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2018.07.08 [Schedule] はじめての備前焼展

友愛的共栄

夢幻泡影
今回は、より永吉作品の世界観に肉薄したいという思いがあり、永吉
友紀先生にお時間をいただき、レポートよりもインタビューという形を取らせて頂きました。

石本>今回の展覧会のタイトル『皇國の乙女』。個展を見に来られるお客様って年配の男性も多いのですが、略歴を見られて、永吉さんてまだお若いから「実際に体験した、いうわけではないんやなぁ。」って。不快とかそういうのではなくて、みなさん不思議に思われるんですよ。永吉さん自身が体験したことの無い、戦前・戦中に生きて運命に翻弄された少女や乙女たちを描いていこうと思われた経緯を教えていただけますか?

永吉>好きなものを融合して段々形ができてきた、というのはあります。最初は“少女”っていうものを描きたいな、という部分と、私が好きな時代性を描きたいなぁって部分とあって、元々好きな時代性っていうのが、本当は戦争の前、戦前の大正から昭和初期くらいの日本や日本の文化、それからその文化の産物、建物であり、アンティークなものとか、そういったものが高校生の時くらいからずっと好きだったので、それを形にしていって“少女と時代性”、それにプラス途中で“エロス”っていうもの、後は土俗的なもの、民族的なものなんかを入れ込んで、一つの形ができてきて。形ができてくると、今度はどんどんワンパターンになってしまって、ある程度シチュエーションみたいなものが限られてくるわけですよ。特に“エロス”っていう部分を加えてしまうと。例えば背景とかが選べない。室内とか抽象的な風景であったりとか。外であんまり脱いでる人とかっていないでしょ(笑)。すごくこう、自分の絵がワンパターンになってきて、行き詰っていくようになって、で、もうちょっとそれを打破しようと思って、もっとこう演劇というか、演出みたいな要素を加えようかと思って。パッと見た時にいろんな象徴性を感じられるものがあると、やっぱり見た人が、勝手にドラマみたいなものを考えられるから、例えば軍服であったり、日章旗であったり、セーラー服であったり、看護婦さんの白衣であったり、そういったものっていうのは見る人にとってはわかりやすいものだから、まず興味を引くでしょ?興味を引くし、それから「どういうつもりでこれを入れたのかな?」、例えば二人の人間がそこにいたら、この人とこの人はどういう関係で、さらにそこにある軍服なり、日章旗なり、セーラー服は、どういう意味を持ったものなのかなって…考えられる。画面の中にこう、“ドラマ性”みたいなものができる。今までの作品っていうのは、部屋があって、布団があって、女の子が寝てて、「はい、おしまい!」みたいな。見た人は、「あぁ、綺麗だね。」とか「エロティックだね。」でおしまいになっちゃうから、そういうところに“戦争”を持ってきた。それが最初です。

石本>それは大学生時代のことですか?一番最初に戦争時代というものを背景に持ってこられたのは…。

永吉>日章旗とかっていうものは結構いろんなモチーフでずっと使っていて、でもそこにはそんなに…。もちろん軍国主義みたいな部分は匂いだけ持ってきていて、軍服とかも描いたことあるけど、ほんとにちょっとしか描いてない。あんまりそこに意味はそんなに無くて、それだけで展開していこう、とかそういうのは今まで無くて。

石本>軍服を着た女の子だったり、戦争時代を背景にしてることがはっきりわかる作品があるじゃないですか?私も含めて見に来られたお客様も、そこから「戦争反対!」とか「平和主義!」みたいな、プロパガンダ的な偏った見え方はしない。それでもその時代をあえて背景に選択されたのは何故だろう…とずっと思っていたわけです。

