【作品について】
西暦2009年の現在、日本の国家指導者及び大部分の国民は100年に一度の大不況と大騒ぎしている。しかし、これは本当にリアリティーをもって語られている現象なのだろうか?冷静にこの国、特に直近の歴史に視線を移した場合、昭和の大戦前後の国内状況と現在が、この100年という言葉のもつ時間観念の中で正確に比較でき得るのであろうかと考えてしまう。誰が考えても政治にしても経済にしても、究極である生死の保証も国民が受けた災禍は比較にならない筈である。しかし現在、この100年に一度などという言葉を昭和の大戦を置き去りにして軽々と飛躍して語れる感覚こそが、実はこの国の歴史に対する真のリアリズムなのではないのか?と逆説的に納得してしまう。
今回、永吉友紀が個展タイトルに据えた皇国という言葉であるが、確かに我が国は1945年の8月15日以前は皇国であり、現在の日本国ではなかった。これは何を意味するのか?簡単に言ってしまえば違う国に変化したということである。しかしこの変化とは100%主体的行為によって得たモノではない、ある種敗戦国という境涯から作為的に受動させられたモノである。
その受動的要素には、この国の歴史において明確な分断ポイントとしての記録、“なぜそうなったか”“なぜそうしたか”“なにをしたのか”などという因果の関係が存在するはずの先の大戦での事象を雲散霧消化する装置が仕込まれていたことも又事実である。我が国が連綿と続く歴史の中で、現在の国民が1945年以前の国家状況を考える時、極端かもしれないが戦国時代や江戸時代、少し写真の資料がのこり雰囲気が掴める明治大正と同じような風景として捉えるに至っているような感覚がある。それも1945年から遠ざかれば遠ざかるほどに精度の高い歴史認識との乖離が進行しているような気がする。その感覚こそが先述の100年という時間的観念の言葉であるのと同時にこの国の歴史認識のリアリティーなのではないかと改めて感じる。
しかし、現在でも、ある一本の現実的視覚効果(大戦を想像させ得るモノ)を社会に挿入すると、我々は頼りない想像の中で戦争という状況を考えるポイントが浮かび上がってくる。それは例えば現在公的に使用しない日章旗などというアイテムや、目に見えないものではあるが、言葉の文化として残骸となった皇国などという単語もその一つとして挙げられる。これらは我々の歴史に対するある意味“アイコン”なのである。これは高度情報化社会に突入し、戦争もその他歴史的事象も含め、そのプライオリティーが不明瞭となり、自国の歴史的認識として重要な情報が、ありふれた日常的な風景と平準化してしまったなかで、アイコン化された戦争という情報に触れた瞬間にのみポップアップするという仕組みが生れたのである。
これらから考えられるのは、戦争という現実味を帯びない情報は、実は身近に数多存在するのであるが、その存在価値は山や川と同じような風景としてしか捉えられないものになってしまったのである。歴史と言う文化の中軸をなすものの情報、特に先の大戦などは、極論かもしれないが現代においてはサブカルチャー的な捉え方をしているような側面が伺えるのである。知っているものは知っている、知らないものは延々と知らない。偏狭的なカルチャーと化しているのである。
現在マスメディアや評論家が伝える現代風景とは、何か不安であり不安定なという記号を連呼するのであるが、これが間違いとは言わないが、なにに?という具体的なものまで提示しきれていないのも現実である。しかしどうであろうか?今の我々、2009年時点の日本国民として先の時間・将来を考えた場合、全てとまでは言わないが、大半の感情として、希望と絶望が交錯するような感覚を持っていないであろうか?時間が経てば事態が良くなると安直に想像できるだろうか?それとは逆の方が現代の感覚としては近いのではないだろうか、時間が経てば今より事態は悪くなると言った方が当世の感情としては整合するような気がしてならない。
この不安の遠因とはなんなのだろうか?社会に何ともいえない終末観があることは事実として感じられる。2001年9月11日に起こったテロ、その後の戦争、また最近の北朝鮮の動向、そして世界的な資源投機による燃料資源に対する不安、中国を始め台頭する新興国の権益拡大と逸れに伴う急速な地球環境の変化による脅威、全て日本は無関係と言えない状況に巻き込まれている。極端な言い方かもしれないが、紛争にすでに巻き込まれていて、ある意味全面的でないにしても確実に間接的には紛争に参加している現実がある。これは言葉の解釈の問題ではなく現実に起きている生死のやりとりを始めとする世界的視野における国家間の善処しがたい諸問題の延長線上にその身を置いているという現実である。
しかし、実際の感覚として、その緊迫感を社会及び現代人が感じることは無く、ただ漠然と不安と虚無そして終末観を産み出しているような気がするのである。
戦争とはどこからやってくるのであろうか?先の大戦という経験から考えれば現実的な社会の反応を具体的に得られるはずなのであるが、実際には何か不安が・・という程度にしか社会的な反応は出ていない鈍感さである。この想像力の欠如とは、まさしく先の大戦以降の現実的な我が国の歴史認識の経過であり、希望があろうが無かろうが生命は続くと何の根拠も無く盲目的に信じる安心感に他ならない。
その一因になるものとは?
