July 6,2010
松本くんと最初に出会ったのは
今から一年半近く前に行った釜君の
BAMIgalleryでの初個展の時であった。
初個展ということもあってかなり多くの釜君
の知り合いが来廊してくれたのであるが、
松本君もその中の一人であった。
その時、京都精華大学の同期で自画像
ばかり描き続けているということを初めて
聞いた。
正直、自画像??と大した興味も無かったし
携えてきた小品を一点拝見させてもらったが、
ハッチングで描かれた横向きの自画像は
確かに良く描けてはいたが、やはり興味を
そそるものでは無かった・・・
へぇ~という程度であった事を今も覚えている。
しかし、気になる事もあった。
一つはこれからも自画像を描き続けるのか?
そのことに画家としての展望をどう考えている
のか?
もう一つは、霞を食べていけるわけでなし、、
当然、年齢的にも大学を卒業している訳で
丁度彼が来てくれた3月は節目の時期、この
子はこれからどうゆう進路を歩むのか?
聞くと、丁度就職が決まった所で、次月から
BAMIgallery近くの老舗の饅頭屋に勤める
という事であった。。
働きながら絵を描く。
これは別段特異なケースではない、どちらかというと
当たり前の状況であり、COMBINEの作家たちの
ほとんどもそう言った環境で頑張っている。。
が、、彼の場合、自画像ぉ???
基本的に絵画という流通を考えた場合、自画像
というのは商品価値的にどうか?と単純に突き当たる。
もちろん様々なケースがあるから一概には断定できない
現代美術の中には自分をモチーフとした表現も数多く
存在し人気を博しているものもある・・・
しかし、彼と想像上の彼の作品を客観的に考えた場合、
そう言った現代美術という風景よりも、、精華の油画を
卒業した自画像画家・・・となると、一般的には東京芸
大の卒業制作の作品のような印象を持って当たり前で、
その内容が果たして、、、、、しかも無名の若者の顔を描
いたモノを一体誰が評価し買うにいたるのか?そう考える
と前途はあまり明るいものが単純に見えないような気がし
たのである・・・
再度聞くと、、、
それでも彼は自画像でしか考えてない・・という返事。
ふーん。。。興味はなかったが、この決断というのか
決意にはもの凄く興味をひいた・・・・・・・・・・・・・・。。
別れ際、私は冗談で
”饅頭屋が絵を描いているのか、、
絵描きが仕方なく饅頭屋で働いているのか?”
さぁどっちになるか楽しみや!
と彼に浴びせかけた。。
それから数ヶ月、その間、、何故かミョーに気になる存在?
釜君と会うたびに、彼どうしてる?と聞き続けていた。
特にあってどうこうという事を考えていた訳ではないが
続けているのだろうか?絵?
それから数ヶ月、、フッと何気なく、釜君に
遊びにこいって言うといてくれん?と頼んだ。。
何というのかこのときも特に要件があるわけでは
無かったのだが、、何故か気になるのである・・
そんなお願いをしたことをすっかり忘れたある時
釜くんを通じて遊びに来たいという申し出があった。
そしてこれは釜君からの依頼でもあった・・(と、、私は
解釈している。。)
大学時代からお互いの実力を認め合った者同士
同じ道を走っている釜君が、マラソンに例えると
集団から遅れを取り出した松本君を気にかけて
の提案でもあったのだ・・と私は思った。。。。。
この遅れとは何か、、、
------------------------------------------------
饅頭屋が絵を描いているのか、、
絵描きが仕方なく饅頭屋で働いているのか?
------------------------------------------------
あの一言であった。やはり働きながらしかも
朝早くから夕方まで肉体労働でくたくた・・
ペースが掴めない事もさることながら、モチベーション
の維持が困難になりかかっていたのである・・・・
当然、自画像などというものを扱う業者など
そうそういるわけではない、そうすると団体展か
個人で貸しギャラリーを借りての展覧等、、
限られたチャンスを自分で作らなくてはならない。
当然覚悟の上と言えばそうなのだが、しかし
伴走者もなく一人でペースを掴むのはかなり
難しい事は、絵を描かない私でも容易に想像
できた。。
選んだ仕事も、、選んだモチーフも全てデメリット
の方が大きいものばかり、、、、、、、
なんと鈍臭いというのか?不器用というのか?