永吉>ずっとこれからも戦争時代をテーマに…っていうわけじゃないけど、今始めたところなので少しそれを掘り下げて追及するというか、どこまで深いものが作れるか…という感じで展開はしているんだけど。やっぱりこう、そういうものを描こうと思うと自分があまりにも戦争のことを知らないんで、いろんな本を読むとあまりにも恐ろしいことがたくさんあって、ものすごく驚く。そのことをもちろん自分も知らなかったんだけど、たぶんほとんどの人が知らないと思う。少し勉強してみたら「みんなに知らせたいな」っていう思いがこう湧いてきて。例えば日本が中国でやったこととか、従軍看護婦がどんな状況下に置かれてたか、とか従軍慰安婦がどんな目にあってたか、とか、本読むと「あっ、こんなことも自分は知らなかったんだ!」と思うし「みんなもっと知ろうよ!」とも思うし「知った以上誰かに知らせなきゃ」みたいな思いもあるから。具体的にそういう風に絵とかに表してはいないけれど、何となくそういうものを匂わせようかな、と思っています。

石本>ということは、今後はこのテーマを題材にした作品がもう少し多くなっていくと思われますか?

永吉>いや、ただそれもすごく難しくて、やってみると描きたいことを具体的に描かずに匂いだけ出すっていうのはものすごく難しくて。そこまで出していいかって言うのも問題だし「その程度で伝わるのか!?」っていう部分もあるし。

石本>あるがままを描いたのではなくて“それを抽象的に図象化した作品”とおっしゃられていたのは、見に来られたお客様にもよく伝わっていて「もっと戦争の生々しい絵かと思ったら、案外そうでもなかった!」という意見もありました。

永吉>あら、ガッカリしちゃった(笑)?

石本>ガッカリ、というよりは、その方は嬉しかったみたいですけどね。いろんな作品が見れて。戦争の血なまぐさい絵…と思って恐る恐る来たけど、それだけじゃなかったから“嬉しい裏切り”もあったみたいですけど(笑)。そういう意見もありました。

永吉>例えば誰かが殺されてる絵とか、女の子が虐待されたり強姦されたりしてる絵とかを描いてもいいけど、描いてる自分があんまり気持ちよくないし、見る人もたぶん気持ちよくはない。ましてやそれを自分で買って壁に飾りたいと思う人なんて、誰もいないと思う。だから自分が言いたいことがあっても、結局その絵を誰かに買ってもらって、それを、しまいこんじゃうかもしれないけど、いつか壁に飾ってもらう機会があるとするならば、その買ってくれた人の気持ちっていうのも考えなきゃいけないのかなぁ…って。

石本>いつか自分の絵を手元に置いて下さる方のことまで考えて描くっていうのは、永吉さんらしい、優しい心遣いだなって思って聞いてたんですけども、もしもその人のためを思わずに“表現する”っていう目的だけで描くとしたらどう思われますか?

永吉>今よりはもっと具体的に描ける気がするけれども、ただやっぱり「美しいものを描いていたい」と思うんです。「美しくないもの」を描く意味があるのかなぁ…って。だって写真とかで、美しくない、戦争の時に撮った写真とかっていくらでも残っているので、あえて私がそれを描かなくてもみんなはそれを目にすることができるわけだし。美しくないし、見たくないと思うものを大きな画面にして展覧会場に飾って「さぁ見てください!見なさい!」っていうのもどうかな、と…。

石本>…この『憂国天使』の天使って、以前にもこういった看護婦さんとか天使とかがよく作品の中に登場しているけど、今までに描かれた天使とは違うイメージに見えたんですが、これまでは彼岸と此岸の間にいる使いみたいな“死を司る人”っていう気がして見てたのに、この天使は表情も柔らかくて、今までの天使と違うなぁって…。でも毎日見てるうちに「案外この天使も恐ろしい表情を持ってたりするのかも!」って想像してみたりして。永吉さん自身は天使とか看護婦さんというものに対してどんな思いを持っておられるんですか…聞いちゃうと答えになってしまうんですけど(笑)。

