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2018.10.21 小橋順明 solo exhibition 「共有地の悲劇 ~昆虫<皿<水<テーブル~」

土に棲む

平成金花繚乱
【作品について】


私が18歳のとき祖母が死んだ。


それまで私は人間の亡骸というものを見たことがなかった。いやもっと正確に言えば、昨日まで
会話していた人間の亡骸をこのとき初めて見たのであった。そのときの亡骸に対する率直な視覚的印象とは、青白い陶器のような“物体”というものでした。肉体そのものは生命を宿す自分と本質的にはなんら変りないのであるが、生命が抜け、その後に残された肉体とは、この時、正直私には“物”にしか見えなかったのである。目に見えない生命、これが人間を動かす起動装置なのだと実感し、そして、この生命という存在が肉体を離れる、その瞬間から人間と呼ばれてきたものはただの肉塊と変化してしまうのだと祖母の亡骸を見て感じたのでした。


生命とはその量的、質的、あらゆる単位で可視化できない存在であり、それが根本的に“人間の肉体のどこで保有しているのか?”“どのように動いているのか?”それすらも分からない…主体的感性として生命を掌握しているよな感覚とは実は嘘であり、生命の在処すら把握できず、そして主体的コントロールが出来ない客観的な存在として与えられているものこそが生命なのであると気付いたのでした。人間の肉体が、人間たる存在であるには、この生命という主体的コントロールが不可能な謎の存在があるかないかということが全てであると感じたのと同時に、人間は案外可視化できる肉体を中心に人間と言うものを視覚で捉え、その可視化された肉体の集合を人間社会というような捉え方を感覚的にしているのである。しかし、実際には不可視な生命が人間そのものであり、社会の本質的構成案件と過程とはこの不可視な生命存在間の交信で得る感受性であり、肉体とはその生命が宿る依代、媒体に過ぎないとこの時強く感じたのであった。


人間の一生とは時間の単位でみれば大よそ平均80年という事である。しかし、これは生命を保有している時間の長さを表しているだけであり、生命が肉体を起動し、生命保有者が生きていると言う実感の記憶を得られる時間とは実際80年なのだろうか?という疑問がある時浮上したのである。人間は睡眠を平均7時間~8時間必要とする。これは一日24時間の約三分の一に当たる。睡眠とは在る意味、肉体・精神の疲労を取り除き記憶の確定を行なう為の生命の再起動のような行為であり、人間にとっては不可避な行動である。この睡眠時間とは本来的な生命の躍動時間ではない。人間の生活という観点において一時的な機能停止状態であり、少し極端な論法になるかもしれないが、日常の中における空白状態、在る意味においての“死”の状態ではないかと仮想できる。


但し、先述の私の祖母に見るような完全なる死、生命が肉体から放逐されたような状態ではなく、あくまで生命を維持しながらの仮死の状態である。このことから考えれば一生80年ということではなく、その三分の一約25年は仮死状態であるという事であり、生命と肉体の躍動時間とは実際55年という事になる。また、もう少し違った側面で捉えれば、やはり80年という時間ではないという部分が考えられる。それは例えば“もの心”という言葉に代表されるように、幼児期の時間帯などと言うものは記憶にないこともさることながら、明らかに“もの心”つきだした時点からの生活時間とは相違する。また老年を迎え死に近づく、このタイミングにおける人間の時間帯もやはり幼児期と同じ様な記憶の喪失の中で経過する時間である。このことから考えれば、人間というものが生命感を躍動させている時間を仮にグラフ化した場合、幼児期と老齢期を除いた時間帯がピークとなり、この時間的ゾーンが人間の生命感の記憶となる。明らかに平均化した時間経過の中で考えれば80年という時間の長さで捉えられるのであるが、本質的な内容を中心として考えた場合それはやはり50%程度の内容になるのではないか?と考えるのであった。


これは何を意図して書き連ねているかと言えば、人間は明らかな生命感の躍動を感じる時間と、
そうでない肉体から遊離した時間の中でその人生の時間経過を体現しているという事である。
肉体と言う可視化できるものの活動において実感できる時間帯と、肉体とは遊離した時間帯、どこに所在しているか分からないような自覚の意識の無い浮揚感の中で、自らを不可視な漂う時空に身を置いている時間帯が存在し、そこを行き来している総合的な時間が平均約80年存在するという事を指し示しているのと同時に、我々が生命と交信している時間とは実は一生という時間の内のごく僅かとは言わないまでも、観念的に捉えている時間の実は半分程度なのではいなかという事であり、もっと踏み込んで言えば、肉体を有して人間であるという観念的な自覚の記憶とは人生の半分程度における時間の問題でしかないということだ。という事は肉体的な感覚から解除、開放されている時空にも人間は生活し、在る意味肉体を必要としない時間がどの人間にも一生の約半分は存在するのである。肉体とは別の時空、ここでは人間社会で常にその相対を視覚的に比較確認するというようなものは存在せず、ただかすかな記憶の交信の中で実感のない自分が想像のみの世界に存在し、その脈絡の無い時間経過において善悪、成否という現実社会の規範も存在しないただ漂うような時空に一生の約半分の時間、自らを存在させなくてはならないのである。