20世紀後半から21世紀にかけての紛争は遠隔誘導された武器によって全てが想定されており、ますます人間の死やそういった劣悪な環境下での人間の尊厳を無視した現実をより想像から遠ざけている。たまに放映されるテレビでの取材も、現実的には画面の中の出来事であり、他の時間帯に流れるお笑い番組やドラマやコマーシャルと同次元的認識を我々は行っているのである。。これは逆に言えば、メディアが何らかの形で見せるまで想像しないで済むという事にもつながり、著しい想像力の瑕疵を招いているのと同時に、見なければ想像しないで済む、また信じない、信じようとしないという現象が蔓延しているような気がするのである。
そういった日本の現代社会の状況下において、永吉友紀が表現する世界観は実に興味深いものが存在する。そして私は、今回の個展、“皇国の乙女”が表現するものは日本の現代社会にとって、とても重要な要素があると考えたのでした。
今回彼女が個展に寄せたステートメントを読むと以下のようなことが書き記されている。
「20世紀前半、戦前、戦中を生きた乙女達。彼女達は激動の社会に流され、あらゆる犠牲を強いられる。望むべく将来をもぎ取られ、在るべき姿を強要された。彼女達に嘱望されたのは、不穏な情勢の日本及び大陸各所で貞淑な妻、従順な娼婦として生きること。
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私の作品はそんな彼女達の姿を、ごく抽象的なイメージとして捉え図像化している。深い運命を
背負った乙女達に思いを馳せ、その哀しみや空虚感の一旦を感じていただきたい。」
とある。
ここで大事なのは、“ごく抽象的なイメージとして捉え図像化している”という点と“深い運命を背負った乙女達に思いを馳せ”という部分であると思うのである。これらは全て想像の世界であるという事だ。しかし先から述べているように、この想像という力が実はこの時代においてはかなり重要な要素をなし、現代のサブカルチャー化した戦争を中心とした歴史認識下には必要不可欠なアイコンであると考えるのと同時に、何か不安な・・というようなこの社会における不安定さや茫漠とした終末観に対しある種の具体性を明示し得るの力となる。
但し、永吉友紀が選ぶアイコンとは通俗的な印象のみをコラージュしたものではなく、この高度情報化社会の中で恣意的に氾濫するあらゆるアイコンから、戦争という現実的視覚効果を高めるもの、究極的な人間精神の緊縛状態や、その中で特に過酷な状態を強いられた当時の社会的枠組みにおける弱者であった若年層及び女性の姿を、彼女が独自のクールな眼差しを持って見つめ、現代社会の中の存在へと分かり安く変換したものたちなのである。これらアイコンは、見る人間が共有できるものとそうでないものがあり、彼女は、それらを混濁させることによって生まれる想像を、絵画という図像に完結させているのである。
軍服、セーラー服、日の丸、日章旗、ピストル、戦闘機、緊縛などという非日常的状態などのアイコンをクリックすることにより、見る者は現代社会と隔絶霧消した過去の時点へ想像を飛ばすことが出来、そこで起こった様々な事象を永吉友紀が図像化した絵画という世界からの想像としてダウンロードすることが可能となるのである。しかし、現実的な戦争と言うイメージ、過去の大戦に対する歴史的な認識とは、国家教育として未だ統一した明確さを持っていないが故に現代日本人が、これら混濁するアイコンを利用し想像世界に踏み込みイメージを膨らませた場合、誤解をはらむ危険性も伴っている。その為に彼女はもう一つ大事なアイコンを全ての作品に注入し串刺しをている。
