論かもしれませんが、枝葉末節の定義は
様々ありますが、大局的に見ればこの2 項目だと私は断定
します。
アメリカのPOP アート、その体現者はアンディ・ウォホル
を置いて他には居ないでしょう。彼の作品はキャンベルス
ープから始まり、マリリンモンロー、、、等々、、

大量消費社会をアイコン化することにより、その当時の
社会の同時代性共感を得、又、今もってその価値がゆる
ぎないと言うのが実情でしょう。それまで人間は地産地消
というのが原則であり、自らの生活圏内にて補給できる
食物を中心に生活を営んで来ました。
しかし、産業革命以降様々な技術革新が進み、其れまでに
ない生活用品の選択の幅が広がりを見せました。
又、マリリンモンローに代表されるように、映像から複写
される様々な広告物が、実像のマリリンとはかけ離れ、
多くの人の中にマリリンが住みだした。つまり、人間=
その虚像をも大量に消費しだしたというのが、ウォホルの
マリリンの文脈だと考えます。

さて、この大量消費社会というものはナンなのか?1945 年
以降から考えれば、現在の2016 年は約70 年経過します。
今現在も大量消費社会である事に変わりはないでしょう。
しかし大きな観点での違いを指摘すれば何が見えるか?
つまり大量に消費されないものをどうするのか?という
事だと考えます。
つまりゴミです。
今、世界中で盛んに叫ばれているのは“高度循環型社会”、
つまりゴミをなくす社会です。ウォホルのキャンベルスー
プは食料としての大量消費の象徴。では大量消費した後の
ゴミの象徴的アイコンとはナンなのか?

又、人間の実像を離れた虚像、映画・テレビ・雑誌という
ある意味の消費媒体が現時点ではインターネットという
世界に転嫁され、もう人間の把握を超えた情報が散らばっ
ている社会のこの実像は・・・・??
これらのゴミをどう見るというのか、ゴミから見てどのよう
な状況なのかという風景こそが、現代の社会風景であり、
実はそのゴミ社会を反映する芸術がナンなのか?が今もって
見えていないような気がします。
これは、現在我々が消費している全てのものが、実は
必要以上に生産されているという事が分かっていても、
尚、そのことに歯止めがかからない社会実情があります。
例えば電気もそうでしょう、具体的に形になった“ごみ”
では無いですが、、ドンドン放出する一方で、それを維持
する為に有機燃料を焚き続け、二酸化炭素を始め有害な
ゴミを少なからず大気に撒き散らしている。
又、次の要素として説明しますが、有機燃料からの脱却
として人間が作り出した半永久的にゴミを処分できない
核燃料もそうでしょう。生き物の命を食むということで
命が存続するという事も又然りでしょう。
ある意味、命の大量消費という冷静に考えれば神をも
恐れない殺戮社会であるだけではなく、命をゴミとす
る社会。

必要以上のモノが生み出されているにも関わらず放置
されている社会とは??
3、核廃棄物を中心とする消滅しない“ごみ”=非循環型社会
核廃棄物は人類が生み出したなかでも象徴的なゴミではないで
しょうか?

核のごみは数万~10万年にわたり、生活環境から隔離する
必要がある。ガラス固化体を鉄の容器に封入し、さらに締め
固められた粘土の緩衝材で覆う人工バリアを施すことで、
地中に放射性物質が漏れ出さない対策を取るが、地震などの
自然災害による影響を不安視する住民などの声が根強い。

