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ゲームの荒行
好きなもの、みんな色々あるかと思いますが自分は何が好きだろう。

あー、けっこうゲーム好きだなぁー、と思った。
ゲーム。これはとても楽しいものです。画面の向こう側での楽しさ、とはいえとても魅力があります。

私はちょうど初代ポケモンブームのとき小学生で、親にねだってポケモン緑をゲットしました。
必死になってポケモンを育てました。モンスターボールを投げたらABボタンを意味なく連打していました。あのときからずっとゲームが好きです。

そこからはまさに、ゲームとともに育って来たといっても過言ではありません。
私が育てばゲームも育つ。
ゲームのハードはファミコン、スーファミ、ゲームボーイ、PS、セガサターン、64、アドバンス、キューブ、PS2、PSP、Vitaと大体のものを購入してかなりの本数のゲームをプレイし、それはもう膨大な時間をゲームに捧げてきたような気がします。あんまり覚えてません。某狩りゲーと某格闘ゲームの二本だけでもプレイ時間が軽く1000時間越えてます。きっと長いこと高熱が出ていたのでしょう。

しかし世の中の風潮としてはゲームが好き!とかいうと「大人にもなってまだゲーム?」みたいな、肩身の狭さを覚えずにはいられません。

特に、ゲーム否定派がこぞっていうこの言葉「ゲームやってなんか意味あるの?」

この問いに私は何か引っかかりを感じます。
この問いに込められたものを考えると、やはり大人になると意味のあるもの=価値あるもの、という構図ができてしまうようで、意味の無い無駄なものは排除される傾向にあるようです。ゲームは排除される筆頭のようです。

確かにゲームを寝る間も惜しんで必死になってやっても何も見返りはありません。あるとしたら難しい漢字が読めるようになることと、東西南北が分かるようになるぐらいです。
確かに無意味、見返りなどありません。むしろ目が悪くなって運動不足になります。



しかし意味がないから夢中になれる、という側面もあるように思います。
ゲームの魅力の最大はそこかもしれません。


最近、目的のない遊びをしただろうか?(ゲーム以外で)
ふと考えると、全然していないような気がします。
何かにつけて行動には理由や目的がなければならないと錯覚しているようにも思います。


小さい頃は、全てのものが遊び道具に見えました。
落ちてる石拾ったら何か的を決めて投げたり、木があったら登ってみたり、こうした遊びに意味や目的などまったくありません。だけど楽しい。
子供にとって、遊びとは生きることそのものです。


遊びというものは本来、意味や目的がないものです。

生きることもまた、意味や目的なんてないのかもしれません。

長い高熱が最近はだいぶ微熱になって落ち着いてきたので、ゲームだけではなく、何か他の遊びを考えてみようと思います。

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「脳内自分探し」
自分探し、というとなんだかこっ恥ずかしくて独特の青臭さを感じずにはいられないのだけど、ふと自分のことを考えてみた。

すると、普段生活しているときにはそういうことは頭にないのですが、
制作のこととなると、やれ「個性がー」とかやれ「独自性がー」とか、「自分の土台とはー」とか、そんなことをぐるぐるぐるぐると考えている。

そうこれはまさに、青臭くてなんだかこっ恥ずかしいと斜めに見ていた「自分探し」!!
は、恥ずかしい。

しかもこの自分探しというもの、私は以前もしていた(19歳から21歳くらいにかけてちょっと)。
していたからこそ知っていることがある。

それは、自分探しの旅に出ても99.9%くらいの方は、残念ながらお目当ての「自分」を発見することができないということです。
今のところそうした旅に出られて、見事本当の自分を見つけた人は一人も知りません。某・元サッカー選手の彼はどうなのでしょう。探し物は見つかりましたか。


理解していたはずなのに繰り返してしまう。人間というのは愚かな生き物です。


なにが言いたいかというと、私はいうなれば「脳内自分探しの旅」を長いこと決行していたということになります。

「脳内自分探しの旅」、これはあまり意味がないことはさっき述べた通りです。探していたお目当ての自分など、そんな都合のいいものは無いのです。
それはつまり、この考え方では一向に前に進めないということです。



自分を探すのではなく、自分を無くしていく。



先月の4月、私はめでたく29歳になりました。ロックスターなら死んでもおかしくない年です。
やはり29歳にもなると、これまでの経験とか将来のこととかそんなものを抱えつつ、なんかいつのまにか積み重ねられてきた自分っぽさ、みたいなものがあります。



自分、みたいなものを保つために積み重ねられたもの、それはきっと「我」という煩悩です。
自分を無くしていくためには、過去や未来がなんやかんやという煩悩を落としていく必要があります。


その具体的な方法で一番分かりやすいのが、好きなものになる。ということかと思います。


さっき、たまたまテレビでモノマネ番組やってて、やっぱりプロのモノマネ芸人ってすごく面白くて、似てる似てないは置いておいて、彼らは「我」を消して好きな相手になりきっているんです。
自分がないから、相手になって好き勝手できる。だから面白い。
もちろんどんなに相手が好きでも、それは他人だから完璧に同じになることはできません。
しかしその不完全さ、余白のところに「個性」というものがひょっこり現れているようにも思います。

よくなんちゃらパーティーとか飲み会とそんな場で、素人が一発芸としてモノマネを披露したりしますよね。あれほど目を当てられないものはありません。
素人は自分をキープしながらモノマネをするから寒いのです。


これは表現をする人にとって共通することだと思います。


なんだか自分がそんなこっ恥ずかしいことを無意識にずっとやっていたかと思うと、ウワーという気持ちでいっぱいですが、そんなとき自分の頭の中に「リトルみうらじゅん」が現れてゆるーい雰囲気で「そこがいいんじゃない!!」と言っていきます。



さて、私は何になろうか。

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