彼女の作品のもう一つ大事なエッセンスとは何か?というと、作品の中に男性が存在しないという事である。これは歴史と言う男性も女性も共有する時間軸の想像を著しく損なう偏狭的な表現に当たりはしないかと疑問を呈するかもしれないが、よく考えてみれば分かることなのだが、極端な側面からこそ見える真実というものが存在すると思うのである。男性と女性、人種的特権や階級特権、男女二元論を超えて複合的かつ立体的に社会を俯瞰したところで、本質的な視線と言うものはかえって得にくいと思うのである。その際、女性と言う限定的な部分からのみを導入口とした方が反って現実的な事象や本質は明らかになると判断できる。例えば歌舞伎のように偏った性により演じられるものや、能のような画一的な表情のない面で感情を表現するものを考えてもらえば分かりやすいのであるが、そういった画一的な制約が附加されればされるほど、その極端な側面は希薄となり、その奥に隠れている“人間”という本質が浮かび上がりやすく、また感じやすくなるように思うのである。その同じ感性を駆使し、彼女の絵にその方法論を使い考えたならば、より時代の奥に隠れている“戦争”“戦争を起す人間”“戦争を起す社会”“戦争で排他される弱者”という本質が明確に浮かび上がるということになるのではないだろうか。
戦争ということを通じて人間という概念のテーマを掘り下げるために作り出した、女性だけという偏狭な世界観は、現実社会において既視感のないものであり、ある種の固定観念からくる安定を瓦解させ先入観を含んだ思考の停止を駆り立てる演出になる。
男性の視線によって作られ客体化された女性、これが内面化されている状態の現代女性において、女性が過去の歴史において強烈な緊縛的制約を受けたという既視感を持たない現実があることを作品中のアイコンから認知し、それらが当時の男性視線の政治によって形成された国家観から具体的に作り出された結果であるということを察知した場合、初めて戦争という既視感のない不安な世界を感じるに足りる要因が創出できるのではないだろうか?これは又現代男性においても逆説的に同じことが言える。自分たちとは相似しない環境下の同姓が行った行為を既視観なく捉える事によって、より冷静に性別その他の排他的論理を超えて人間としての行為を判断できうるのではないかと考えるのである。彼女が現代へトランスレートした抽象化された図像としての戦争は、当時の女性という限定的なアイコンを活用することにより最大限の効果を誘引する。これは、女性という存在が当時の社会的ヒエラルキーにおいて中庸な存在ではなく、最下層と位置付けられていたからこそ、比較対象がなく絶対的な現実状況の想像を生みやすくするのであると同時により具体的に過酷な状況を画像としてイメージしやすくなるのである。故に付け加えて言うならば、彼女の作品とは、決してジェンダー論からくるかカタルシスではないと私は思うのである。
彼女の絵を最初に見たときの私の正直な印象は
「なんてポップな戦争の絵だ?しかし無視できない。」と言うものでした。
その感覚は、どこから来るのだろう?とその後も考えたのでしたが、今回の個展“皇国の乙女”に並ぶ絵画を見、その感覚が生れた要因を少しつかめたような気がしたのでした。
彼女がステートメントの末文に書き記したこと
「深い運命を背負った乙女達に思いを馳せ、その哀しみや空虚感の一旦を感じていただきたい。。」
この文章から全てではないが彼女が表現しようとするものを感じる糸口が掴めるのと同時に、その表現がPOPである必要性を理解できたのでした。
特に象徴的であるのは“空虚感”という部分であろう。
最初に記述した皇国という言葉の歴史的な意味、1945年8月15日を境に分断された国民の教育的積算としての国家の歴史が著しく喪失した現状。そこからこの国は思考を停止し新たな境涯のみで進んできた。しかし、実は想像を強化すれば、今もなおその当時の人間達の亡骸がこの国には横たわっており、地続きだということを強烈に感じなくてはならないという事に本来は苛まれる筈である。しかし現実はどうであろうか?
歴史上の災禍とは人間個々の責苦の積算が相当量堆積して出来上がるのであるが、現代社会においては戦争・歴史上の災禍とは、民族として特別な痛みではなくなってしまったのではないだろうか?
