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2018.09.24 [Schedule] 佐野 曉 Akira Sano solo exhibition

light_keio

The sand
「古池や 蛙飛び込む 水の音」… 渡辺 政光の作品を見ているうちに松尾芭蕉の俳句が頭に思い浮かんだ。芭蕉は水音で蛙の存在を“感じ”、五七五の限られた字数の中で目に見えるものと見えないものとを結ぶ「間」を表現している。表現の違いこそあれども、渡辺 政光のこのミニマルな白の世界に残像のように描かれた形には、何も描かれていない余白に隠された世界へ繋がる道しるべのようにも捉えることができ、わたしたちに何かを“感じる”ヒントを与えてくれる。
『light_keio』、この作品は渡辺 政光の“何も無いのに何か有る”というコンセプトを理解するのに一番わかりやすい作品だと思う。左右に滞る人と人との間に横たわる白い余白は、恐らく横断歩道であろうという想像は容易につく。…歩行者信号機の発する電子音、信号待ちをしている人々の雑踏、活気ある街の空気の波動までもが数珠繋ぎのように次々と蘇ってくる。何も無いこの白い空間にパズルのようにピースを置いた瞬間、スイッチは押され、人間が本能的に持っている第六感や想像力を猛烈に刺激し、堰を切ったように記憶や経験の断片を繋ぎ合わせる行為を促す。ストップモーションだった世界は動き出し、音や時間の感覚を伴ってあたかも二次元の世界から三次元の世界へと移行したような錯覚すら覚えてしまう。

「夏草や 兵どもが 夢のあと」…一方『lihgt_keio』とは対照的に、白い余白の中に人ではなく風景を残して切り取ったような『The sand』は、そのタイトルから常夏のビーチや灼熱の砂漠のオアシスを連想させる。椰子の木の合間を縫うように横たわる白い「間」からは、波のさざめきやその間で歓声を上げる人々、はたまたゆらゆら揺れる蜃気楼の中を進んでゆくラクダの列が浮かび上がってくるようだ。物理的に視覚で捉えられるものから思いを馳せ、実際にはそこに存在しない物事を容易に連想したり、想像の範疇において“今”という時間軸から季節や時代すら跨いでいとも簡単にワープしたりできる感性は、人間だけに与えられた能力であるには違いない。だがそこに“確かに存在するのに形を持ち得ない”音・匂い・声・感情…などを伴ってシアターのように脳裏に展開することは、俳句や短歌のように限られた文字数だけを使っていかに美しく、いかに豊かでかつ臨場感のある表現をできるかが問われる能力、もしくはその限られた文字数の中にちりばめられたキーワードから、具体的には表されていないものを手繰り寄せて愛でるという独特の文化を持つ日本人にとっては案外容易なことなのかもしれない。

 渡辺 政光のミニマルな白の世界の根底は、実は脈々と受け継がれている日本人であるが故の独特の感性が強度な下地となっている。その上で彼の紡ぎ出した白はより一層の輝きを放つ。