平成12年「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」
を定め、地下300メートルより深く安定した地層に処分
する「地層処分」を決めた。しかし、14年から原子力発
電環境整備機構(NUMO)が行ってきた公募に手を挙げ
る自治体はなかなか現れなかった。
これが実情である。
つまり数万年~10 万年ゴミがゴミでなくなるにかかる・・・
作り出したものが責任を持てない、、どころか、、
その数万年~10 万年という時間も想像の範囲でしかない。
人類誕生を遙か越える時間に対して本当に正確な検証が行
えるわけが無い。
つまり、核のゴミは絶対的な究極のゴミ。原発及び核関連
施設に対しての政治的な反対表明をここで書いている訳で
はない。今後のエネルギー政策に対しての提言でもない。
そんな事は別の社会運動家がすべき事だと私は思う。
まぁ少なからず現実的問題を把握し自身の考えを持つ事は
必要だが、今回のテーマとしてここに記載した意図は、
良いか悪いかは別にして、現実的存在する“ゴミ”である
という、その一点からである。
消えうせる事の無いものという観点から、今世紀以降の人間
が背負う事を無視した罪過という捉え方が正確なのではな
いか?つまりゴミとは誰かが作り出すが、それを誰か知らな
い人が知らない間に処理している、つまりアウトプットと
インプットに齟齬を来たしているというのが本質なのでは
ないか?と考えます。
この循環の流れが途絶えた社会という事から考えれば、
我々は何を無くしたのか?という大きなテーマに突き当
たると思います。
何度も言いますが、アートに検証の必要はありません。
しかし、その本質を鋭く突く“視点”が最も重要です。
芸術家が社会の構成員として存在しているのはその文化=
つまり現実社会の人が営む光景を具現化するからに他ない
と私は思います。
決して義憤からくる社会告発ではありません。本当に芸術家
=コンテンポラリーアーティストだけが見える“光景”
に他なりません。
故にその観点からこのテーマ性について考えてもらい、
4 展Shiten の4 名、BAMI gallery2 階にアトリエを
構える芸術家4 名には大いなる今後の栄養となる事を期待し、
この企画を開催いたします。
--------------


「擬態‐ヒデムシ‐」
2016/パネルに麻布・アクリル
455×380mm(F8)
生息域の減少により人類が暮らす都市に紛れ
て生きていかざるを得なくなった架空の生物。
我々に見付からないように生きるためには、
我々の身の回りに溢れ尚且つ誰も気に留めない
モノに擬態しなければならない。
たとえそれが我々にとって価値のあるモノでも、
ゴミであったとしても、彼等にとっては等しく
“身の回りに溢れているモノ”に変わりはない。






crawl
板・墨・岩絵具
H60.3×W35×D1(cm)
頭上では電線が絡み合う。
空は高い。
私達は重く、地の上を這いつくばって見上げる。
廃材を切り取り、彫る。私達は青を欲する。
息継ぎを繰り返しながら、磨り減らすように藻掻く。








「我楽多ノ星」F6
41.8×31.8(cm)
アクリル
"我楽多"という言葉が面白いと思った。
はたから見ればゴミとされるモノも自分
にとっては宝の山。
そんな"ガラクタ"のイメージをすべて
表している様に感じた。
この星もきっと、まだ宝の山に違いない。





ツギハギの球体 セラミック
18×18×18cm 陶土,銅
例えば、割れた茶碗は捨てられてしまうのが常ですが、
本阿弥光悦の金継ぎされた茶碗のように、割れてしまった
茶碗にも再び価値を与えることができます。
ゴミの定義は、私には分かりません。しかし美術を生業と
している人間は、そうしたボーダーをふわりと飛び越え、
表現をするのでしょう。
このツギハギの焼き物は、無価値なものが再構築された
姿です。
一つ一つの破片に意味は無くとも、ツギハギされた
この物体には不思議と親近感があります。




COMBINE/BAMI gallery 代表上山潤
■ 展覧会テーマ: 第四回目は、【ごみ】
■ 展覧会会期 :2016年4月10日(日)~4月22日(金)
■ テーマに関して