現代人の今とは、ただなんとなく平和でありつづけるが、どうも将来の不安がある、しかしなんとなく大過なく生命は続くと何の根拠も無く盲目的に信じていしまう安心感がこの社会を覆っている。そういった国の雰囲気が戦後から高度経済成長そしてバブル崩壊から現代に至るまで相当な勢いで濁流のごとく我々の生活に流れ込んできたのである。言葉を変えれば戦後の経済発展による豊かな社会が平和というものを大量に産み出し、戦後日本人は疑問なく消費を重ねてきたのである。それら根拠のない平和の観念を産み出したものとは何か?私は、間違いなく戦後と言う言葉(戦いが終わった、アメリカが守ってくれる)に代表される客観的な装置によって産み出されたと感じるのであった。
戦後という客観的な装置により産み出され、大量に社会に流れ込んだ根拠無き平和と言う観念、
平和が誰にも平等に豊かに享受できる環境。平和がどこにでも転がっている当たり前の状況を
大量生産したのである。
これはすこし強引かもしれないが、見方を変えれば20世紀後半の大量生産消費社会下におけるポップアーティストが対峙し考察した社会の現象に類似する点が見受けられるのではないかと私なりに仮想したのであった。
それは決して永吉友紀を、戦争をテーマとするポップアーティストに限定させる試みではないのであるが、ポップアートのモチーフである大量生産物と、今ここで言う大量に生み出された“根拠無き平和”という産物の対比構造には、同様の社会的変革の状況と虚無の心理が読み取れ、ポップアーティストたちが現状社会に対するアイロニーとして表現したものが実に類似していると私には見えたのでした。
ポップアーティストたちが社会をどのように表現したかを考えると、それは華やかで誰にもわかりやすい外見的特徴と、その背後に文明批評的なアイロニーやコメディーを含ませ、自我の表出を抑制することで逆に大衆の欲望を浮き彫りにしていくという方法論でした。
これを下敷きにし永吉友紀の戦争をテーマにしたポップな表現を重ね合わせた場合、、彼女が語るとおり「ごく抽象的なイメージとして捉え図像化している」というストイックな部分が、時間性(歴史)も空間性(社会)も圧縮し自我の表出を抑制したポップアートの表現に相似しているでは?と私に感じさせるのです。平和という観念が、アンディーウォホルが描いたキャンベルスープのようにどこのスーパーにでも売っている大量生産された安価な産物に見えてしまうのでした。
その安価と化した平和という観念をポップな表現で我々の前に力強く提示したものこそが永吉友紀の作品であり、その力強さが、「なんてポップな戦争の絵だ?しかし無視できない。」という私の感想を生み出し、私を魅了させた最大の要因だった訳です。
あえてオドロオドロシイ戦争画よりも、平滑な画面でポップな彩りと戦争を想起させるアイテムを挿入するポツプアート的な方法が、現代日本の戦争と言う観念には至極合致する風景となり、戦争という未経験の部分に踏み込み易くする効果を発揮させるのであった。
しかし、冷静に考えればやはり戦争という人間を殺す争いは、悲惨であり、人間の歴史に延々と付きまとう課題でもある。それをポップな感覚で捉えるということは、逆に現実との乖離を明確にする。これは通念的な認識とちがうという感覚のギャップを生み出し、そこから初めて事実を生み出そうとする力が生れるのである。それ故にオドロオドロシイ戦争画以上にポップな戦争は、この時代のもつ危うさや恐怖を如実にさらけ出し感じられるのである。そこから私は、彼女の作品の優位性や社会的問題提示の方法が実に精緻に確立されていると感じさせられたのでした。
再度結論的な事を述べれば、その方法論から浮かび上がったものとは、この国の中に厳然と蔓延る“根拠無き平和の観念”ある。
そして、彼女の絵が放つものを再度解析すれば、まさしくPOPという単語がもつ直訳的な意味である“パッと弾ける”ような感覚、歴史からは逃れられないということと、過去の歴史がなにを伝えているのかという私を含めた日本の現代社会及び現代人の持つ根拠なき平和な感覚を核心的に覚醒させる強烈な威力を感じるのでした。
今回の個展“皇国の乙女”を皮切りに、今後、彼女が表現する“POPでアイロニカル”な絵が、何かに怯え閉塞していく現代社会に対して大きなインパクトを与えていくことは間違いないだろう。
【この展覧会について】
今展は永吉友紀が現在精力的に取り組んでいる新機軸、20世紀前半の戦中戦前を生きた乙女達の群像を新作タブロー50号30号10号及び新作リトグラフ2点を含む近作にて展覧いたしました。現代に繋がる時間の中で消しがたい大戦の歴史、彼女は、その当時の社会的背景とそれらを取り巻く通俗を活用し、見る人にその裏側に流れるものを~ものいはぬもののかたち~として表現いたしました。戦争について考える機会を喪失しつつある現代社会において、戦争を知らず、戦争と言う歴史を感じにくくなった世代の彼女が今展にて示す内容は、現代日本人が漠然と享受している平和というものに対して非常に意味あるものと確信しております。そして、今展の皇国の乙女という新たな切り口が、彼女の創作活動を飛躍させる爆発力を兼ね備えていることは間違いないでしょう。