だから最初に出会った時、どうするの?
という疑問が先立ったのである・・・
しかしいずれにしても、意地悪ながら、それ見たことか?
的に会おうと、、、思った。。
数日後、釜君と一緒に現れた彼、確か仕事の話を
幾ばくかした後、、座っていた彼の脇を見るとポート
フォリオのファイルらしきものが・・・・
ちょっと見せて、、と取り上げた。。。
ページをめくった瞬間
しまったぁ!!と思った。。。。
なんで先入観だけで、この子の絵を丹念に見なかったのか・・
反省した。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
と、同時に
なんであんな小さな自画像然としたものを前回見せて
肝心なこのポートフォリオを持ってこなかったのか!
あほぉ!と怒りとも笑いともつかない妙な感覚を
持って彼を見つめると、はにかんだように笑っていた。。
重ね重ね、、、不器用というのか、、
確かに大学に入った時分の自画像は、お世辞にも
良いとは言えない代物でとても色んな意味で芽が
あるとは思えなかったが、、卒業を起点に遡る2,
3年の作品は優れていた・・・・・
中でも話には聞いていたが、108人の自画像の展覧
画像は圧巻であった・・・・・よくまぁこんなも
のを・・・
冷静に考えれば、、10メートルもの作品を描いた
学生が、この何年かの間に何人いるか?そう考え
れば単純ではあるが、それだけもすでに人より
数倍抜きんでている!
中でも一際、私の目を引いたのは”三人の男”
という作品であった。。。。

他の作品に比べ色がポップで綺麗だった事も一因
だが、その構成に引きつけられた。。。
一つは現代風俗、特にこの時代の空気を吸っている
若者像が的確に捉えられている点、、、
そして少し稚拙かもしれないが、その若者達に、左甚五郎
的な見ざる”言わざる聞かざるの”三ざるを演じさせてい
て、そのシチュエーションが電車の中、そして窓にその三
人を冷徹に眺める人間を映し込んだ構成はよく考えられて
いた。。。
正直、構成の要素をつなぎ止める接着剤が弱いのは否め
ないが、、しかし自画像というぶっとい縦軸と様々な要素の
横軸を上手く織り込んでおり、自画像という固定観念の範疇
からは心地よく飛び越える伸びやかさが感じられた。。。。
電車というシチュエーションを良く選択できたなぁ、、
と感心した。
電車という高速で移動する利器は、時間の経過を象徴
する。しかし、この絵の場合、どこから見る人の視線を想
定しているか?と考えれば、併走している電車?と考えら
れなくもない、、、、、、
ここが面白いのだが、アインシュタインの相対性理論では
ないが、併走する電車を見れば、停まって見えるという
事がある。これは松本君の自画像というよりも我々の
本性を明示していなくもない・・・・・・・
電車は目的地が必ずある。それまで閉じこめられる空間
でもある。しかし目的地に着けばその瞬間的な集団性は
解除され、また新たな集団形成となる。
仮にこの間この空間で反社会的な行為があったとして、
それを見ざる言わざる聞かざるという事で乗り越えても、
その反社会的なものは残りまた新たな集団にその対応は
引き継がれる。
しかし誰かがそれをいつか対応してくれるだろうという
のは、皆心の奥底の風景として持っているが、これを仮
に極端にも併走する電車に自分の視線を設定した場合そ
の三人の客観的な姿はどうなのだろうか?
その前に、窓に映る人間の像は何を案じしているのか?