ごみ
BAMI gallery2 階スタジオを使用する4 名による実験展。
4 名の4、視点(してん・Shiten)、各自通常の表現とは
違う統一テーマにて展覧会を構成します。
この企画も丸1 年となり第4 回目を迎えます。
今回のテーマは“ごみ”です。実は第一回目のテーマに据え
ようかと悩みました。開始早々“ごみ”というのもどうだろ
うか?との判断で第一回目はテーマを“お金”としました。
このテーマも実は際どいのですが、際どいもの同士の中の
選択でした。過去三回のテーマは“お金”“種”そして
今回の“ごみ”(12 月のさるは別にして・・・)お気づき
かと思いますが、現代の人間社会の外郭=芸術家が描き出
す現代社会の輪郭とその中に流れるモノ・思想・哲学・欺瞞
と言うのものをどのように抽出するのかが、この企画の
テーマとなっております。
この網目(現代人間社会を構成)をどう解釈し、作品と
して図像化・具現化するのか、また何処にそれぞれの
視点が当たるのかというのがコンテンポラリーアーティスト
=同時代性芸術家の精度としては実に大事だと考えます。
決して政治活動ではないし、答えがあるわけではない。
ましてや正義感に溢れるメッセージなどは論外です。
あくまでも、現時点の4 名の制作テーマ性とは別の文脈・
角度を求めるこの企画は、引いてはそれぞれの視野の幅を
広げ、それぞれの芸術の栄養となる事を考え企画しております。
さて、今回のテーマ“ごみ”ですが、
今企画の起案ディレクターの私が考える“ごみ”という
テーマ性には大きく分けて3 要素があります。
1、 価値観
2、 大量消費社会の現出から生まれたPOP アート、
その後の大量消費社会の“ごみ”と向き合う芸術=
大量ごみ産出社会のアート?
3、 核廃棄物を中心とする消滅しない“ごみ”=非循環型社会
以上の3 点が、私がテーマとし据えた根拠です。
1、 価値観
Wikiに言い得て妙の一文がありますので転載いたします。
ごみは、誰がその物体をごみと考えるかに依存した相対的な
定義である。ある集団にとってはごみでも、別の集団にとっ
ては宝の山という状況が存在する。そこに含まれているもの
に対して価値をいかに見出すかであり、そのために必要な
労働力と賃金とも密接に関係している。
昨今のごみ屋敷問題はある意味、その主体となる人間の
精神構造の問題及び法規抵触に集約されがちだが、実は
案外、価値観という観点から、ごみ屋敷の主を見れば
面白いとも思います。

1 対大多数。しかし社会には必ずこの1人というのが存在
します。誰がどう見てもオカシな事象で取り締まり対象で
あることは間違いないのですが、この状況が1対大多数では
なく、それなりの割合があれば、これは少数派という事に
なります。
そうなるとこの誠にもってオカシな事象も、不思議な価値?
もしくは大多数はからみれば現代社会の集約された病理と
いう枠組みを感じ始めます。つまり自らを取り巻く病理。

社会としても見過ごせない??今現在、日本全国で少ない
事象ではありますが、各所で問題となり、同じような現象
が現れているのは何故なのか?という事から観る方が、
良いか悪いかではなく、面白いと私は思います。
実に不思議ではないでしょうか?周りにさんざんやかましく
言われても止めない。しかも全国どの場所で起こってもその
主の対応が一緒・・・そして何よりもその対処を皆が汗した
税金で数百万、場合によっては数千万円かけて処理するという、、、、
全く価値のないというモノに大多数の善良な市民
が大金を叩くと言う、パラドックスは実に面白いと思います。