夢現…という言葉が日本には存在する。


人間はある意味、毎日生死を繰り返しているのではないかと想像できる。
茶道の世界において“夢”という言葉は英語にみるようなDREAMではなく、死の世界を
表しているのはこの辺りとリンクしているのか?と私などは想像する次第である。


人間の毎日における生死とは、一生という時間軸の同一線上に存在し、その一本の線を辿り時間を経過させているものとは目に見える肉体的行為ではなく、生命という不可視な存在、それが在るのみであり、人間とは肉体のみをもってその存在が確認されるものではないということなのだと思う。極論で言えば人間とは生命存在の想像が果たせなくては、自分はもちろん自分以外の人間の確認なども到底できない、ひいてはその集合体である社会の姿などは認識できないという事につながるのである。


奇形、異形、奇行等々、人間社会では観念的な平均から外れる視覚的部分をこのような言葉で括り差異化を図る。しかしこんなものは肉体を中心として可視化している中での問題でしかない。
人間の生命と言う次元で捕らえれば、これらの差異化などはいとも簡単に雲散霧消化する。
生命の存在に差異はありえない。生命に異形も奇形も奇行も存在しない。ただ生命が存在するのみである。幼児とは誤解されるかもしれないが、我々大人からすれば人間の肉体的視覚観点から
比較すれば、間違い無く奇形状態である。しかし健康な幼児を奇形と呼ぶだろうか?誰もそんな
ことを想像する人間はこの社会にはいないと思う。これは何故か?我々大人と差の無い同じ命の存在を感じるからなのではないだろうか?また高齢者、体が不自由で満足に歩行も出来なければ、耳も言葉も、記憶すら喪失した状態、これを異形、奇行と見るだろうか?同じ生命の存在を感じたのであるならば、これもそのように捉える人間は社会には存在しないと思う。仮に健康でない幼児がいたとして、これを奇形として社会は切って捨てるだろうか?生命の存在を社会で感じたのであるならば、同じ人間、同じ生命として社会は歩を一にして行くのではないだろうか?


生命への想像、これが大事なような気がするのである・・


しかし、現実社会では厳然と奇形、異形、奇行という枠組みを堅持している。この差異化の構造は実は不可思議なものであり、一体どこまでが平均でありどこからが差異化の対象になるのか、実は判然としない枠組みなのであるが、現代社会の現実はこの奇形異形奇行という枠組みを肉体的視覚観点でどんどんと膨らましてきているのもまた事実である。子供がいなくなり、高齢者がどんどんと増え、社会を運転する層の人間が著しく減少していくなかで、子供と高齢者が年々経済的にも生活環境においても疎外されていく。また社会を運転する層においても仕事につけない新たな枠組みが増加し、観念的に平均と信じてきていたものが崩壊し、平均から外れた異形の層がドンドンそのボリュームを増加しているのが現代社会の構造となりつつある。この社会の構造はどうすればよいのだろうか?何かを切ってすて、もしくは停止し修正を図るのであろうか?それで本当に上手くいくのであろうか…


間引きや姥捨て山などという話は、実に悲しい出来事であるが、冷徹な側面で考えれば、コミュニティーを維持するための在る意味一時的な一つの理論だったのかもしれない。これと同じことを歴史で教育化された現代人の我々は繰り返すのだろうか?そしてそれは上手く行くのだろうか?


我々現代人は今この平均が崩れ差異化をこれ以上他人事のように分断できない過酷な現況を乗り越える理論をもがきながら探しているような気がするのである。そのとき何が理論の中心をなすか、やはり私は生命の存在への想像を中心に置かなくてはいけないような気がするのである。
肉体的な差異化による量的把握ではなく、全て同様のカウントを行なう必要を感じるのである。
いずれ時間経過にて次第送りとして誰もが差異化された区分へ突入する循環があるわけであり、
この循環を常によどむ事の無いようにする方策と理論が求められているような気がするのである。


このような生命の存在に対する想像が著しく低減、毀損された危機的な状況の社会、この時代に
生まれた数ある芸術作品の中で、永吉友紀と鵜飼容子が同時代的感性で表現した絵が語り訴えかける差異化なく存在する命の姿は、何世紀を経た後の社会の中で、後世への循環の中でもがく人々に対しても明確に通じる普遍的な大きな意味があると私は確信するのであった。




【この展覧会について】
今展は、永吉友紀の描く廿世紀前半、戦前、戦中を生き激動の社会に流され、望むべく将来をもぎ取られた悲しき女性群像と鵜飼容子が描く社会と隔絶した時空に漂うような生命体と生命感という二つの表現を此岸/彼岸というテーマにて編集いたしました。この二つの表現を同時に展覧することは、人間社会の中で極端な存在を可視化することよってこそ得られる不可視な人間の同質的生命の存在、生命の在処を感じていたくということを企図したのと同時に現代社会の日常で寸断されつつある自分に与えられた生命との交信を感受していただければと企画いたしました。