永吉>これを描いてた時に私が読んでた本が東京大空襲の本と従軍看護婦の本で、東京大空襲の話をいろんな人が自分の体験記・体験集として残していて、空襲の時にどんな風に焼けていって、どんな風に命からがら逃げて、どんだけの惨状だったかっていう話がすごく生々しく書かれている手記みたいなのを読んで。“空がこう真っ赤になって…”とか、“死体が辺り一面あって…”とか“人の焼け焦げる匂いが立ち込めていて…”とか“建物の中には人間の焼死体がギッシリ入っていた…”とかそういう話から背景を持ってきていて、で従軍看護婦の話は看護婦さんが戦地でどういう存在だったか、とか。まぁ、常に“天使”なんだよね。兵隊さんとかがどんなに膿にまみれてたり、蛆にまみれていたとしても、イヤな顔一つせず献身的に介護しているっていう話なんだけど、それと同時に“日本人が中国でどういうことをしたか”っていう話の時に、日本人が中国人を使って人体実験をしていった時、中国人の体験談の中で、看護婦さんもその人体実験に関わっていて、中国人の献体者、まぁ生きてる人達のことをこう“丸太”って呼んでたり、看護婦さんが傍に来て薄ら笑いながら注射をしたとか…そういう話を読んで当時の看護婦さんの二面性みたいなのを知って…。どっちもあるんだよね。

石本>案外、当時の日本ではこう、従軍看護婦のイメージって美化して作り上げられた部分も多かったのかもしれませんね。もちろん事実もあったとは思いますけど…。

永吉>そうねぇ。従軍看護婦の話だと、看護婦さん自ら南方とかそういう戦地に赴いて,どんどん戦状が激しくなっていって、兵隊さんも誰も助けてくれなくて、結局置き去りになって自分たちでジャングルの中を逃げ回った…とか。それなのに日本の兵隊さんに裏切られて食べ物を横取りされたり、強姦されそうになったり、まぁされた人もいたと思うけど…とかっていうことで、何百人、何千人という看護婦さん達が死んでいるんで…。そういう看護婦さんがもし死んで、天使になったら、こういう戦場で命を落としそうになってる女の子がいたら、助けに行くだろうし、哀れむだろうし…というのもあるしね。

石本>“少女性のエロス”をテーマに今までも描いておられますよね。戦時中に“望むべく将来をもぎ取られて、在るべき姿を強要された”女の子たちがたくさんいたわけじゃないですか。でも「今日は生きてるけど、明日は死ぬかもしれない!」っていう生と死の紙一重のところにいる人間って、急に生きることへの執着ってバッっと強くなったりすると思うんですね。病気であったり戦争であったり、不本意に死が目の前に来たら、急に生への執着って強くなるんじゃないかって思った時に、“生”という意味でのエロスっていうのもまた増すのかなって考えていて…。永吉さんの作品の中に“生きることという意味でのエロス”は意識されたりしたことはありますか?

永吉>例えばチャイナ服の女の子(『友愛的共栄』)とかは、日本が中国でやったことを本で読んだ時に、日本の兵隊が中国に来てやった南京大虐殺とかそういうのを読んだんだけど、日中戦争について日本兵が証言しているのを読んだだけで本当かどうかわわからないけど、今こう日本人の中で「日本は中国では何もしていない」とか「あれは友好のためにやった」とか「共和のために助けてやったんだ!」みたいなことを言ってる人もいるし「虐待なんて何もなかった」って言ってる人もいるし、まぁ中国もまたその逆のことを言っているけれど…。