又、本当に冷たい視線で、春秋の公募展などを見れば、
ある意味瞬間的に美術館はゴミ屋敷ではないのか??
とも私は思います。。。。。
2、大量消費社会の現出から生まれたPOP アート、その後の
大量消費社会の“ごみ”と向き合う芸術=大量ごみ産出社会
のアート?
良く現代美術という言葉を日本人は使いますが、この現代
とは一体何時なのかという疑問があります。常々本来は
コンテンポラリー=同時代というのが、今現実を中心に
考えれば正確であることは間違いありません。
しかし、存在する言葉の定義としてあえて枠組みを嵌める
とするならば、欧米では1945 年以降というのが定説です。
ではその現代=1945 年以降の芸術動向の大局を見れば何が
見えるか?それはアメリカ主導でありPOP アートがその
エンジンだという事を置いて他にはないと思います。
つまり現代美術とはアメリカが生んだPOP アートという
事が言えます。極論かもしれませんが、枝葉末節の定義は
様々ありますが、大局的に見ればこの2 項目だと私は断定
します。
アメリカのPOP アート、その体現者はアンディ・ウォホル
を置いて他には居ないでしょう。彼の作品はキャンベルス
ープから始まり、マリリンモンロー、、、等々、、

大量消費社会をアイコン化することにより、その当時の
社会の同時代性共感を得、又、今もってその価値がゆる
ぎないと言うのが実情でしょう。それまで人間は地産地消
というのが原則であり、自らの生活圏内にて補給できる
食物を中心に生活を営んで来ました。
しかし、産業革命以降様々な技術革新が進み、其れまでに
ない生活用品の選択の幅が広がりを見せました。
又、マリリンモンローに代表されるように、映像から複写
される様々な広告物が、実像のマリリンとはかけ離れ、
多くの人の中にマリリンが住みだした。つまり、人間=
その虚像をも大量に消費しだしたというのが、ウォホルの
マリリンの文脈だと考えます。

さて、この大量消費社会というものはナンなのか?1945 年
以降から考えれば、現在の2016 年は約70 年経過します。
今現在も大量消費社会である事に変わりはないでしょう。
しかし大きな観点での違いを指摘すれば何が見えるか?
つまり大量に消費されないものをどうするのか?という
事だと考えます。
つまりゴミです。
今、世界中で盛んに叫ばれているのは“高度循環型社会”、
つまりゴミをなくす社会です。ウォホルのキャンベルスー
プは食料としての大量消費の象徴。では大量消費した後の
ゴミの象徴的アイコンとはナンなのか?

又、人間の実像を離れた虚像、映画・テレビ・雑誌という
ある意味の消費媒体が現時点ではインターネットという
世界に転嫁され、もう人間の把握を超えた情報が散らばっ
ている社会のこの実像は・・・・??
これらのゴミをどう見るというのか、ゴミから見てどのよう
な状況なのかという風景こそが、現代の社会風景であり、
実はそのゴミ社会を反映する芸術がナンなのか?が今もって
見えていないような気がします。
これは、現在我々が消費している全てのものが、実は
必要以上に生産されているという事が分かっていても、
尚、そのことに歯止めがかからない社会実情があります。
例えば電気もそうでしょう、具体的に形になった“ごみ”
では無いですが、、ドンドン放出する一方で、それを維持
する為に有機燃料を焚き続け、二酸化炭素を始め有害な
ゴミを少なからず大気に撒き散らしている。
又、次の要素として説明しますが、有機燃料からの脱却
として人間が作り出した半永久的にゴミを処分できない
核燃料もそうでしょう。生き物の命を食むということで
命が存続するという事も又然りでしょう。
ある意味、命の大量消費という冷静に考えれば神をも
恐れない殺戮社会であるだけではなく、命をゴミとす
る社会。

必要以上のモノが生み出されているにも関わらず放置
されている社会とは??
3、核廃棄物を中心とする消滅しない“ごみ”=非循環型社会
核廃棄物は人類が生み出したなかでも象徴的なゴミではないで
しょうか?

