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2018.10.21 小橋順明 solo exhibition 「共有地の悲劇 ~昆虫<皿<水<テーブル~」

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【作品について】


映画監督の黒澤明と北野武が映画における時間表現について対談している映像を以前見たことがあった。どちらも日本を代表する映画監督であり、その二人の日本人が共通に考える映画における時間の表現方法が実に興味深かった。


なにげないワンカット、玄関に靴が散乱している。その後尋ねてきた人間達の歓談シーン、そして次のカットで玄関に散乱していた靴が整然と並べられたシーンへと続く。


この連続するシーンの意味するものとは、確実に時間が経過していることと、映像化されていない人物を想起させる内容が盛り込まれていることだ。靴が散乱する状況から歓談へそして整然と並べられた靴。この歓談から整然と並べられた靴への時間の中には、誰かがそれをした、あるいは歓談から外れたところでそういうことをする人がいるという存在の意味が含まれている。


ここから感じることとはなにかといえば、時間が経過する中で、映し出されたもの以外の持つ意味や見せられていない映像への想像力の働きかけを感じるのと同時に、実は見ていないものが見えているものを支える大きな存在力があることを感じるのである。


もう少し踏み込んで考えれば、靴が散乱する状況から直結して整然と並べられた靴へという歓談のシーンを取り除いたシーン構築を考えた場合、おとずれた人物たちと靴を並べる人物という二つの要素が見えないものとなり、見えているシーンは靴が散乱する状況から整然と並べられた靴という時間経過のみとなる。このシーン構築の変更からは、先ほど以上の想像を働かせる要素や風景を浮かび上がらせる力が存在することが感じられないだろうか?


歓談のシーンという見える要素を取り除くだけで、映像として固定化された来客者の存在を、想像の存在へと変換することが可能となるのであり、見るものには、靴が散乱した状況から整理された状況への時間経過の間に大きな想像の意味を与えることとなっている。


この歓談のシーンを取り除く作業を考えた場合、歓談のシーンは無くなった、無いものなのであろうか?いや、より以上にあるもの、そういう時間や人間が存在するイメージを増強させたのではないだろうか?


問題は見えているものの把握、説明でないことであることは、これらの事情からよく理解できるのではないだろうか。あくまで、目で見えているものとは“靴”でしかない。しかし目で見えていないものが語る存在と、その存在が動く時間を確実に感じるのである。


しかし、この説明には問題がある。


実際の映像を想像してもらえば分かるのだが、靴が散乱した状況から整理された状況へという2シーンだけではリズムに欠けるのである。パンパンと切り替わるそのリズムには映像が伝える時間的内容を瓦解させてしまう恐れがあり、もっと平明に言えば目まぐるしくて見ているものが息苦しくなり、伝えようとする意味など猛スピードで過ぎ去ってしまう印象しか残らないのである。


目で見ている現実的な時間が短すぎるということとは、想像を働かせる時間的余裕が欠落していることであり、このような映像構造は、時間的内容を凝縮しすぎて、より見えないものが語る存在を高めようとする効果を得ようとしてもそこには限界が生れるのであった。また、逆に見えないものが語る存在を退行させてしまう可能性すら生まれるのである。


それを回避するにはやはり靴が散乱した状況から整理された状況への間に何かのシーンがリズムとして必要となるのである。この例えの場合、歓談シーンがそれに当たるのであるが、この部分こそが、実は映画監督が考える時間観念を具現化した部分であり、それを何によって表すかということが即ち映像の中に流れる時間に対する考え方となり、そこから見えないものの存在を表現する核とするものであった。


本来、靴が散乱した状況から整理された状況へという事を映像的なリズムを伴って見えないものが語る最大限の効果を得て表現したいのであるならば、先に述べたようにパンパンと切り替わるシーンの時間的スピーを緩めたい筈である。そして、その流れの効果を最大限引き上げたいのであるならば、本来、説明的すぎる具体的風景のシーンよりも、なにもないものを差し挟むのが一番効果的であることは間違いない。しかし何もないものの見える形として差し挟む映像をスローモーションで生み出そうとしても、それはただ同質のもののスピードが緩和されたに過ぎず、想像を働かせる時間的余裕が生まれたにしても、想像の幅を広げる効果を得るための本質的解決とはならない。やはり何かを挟む必要性にかられてしまうのである。


