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遠藤良太郎「私は私をやめることは出来ぬ」
台湾から帰ってきたのが10日、、

その後バタバタと企画をスタートして
おります。


BAMI galleryでは本日25日より


遠藤良太郎 Ceramic Works

【私は私をやめることは出来ぬ】


この企画は冬季休廊を挟み2014.01.20 (mon) まで
開催予定です。


遠藤君の個展は


昨年の9月からこれで3回目となる。

百貨店での展開を入れると5回目


かなりの頻度で紹介しているのと
同時に、彼も相当な速さで様々な
作品を捻り出している・・・・


彼とはそう頻繁に会うわけではないが、一度
会うと不思議と長い時間を共にすることが多く、
色々な話をする。


その殆どが現代美術というのかコンテンポラリー
アートの話とその内容、そして彼の考え方、私の
考え方を擦るように延々と話をする、、、、、


つもりが、、ほとんど私が一方的に喋り捲る・・・・


そんな時間が行きかう中、、


これまでの展開で彼が書き記してくれた
ステートメント、、、これを読み返すと実に
面白い。


■ゆらゆらと行方知れずの小宇宙


幼い頃に持っていた自由な遊び心は自身の小宇宙を形成する。
好きなようにルールを作り­そのルールの中で限りなく自由に
遊ぶ。

しかしそれは時が経つにつれていつのまにか行方をくらました。
確かにあったはずなのに­圧倒的スピードで押し寄せる膨大な
情報の波にもまれて小宇宙と離れ離れになってしまっ­た。


だが決して消えたわけではない。あの頃のように五感を研ぎ
澄まし変化を望めばきっとま­た出会えるだろう、あの頃より
も素晴らしい小宇宙と。




■裏アイデンティティは放たれた


あらゆるものが自らの意識とは別に猛烈な勢いで簡略化
されていく現代社会において、自分自信が受ける「生への実感」
が薄れていっているように私は感じている。


自らの実感が薄れていくにつれて、自分が自分であると
いう意味のアイデンティティという言葉の裏に潜む胡散臭
さは肥大化していくように思う。


自分が自分であるという認識は、表面的な情報から形成され
るものだけではなく、自らが受けた生々しい実感と合わさる
ことではじめて成立し得るのではないか?


そうした考えから、私は人間の本能に響く感動を大切にした
いと思った。そして芸術にはその力があると思った。


人の心を動かすような感動が、私が現代社会に欠けていると
思う「生への実感」につながると信じて、私は私なりの感動
を表現をする。


■境界の狭間でオドル


人間及び人間の作り出したあらゆるモノや概念は、
常に境界の狭間を行き来する。

物体と生物、表と裏、愛情と憎悪、そして生と死。
それら全ては対極にあるもののようで決してそう
ではない。

私はそうした曖昧さの中に躍動する何かがあるよう
に思う。

私はそれを感じたいのです。



■私は私をやめることは出来ぬ


強い信仰の対象も、謎の土器も、輝く石も、 神々しく、
そして意味があり、貴重なものだが、ある側面から見たとき、
それらはただのオブジェクトになり得る。


まったく同じモノなのに、そこに向かう人間の想像力は強く、
醜く、美しい、まさに自由自在だ。


今日も私は実像と虚像の狭間で心地良くゆれている。



***********


先日彼と車の中で話をした。


彼は高校卒業後、定職につかず約3年間ブラブラして
いた。アルバイトで金を貯めては、その金で当てもなく
様々な場所に出かけ、車の中で寝泊りし、金が無くなれば
家に帰るという生活を3年間続けていたらいしい・・・・


私は、この話は以前聞きその当時興味を持って
何度も詳細を聞き返していたのだが、ここしばらくは
忘れていた、、しかし何となく”フッ”と思い出し、、


聞いた。。。



「ところで、3年間ブラブラしていて一番の収穫って
なんだった?」



暫く考えた後、、、、



「自由は外に向かっては無かった、、自分の内側
にあることに気がつきました・・・・」



私は上述の彼のこれまでのステートメントを読んでいて
なるほどな、、、と感じました。


彼はある人が見れば短時間でコロコロとスタイルを
変えてめまぐるしく制作しているように感じるかも
しれないが、私は少し違う見方を彼にはしている。



実は何かしらまだ太い軸とはなりえていないが
ある種の筋の通った何かを追い求めているように
感じるのである。


さて今回だが、マタマタ抽象的な、、あるいは
心情をタイトルに据えると言う難しい事を選択
しているが、、、


まぁ実に彼らしくて、私は気に入っている。


■私は私をやめることは出来ぬ


・・・・実像と虚像の狭間で心地良くゆれている・・・


**********



形というものはどこから生まれてくるのだろうか?
彼、遠藤君は今、其の事について相当な深部に潜っ
ているような気がするのである。



・・・・・・・・・・・


何も無い太古に生まれた形、時間を経て整形されていき、
今ある形、、しかし、、今、何もない所から生み出す形。。





その何もないというのは抽象的で、ともすれば安直な選択
な文言ではあるが、何もないというものの定義から頼りに
する何か、、、その形、、、





彼と私は20年くらい生きている時間が違う。
彼とはよく話すのだが、、ほとんど一方的に私が速射砲
のように話す。





今の彼の年齢において、君の時代にあるもの、私が君の
年齢の時になかったもの、、、、
しかしこれは表裏であり実は同じものなのである。


電話、私の時代には携帯はなかった、君の今の時代には
携帯が無い世界がない。一つモノを挟んで無いものの
地下水脈は繋がっている。





君の時代には何時でも誰とでも繋がれる。私の時代にも
何時でも誰とでも繋がれた。


そこに機器があるかないか・・・だが、


私は、機器の無い所でもいつも繋がってた。





携帯の無い世界が無い今、君の中で媒介するものなく、
いつでも繋がれるものとはなんだ?それはどういうも
のだ?どういう普遍性があるのか?





そこにある形はなんだ??





私は、彼が生み出そうとする形には、そういう事に
真剣に向き合う”萌芽”を感じて止まない。。。




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