核のごみは数万~10万年にわたり、生活環境から隔離する
必要がある。ガラス固化体を鉄の容器に封入し、さらに締め
固められた粘土の緩衝材で覆う人工バリアを施すことで、
地中に放射性物質が漏れ出さない対策を取るが、地震などの
自然災害による影響を不安視する住民などの声が根強い。

平成12年「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」
を定め、地下300メートルより深く安定した地層に処分
する「地層処分」を決めた。しかし、14年から原子力発
電環境整備機構(NUMO)が行ってきた公募に手を挙げ
る自治体はなかなか現れなかった。
これが実情である。
つまり数万年~10 万年ゴミがゴミでなくなるにかかる・・・
作り出したものが責任を持てない、、どころか、、
その数万年~10 万年という時間も想像の範囲でしかない。
人類誕生を遙か越える時間に対して本当に正確な検証が行
えるわけが無い。
つまり、核のゴミは絶対的な究極のゴミ。原発及び核関連
施設に対しての政治的な反対表明をここで書いている訳で
はない。今後のエネルギー政策に対しての提言でもない。
そんな事は別の社会運動家がすべき事だと私は思う。
まぁ少なからず現実的問題を把握し自身の考えを持つ事は
必要だが、今回のテーマとしてここに記載した意図は、
良いか悪いかは別にして、現実的存在する“ゴミ”である
という、その一点からである。
消えうせる事の無いものという観点から、今世紀以降の人間
が背負う事を無視した罪過という捉え方が正確なのではな
いか?つまりゴミとは誰かが作り出すが、それを誰か知らな
い人が知らない間に処理している、つまりアウトプットと
インプットに齟齬を来たしているというのが本質なのでは
ないか?と考えます。
この循環の流れが途絶えた社会という事から考えれば、
我々は何を無くしたのか?という大きなテーマに突き当
たると思います。
何度も言いますが、アートに検証の必要はありません。
しかし、その本質を鋭く突く“視点”が最も重要です。
芸術家が社会の構成員として存在しているのはその文化=
つまり現実社会の人が営む光景を具現化するからに他ない
と私は思います。
決して義憤からくる社会告発ではありません。本当に芸術家
=コンテンポラリーアーティストだけが見える“光景”
に他なりません。
故にその観点からこのテーマ性について考えてもらい、
4 展Shiten の4 名、BAMI gallery2 階にアトリエを
構える芸術家4 名には大いなる今後の栄養となる事を期待し、
この企画を開催いたします。
--------------


「擬態‐ヒデムシ‐」
2016/パネルに麻布・アクリル
455×380mm(F8)
生息域の減少により人類が暮らす都市に紛れ
て生きていかざるを得なくなった架空の生物。
我々に見付からないように生きるためには、
我々の身の回りに溢れ尚且つ誰も気に留めない
モノに擬態しなければならない。
たとえそれが我々にとって価値のあるモノでも、
ゴミであったとしても、彼等にとっては等しく
“身の回りに溢れているモノ”に変わりはない。






crawl
板・墨・岩絵具
H60.3×W35×D1(cm)
頭上では電線が絡み合う。
空は高い。
私達は重く、地の上を這いつくばって見上げる。
廃材を切り取り、彫る。私達は青を欲する。
息継ぎを繰り返しながら、磨り減らすように藻掻く。








「我楽多ノ星」F6
41.8×31.8(cm)
アクリル
"我楽多"という言葉が面白いと思った。
はたから見ればゴミとされるモノも自分
にとっては宝の山。
そんな"ガラクタ"のイメージをすべて
表している様に感じた。
この星もきっと、まだ宝の山に違いない。





ツギハギの球体 セラミック
18×18×18cm 陶土,銅
例えば、割れた茶碗は捨てられてしまうのが常ですが、
本阿弥光悦の金継ぎされた茶碗のように、割れてしまった
茶碗にも再び価値を与えることができます。
ゴミの定義は、私には分かりません。しかし美術を生業と
している人間は、そうしたボーダーをふわりと飛び越え、
表現をするのでしょう。
このツギハギの焼き物は、無価値なものが再構築された
姿です。
一つ一つの破片に意味は無くとも、ツギハギされた
この物体には不思議と親近感があります。