石本>そうですね…水掛け論になってますよね。

永吉:日本人、日本兵が「私は中国でこういうことをしました」って証言集みたいなのを読んでると「お前ら人間か!?」みたいな…。とにかく村があれば火をつける。女はみんな犯す、犯したら殺す。男もみな殺す。殺すだけならまだしも、捕まえてきて若い兵隊の訓練の的にしたりとか、そういう人達が一人二人でなくて次から次に何十人と連れてこられる…生きたまま。そんなことがあまりにもしょっちゅう行われていたりとか。そういう時代の中国の女の子たちは自分の身を守るために大変だったし、必死だった。従軍慰安婦だって、そのほとんどが韓国人あるいは中国人だったりね。日中戦争で捕虜になって無理やり慰安婦にさせられてしまったり、あるいはまぁ、戦争の中で両親もみな殺されてしまって娼婦とかにならざるを得なかった人もいた。そういう人達、その女の子達はもう生きるすべが無いんで、生きるためにはああいう事をしなきゃいけないけど、「心の中では銃を持ってるよ」という意思みたいな感じ。まぁわかりやすけど(笑)。反対に軍服を着てる日本人は「脅して好きなようにさせてやる」っていう、所詮は。「いざとなれば簡単に殺せるんだぞ、お前なんか」っていう。…戦争のイメージってこれを見る人たちにどれくらいあるかっていうのはわからないけど、ほとんどの人がそれを知らないし、これからもそう“知りたい”と思うようなことじゃないじゃない?これから先、日本人が今よりもっと戦争の知識を身につけていくっていう事は無いでしょう?

石本>ないでしょうね…。減っていく一方で、これも自然に入ってくるものではなくて、自分から知ろうとするバネみたいなものがないと、絶対無理でしょうね。忘れ去られていく一方。

永吉:そう、そのための“小道具”でいいんです(笑)。

石本>“小道具”…スパイスのような。

永吉>感じる人は「あぁ、何となくわかる!」。それでいいと思います。

石本>「アラーキーに影響を受けた」っておっしゃられてたじゃないですか?荒木さんの緊縛の写真を見て「私もこういう絵を描いてみたい」って思われた、というのを拝見したんですけども、最初にその写真を見られたときのインパクトってどうだったんですか?

永吉>それたぶん『アートトップ』のことだと思うんだけど(笑)。私その『アートトップ』のインタビューの時に、アラーキーさんのことをそんなに大きく取り上げられるとは思ってなくて(笑)。ただなんか、女の子が出てきて、後はセーラー服とか土俗的なものだったり、歴史・戦争を感じさせるものだったり、そういった、見てちょっとレトロを感じさせる絵は描いてて、その時にたまたま学部の研究室の中でみんながアラーキーの特集の、たぶん『プリンツ21』っていう雑誌だったと思うんだけど、その雑誌をみんなでワーワー言いながら見てた時に、縄で縛られた女の子が出てて、「あぁ、こういうエロティックなのっていいよね、こういう絵とかもちょっと描いてみたいって思うんだ。」って何気なく言った一言にものすごくみんなが反応して「すごくいいじゃん!すごくいいと思うよ!描いてみなよ!!」っていう風にすごく言われたんで、「あ、そんなにウケがいいんだ、みんな見たいんだ。」って思って「じゃぁ描いてみようかな」って風に思ったのがきっかけで、別にアラーキーが大好きとかでは全然なくて、たまたま(笑)。

石本>実際描いてみられてどうでしたか?

永吉>すごく世界が開けた感じがしたのね。何か“突き抜けた”気がした。何かもう、何でも描けるっていう気がしてきて。「何でも描ける」って思ったんだけど、その後思ったのは「…元に戻れない。」と思った(笑)。一回脱がせてしまうと、もう着せられない…みたいな。だから“制約が多くなっちゃったかな…”っていうのはあった。だから結局脱がせて、縛って、こうどんどん過激にすればするほど、その先に行き着くところは決まってくるし、逆に一回脱がせてしまったものを着せちゃうと「絵が大人しくなったね。」とかいう風に言われたりとかするのね。こう、やっぱり、裸・縄・和物、とかっていうようにすると、段々段々絵が似てきちゃって、小道具とかで色々アレンジしていってもたかが知れてきて、もう10年以上やってるから10年もやればネタもなくなるし、厳しくなる(笑)。やっぱり限界がある。

石本>…限界を今、少し感じられている…?

