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2018.07.08 [Schedule] はじめての備前焼展

いただきます

議題「地球にヒトは必要か?」
 大きな牛の横で肉を食べようとする青年。
その作品を見て、何か忘れかけていたことを思い出したようなもどかしさに囚われた。
記憶の糸を手繰り寄せると、それは幼い頃見た「アルプスの少女・ハイジ」の1シーンだった。ある夏、ハイジの仲良しのヤギ、ユキちゃんが潰されることが決まる。「ユキちゃんが殺されちゃう!!」狼狽するハイジにおじいさんはこう諭す。—「ヤギを飼っているのは可愛がるためじゃない、暮らしていくためだ。」

 牛の“ジョニー”と食卓を共にする人間。背後に飾られた写真立てが、この牛が家族の歴史とともに育ってきたことを物語っているのだが…。
『いただきます』— そう唱えて青年が今まさに口にしようとしているもの、それは“牛肉”だ。ジョニーは器をひっくり返し、草を食むのも忘れ、心なしか複雑なまなざしでそれを見下ろしている…。
それはまさしく風刺画で、“くすっ”と笑わずにはいられない。ただしその笑いは、“ばつの悪さ”であり、同時にチクリ、と胸が痛む。

 これは残酷なことなのか?「肉を食べる」という現実は、わたしたちが生命を繋ぐ糧として避けては通れない日常の行為のひとつであるはずだ。だがわたしたちは狩猟などせずとも簡単に「命の断片」を手に入れることができてしまう。方法は至って簡単。スーパーへ向かい、ペーパーや洗剤と同じようにカゴの中に放り込みさえすればよい。今目の前にあるおいしいステーキが、巻き戻せばどんな個体であったかさえわからない子供が増えているという現実。まるで“だるま落とし”のように「真ん中が欠落している」のだ。
この作品はまさしくその縮図である。動物を愛し、心優しい彼は、ダミアン・ハーストのように牛を真っ二つに裂きこそはしないが、言わんとすることは同じではなかろうか。
手を汚さず、目を穢さず、旨みだけを抽出することが常習化した結果、命の重みもわからぬ人間が急増していき、現代の社会問題にまで暗い影を落としてゆく。
そう考えるとこの現代、世界はヒト中心に営まれ、あたかもヒトが支配しているかのようにみえる。しかし弱肉強食というヒエラルキーの中にでさえ循環は存在する。強い者は死して土に返り、その形を変えてヒエラルキーのどこかに再生し、命は受け継がれていく。
ではヒトは?ヒトはいつからそのサイクルからはみ出してしまったのか。
釜 匠が17歳の時に作成したエッチング、『議題・「地球にヒトは必要か?」』。この議題に対し、もしアダムとイヴに「不必要」が宣告されていたら…そう考えずにはいられなくなる。

釜 匠の作品に登場するのは圧倒的に動物が主であり、人物は極端に少ない。その上極めて少ない人物像の殆どが自画像である。一連のキャビネットの作品に登場する、戯れる小さな子供達でさえ、彼は描くことに違和感を覚えるという。
彼が人間を描かない理由は二つ。

一つは彼の作品が「動物の視点で捉えた世界」であること。その作品を見るわたしたちもまた、“動物の目”を借りることとなる。そこに個性や表情のわかりやすい人間を描いてしまうと、明らかにピントがずれてしまう。
二つめは、彼が純粋に動物を愛しているということ。ヒトである彼が動物との関係性を見つめ、埋められない境界線を隔ててなお独自の発想と観念を持ってキャンバス上に描くことで、そこにより近づこうとしているのだと思う。彼にとって“ヒト”はリアルの世界で関わりを持つものであり、作品の中に登場させることに意味を成さない。

 彼の絵の前に立ってみるとよくわかるのだが、実物よろしく描き込まれた動物や物体からは、「動物を大切に」だの「環境破壊から地球を守ろう」などという説教めいたメッセージは一切伝わってこない。ただ時計の秒針のように抑揚のない、それでいて狂わぬ確かなリズムをもって静かに訴えかけてくるものがあり、それを感じた時わたしは底知れぬ恐怖を覚えた。

 『いただきます』というこの作品が、彼の作品の「心臓」だとわたしは思っている。過去の作品が静脈を経てここへ集結する。そして新たな作品へと、目いっぱいの酸素を含んで勢いよく動脈から送り出されていく、今その過程に彼は差しかかっているのだと思う。
牛の“ジョニー”の横で今まさに肉を食べようと構えるのは、「釜 匠」その人。

その優しげな無表情の中には、決意と覚悟とがはっきりと見出せるであろう。