歓談シーンというものでは、靴が乱雑となった状態の意味を説明しすぎる重さがあり、想像の幅を狭めてしまう効果になってしまうのであった。これは例えばポンと全然違う風景を差し挟んだ処で同じ結果にしかならないような気がするのである。それが例えば山の風景であったと考えてもらえば分かるのであるが、別の意味が走り出してしまう可能性を孕んでしまうのである。日本映画ではよく使われる手法かもしれないが、結局、山と今の状態をつなごうとしても、もとのシーンに戻るまでのリズムのための無意味なシーンとしてしか結果を得られないのが本質のような気がするのであった。靴が乱雑であるシーンを長回しし、整然と並べられた靴のシーンを短くするというようなシーンごとの時間配分を変えたとしてもその効果はあまり高いものになるとは思えないのと同時に、やはりリズムが悪い。問題は靴が並ぶというシーンから瞬間僅か数秒遡ることによって得る見えないものの存在と、靴が並んだシーン以降に繋がる時間への濃縮した情景への昇華は、やはり何かの映像化し得ない空白が本来必要なのである。


この映像の例えの中に生まれる具体的に“見えるもと見えるもの”との間に生まれる時間的空白、
具体的映像風景では捉えきれない目に見えない時空こそが「間」と呼ばれるものではないだろうか?


この「間」の部分だけを取り出し、見える形に変換しようとするならば、それは一体どのような
ものとして我々は視覚に捉えるのであろうか?その誰もが視覚に捉えたことのない世界を追求し表現=「表すと同時に現れる」現象に挑戦しようとしているのが、アーティスト渡辺政光なのである。


日本近世の芸術家、近松門左衛門が唱えた「虚実の皮膜」。
虚構と現実の狭間に芸術表現は存在するといった理論である。所詮芸術とは虚構なのであるが、
完全な虚構だけでは芸術とはなり得ない。現実的な要素と虚構の狭間スレスレにその存在があり、
それらが溶解することによって芸術という空間が立ち現れるのである。


「間」というのは現実的な存在からすれば虚構である。しかし現実的な時空の存在だけでは決して感動を得ることは出来ない。やはり現実と現実の間に虚構が存在し、それらが溶解するからこそ、人間の想像という活動が生まれることとなり、全体を様々な豊かな感動でくるむことが出来るのである。


渡辺政光が語る茶道の手前、一つの動作のあいだに一呼吸半の「間」を取る。この「間」によって客との呼吸を合わせコミュニケーションとることができる。


茶を出す合理的な動作で考えれば、入れれば即出すということであり、一呼吸半の時間など合理性から考えれば無意味なものとなる。しかし、これではただ茶を飲むという日常の行為となんら変わらない。しかし一呼吸半という現実と乖離した虚構の時間を設けることにより、茶を出す方も飲む方も日常の茶を喫する行為とは明らかに違う、芸術空間の住人となるのである。現実的な茶を出し飲むという狭間に存在する虚構の時空が、接する人間の間で溶解することにより感動が生まれるのである。


今我々が生きるこの日本社会を考えた場合、この一呼吸半という現実と乖離した虚構の豊かな時間を破壊し、虚々実々を入り乱れさせ、虚構の皮膜を激しく破ってしまったのではないだろうか?虚構の皮膜を溶解という時系列ではなく混濁した状態に持ち込み、虚も実も明白さを失った時代。人間の豊かな想像力を緊縮し制約を張り巡らした状態で、すべてが合理的に進み、現実しか見ない見えない社会、見えない豊穣の時空「間」を許容しない考えない社会を生み出しつつあるのではないだろうか?


雑踏の中、猛スピードで流れ去る人と情報、その中であえて立ち止まると「静寂」が生まれはしないだろうか?現実的に流れる人や情報の流れの中で一人立ちつくした時、虚構の皮膜を感じはしないだろうか?周りの流れ去るものはどんどん溶解され自分一人だけが浮き彫りとなる感覚。時間は流れるのであるが、立ち止まる自分は時間がない時空へ嵌り込み、本来の自分が生きている位置を確認することができるのではないだろうか?


渡辺政光の作品を凝視すれば、現実社会の狭間にある


本来の自分の時空が見えるかもしれない・・




【この展覧会について】

余白は日本美術の造形感覚や美意識、異文化との比較対象となる基本的な概念である。日本人の美意識にとって余白は、画面空間を調整する曖昧な空間として捉えているのではなく、空間構成の軸として捉えるものである。また絵画において「見える」ものと「描かれているもの」は同じではなく、描いたものだけが見えているわけではない。今展では、それらの概念を、何もないのだけれど何かある、時間や空間を感じる時、あるのだけれどないものというテーマを「間」という感覚に集約し、現実的視覚世界に存在しない“無い”という意味の観念を、“在る”という存在を示す画像として表現しております。
【作家プロフィール】
【画歴】
2009年
solo exhibition 「間」/BAMI gallery(京都)
第13回 上海アートフェアー出品

2006年
80回国展 80回記念賞
クラコウ国際版画トリエンナーレ

2005年
79回国展 新人賞
バレートバーバン国際版画ビエンナーレ

2004年
全国大学版画展 買い上げ賞
版画大賞展 スポンサー賞
ブルガリア国際ミニプリントビエンナーレ

2003年
台湾国際版画トリエンナーレ