永吉>感じる。自分が感じるのは何でかというと、明らかにそのお客さんの反応、というか見てくれる人の反応がやっぱり「大人しくなったね。」とか…逆にね、悪いことってあんまり人って言わないから、反応が無いのね。面白いものは「面白い」って声に出して言うけど、面白くないものを「面白くない」とは言わないじゃない?後、絵の売れる売れないでやっぱり明らかにわかる。「最近、絵、つまんないじゃん。」っていう風にハッキリ言う人がいて「昔のほうが良かったよ。」っていう風に言われたのね。で、私も前の絵とか見てみると「あぁ、それはおっしゃる通りです。」とも思うし、「昔みたいな絵にしたら?」って言われて「あぁ、そういうものなのか。」って思って。人の望んでいるものっていうのを人の口から聞かないとわからない。自分で人に対して良かれと思って発表している作品、自分のために描いてるんだけど、何となく人のために描く。結局描くだけじゃなくて売れなきゃ意味がないから。そうするともう何だか訳がわからなくなったりして。

石本>やっぱりその“少女性のエロス”っていうか、描かれる女性が成人女性ではなく少女っていうのは、穢れなさとか“綺麗なもの”というイメージが少女?

永吉>綺麗なだけじゃないかな…。未完成なものの美しさ、みたいな、儚さ、みたいな…。桜みたいなもんかな。すぐなくなっちゃうじゃない?少女性、少女の時って。まぁ、日本人は儚いものが好きなのね(笑)。日本人て、少女とか少女性って好きでしょ、たぶんね。

石本>クリーンなイメージのものって日本人好みじゃないですか。極端な話、外国だと当たり前のように路上でキスしてたり抱擁してたりするのも、日本の文化だとありえないというか、“はしたない!”みたいな(笑)。清潔感を重んじるような。

永吉>たぶん男の人も、女の人に求める清らかさ、みたいなイメージもあるし、でもそれは男の人だけじゃなくて、たぶん女の人も含めて日本人全体がこう“少女性”というものに対して持つイメージ、というものが共通してあると思う。でも“綺麗”だけじゃない。

石本>“綺麗”だけじゃない。そこに他に何かあると…?

永吉>うん。綺麗に見えるけど、中にこうドロドロしたものを孕んでいる。まぁ孕むかもしれない、孕みかけている…っていう。そういう“神秘性”っていうか。

石本>ちょうど少女から大人に変わる、すごく短い数年間ですよね。

永吉>ちょうどこう、少女から短い間にどんどん変わっていくよね。体の形も。一瞬一瞬が同じではない。なんていうか、足りなさ、歪さ、異形さ、みたいな。そういう部分ってちょっと神秘的な感じがして。

石本>そこに成人女性にはない、“少女性のエロス”の意味、神秘性があると。エロスの世界って一概には言えないですけど大人の女性の肉感的なエロス、肉体のエロスを想像しがちですけど、先日女性のお客様ともお話してたんですが、永吉さんの作品はそういう“悩ましさ”とはまた違うエロスですよね。

永吉>そんなにメジャーじゃないかもしれないけど、例えば1960年代、70年代ぐらいから活躍してた人たちの中で、“少女性のエロス”っていうのを追及してきた人ってのが結構たくさんいるんだよね。たぶん一番有名なのが金子國義とか小野明とか…。そういう人の絵を私は学生の頃に結構よく見ていて、すごく魅力的だなって思っていたので、むしろその成熟した女性を描いてる人たちの絵よりも全然何十倍も何百倍もずっと魅力的に感じていたから、それでかな。やっぱり自分が惹かれるものを描くべきだ!と。

石本>上村松園さんもお好きなんですよね。鏑木清方とか。

永吉>松園さんの絵は少女じゃないけど、鏑木清方のは三つ網の女学生っぽい絵もあって、すごく魅力的。上村松園の絵はすごく完璧!鏑木清方と上村松園を比較した時に、ちょっと似てるんだけども、本物を見た時に松園さんの絵ってものすごく仕事が“きちっ”としてて、何かもう塗りとか線とかが、“完璧”!!ブレが無い!意外と鏑木さんってもっとゆるい感じ。それは見ようによっては魅力なんだけど、見ようによっては粗いかなっていう部分があって。絵的にはそのふんわりしたところ、余裕みたいな部分がいいのかなっても思うけど、松園さんの完璧さ、というのも、絵ももちろん綺麗だし、色使いもものすごく大好きなんだけど、“完璧さ”っていうのを見習いたい。色とか線とか形とか。

石本>色にはすごくこだわりがおありなんですよね?

永吉>うん、色はもうこだわってる!っていうのと質感かなぁ。紙とか。紙によってリトグラフって全然インクの表情が変わってしまうんだよね。だから私は和紙に刷ってるけれども洋紙に刷ってしまったら、たぶんもっとピカピカした感じになると思う。

石本>またちょっとエロスの話に戻っていいですか(笑)。“エロス”って、なんだと思われます?

永吉>うーん、なんだろう。…“神秘”かなぁ?神秘性。ちょっと綺麗な言い方だよね。“匂い”。“匂い立つ”みたいな“匂い”かな。音じゃないよね。

石本:匂いっていうのは目を閉じていても感じられるじゃないですか。嗅覚として、という意味でですけど。匂いから連想できるというか…。第六感が働きかけるみたいな。

永吉>あると思う。説明できないけど、絵を見た時に何か“うわぁっ”ってくるような匂いかな。そういうところで、すごいこう脳が刺激されるみたいなものかなって思う。

石本>じゃあ、その“エロス”の反対にあるものって、何だと思われます(笑)?

永吉>反対…何だろう?…“モラル”とか。でも“モラル”ってエロティックかもしれないよね(笑)。

石本>“モラル”の中にもエロティックさってありますよね。

永吉>たぶんね、“モラルの裏にある部分”を深読みしてエロティックだって思っちゃうんだと思う。「モラルが隠している何かがそこにあるでしょ!」っていう。

石本>そうですね。そういうのって、さっきおっしゃられてたみたいに、日本人独特のエロスの観念かもしれませんね。

永吉>日本人って結局、“妄想好き”なんだと思う。

石本>バーン、と目の前に裸があるよりも…。

永吉>ちょっと、チラッ、とみたいな(笑)。

石本>で、頭の中でブワーッと。いっぱいいろんなシチュエーションとか考えちゃうんでしょうね(笑)。

永吉>そうそう(笑)。妄想力が激しいの。そういう文化。

石本>最後に一つだけ…。作品の中に男性って出てこないじゃないですか。男性の変わりも女性が果たしている。直球ですが「なぜ?」って。

永吉>男性が出てこないのは、元々“女性賛美・男性批判”みたいなのが常にあって、まぁ戦争とかは最たるものだんだけど、戦争の絵とかを描く全然前から、もっともっとこう深い部分みたいのがあって、男性を描いてしまうと、本当に“悪者”になってしまう。漫画の中の“悪役”そのものになってしまうんで、あんまりこう戦争のイメージなんだけど、具体的なイメージを置きたくない以上描けないかな。だって布団に女の子がいて、そこに男の人がいたらもう考えるイメージ、一つしかないでしょ(笑)?

石本>うん、もうズバリその通りですよね。そのワンシーンを切り抜いてきただけになっちゃいますよね。

永吉>そうそう。生々しくはしたくない。小説の挿絵みたいになっちゃいけないかな、って思うかな。

石本>やっぱり想像の範疇に置いておきたい。

永吉>そうそうそう。で、男の人がそれを見たときに、たとえばこう布団に寝そべってたり座ってたりする女の子の絵を見た時に、「この女の子は自分を待ってくれている。」と思いたい人もいるじゃない(笑)?そこに“男”は要らないでしょ(笑)。だって絵を買ってくれる人って、ほとんど男の人だし。それが一番かな。

石本>色々お伺いしましたが、ベースに流れてるものってやっぱり、“日本”というか“日本人”であるっていうことのような気がしたんですけども。

永吉>日本はすごい!ね。まぁ、ろくでもないこともしたけども。

石本>そうですね。ちょっと残念な歴史もありますが…。

永吉>日本の文化とか、日本の自然とか、日本の風俗とか、そういったものの美しさっていうのは、他の国には比類ないものであるという考えをとても持っているので、そこはすごく大事にしていきたいと思っていますね。