他人でもあるが、三人の気持ちを集約した自画像と
いう捉え方も出来なくはない。。。
これらの車内の風景を包括して
併走する電車から見ている自分という事を考えれば
この社会の中での日々の自分の自画像に重なり合う
ような感覚の瞬間にたどり着く・・・・
もっと大きな捉え方として、、
電車、車内そのものを社会の変遷という例え方でもこの絵は
整合する。。。
時代の流れの中で、見ざる言わざる聞かざる・・・・・
それら全てを力強く表現?とまでは行かないが、その芽は
完璧に感じ取れる絵であったし、、、、
この絵を見たとき
ひょっとして・・・この子は、、、と私は感じたのと同時に
頑なで、鈍臭く、人に遅れを取りがち・・・
決してスマートじゃなく泥臭い・・・
なんとなく、これまで仕事をしてきた自分の姿が重なるような
気もし、、、、、、
その日から
彼との付き合いが始まったのでした。。。。
今から一年半近く前に行った釜君の
BAMIgalleryでの初個展の時であった。
初個展ということもあってかなり多くの釜君
の知り合いが来廊してくれたのであるが、
松本君もその中の一人であった。
その時、京都精華大学の同期で自画像
ばかり描き続けているということを初めて
聞いた。
正直、自画像??と大した興味も無かったし
携えてきた小品を一点拝見させてもらったが、
ハッチングで描かれた横向きの自画像は
確かに良く描けてはいたが、やはり興味を
そそるものでは無かった・・・
へぇ~という程度であった事を今も覚えている。
しかし、気になる事もあった。
一つはこれからも自画像を描き続けるのか?
そのことに画家としての展望をどう考えている
のか?
もう一つは、霞を食べていけるわけでなし、、
当然、年齢的にも大学を卒業している訳で
丁度彼が来てくれた3月は節目の時期、この
子はこれからどうゆう進路を歩むのか?
聞くと、丁度就職が決まった所で、次月から
BAMIgallery近くの老舗の饅頭屋に勤める
という事であった。。
働きながら絵を描く。
これは別段特異なケースではない、どちらかというと
当たり前の状況であり、COMBINEの作家たちの
ほとんどもそう言った環境で頑張っている。。
が、、彼の場合、自画像ぉ???
基本的に絵画という流通を考えた場合、自画像
というのは商品価値的にどうか?と単純に突き当たる。
もちろん様々なケースがあるから一概には断定できない
現代美術の中には自分をモチーフとした表現も数多く
存在し人気を博しているものもある・・・
しかし、彼と想像上の彼の作品を客観的に考えた場合、
そう言った現代美術という風景よりも、、精華の油画を
卒業した自画像画家・・・となると、一般的には東京芸
大の卒業制作の作品のような印象を持って当たり前で、
その内容が果たして、、、、、しかも無名の若者の顔を描
いたモノを一体誰が評価し買うにいたるのか?そう考える
と前途はあまり明るいものが単純に見えないような気がし
たのである・・・
再度聞くと、、、
それでも彼は自画像でしか考えてない・・という返事。
ふーん。。。興味はなかったが、この決断というのか
決意にはもの凄く興味をひいた・・・・・・・・・・・・・・。。
別れ際、私は冗談で
”饅頭屋が絵を描いているのか、、
絵描きが仕方なく饅頭屋で働いているのか?”
さぁどっちになるか楽しみや!
と彼に浴びせかけた。。
それから数ヶ月、その間、、何故かミョーに気になる存在?
釜君と会うたびに、彼どうしてる?と聞き続けていた。
特にあってどうこうという事を考えていた訳ではないが
続けているのだろうか?絵?
それから数ヶ月、、フッと何気なく、釜君に
遊びにこいって言うといてくれん?と頼んだ。。
何というのかこのときも特に要件があるわけでは
無かったのだが、、何故か気になるのである・・
そんなお願いをしたことをすっかり忘れたある時
釜くんを通じて遊びに来たいという申し出があった。
そしてこれは釜君からの依頼でもあった・・(と、、私は
解釈している。。)
大学時代からお互いの実力を認め合った者同士
同じ道を走っている釜君が、マラソンに例えると
集団から遅れを取り出した松本君を気にかけて
の提案でもあったのだ・・と私は思った。。。。。
この遅れとは何か、、、
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饅頭屋が絵を描いているのか、、
絵描きが仕方なく饅頭屋で働いているのか?
------------------------------------------------
あの一言であった。やはり働きながらしかも
朝早くから夕方まで肉体労働でくたくた・・
ペースが掴めない事もさることながら、モチベーション
の維持が困難になりかかっていたのである・・・・
当然、自画像などというものを扱う業者など
そうそういるわけではない、そうすると団体展か
個人で貸しギャラリーを借りての展覧等、、
限られたチャンスを自分で作らなくてはならない。
当然覚悟の上と言えばそうなのだが、しかし
伴走者もなく一人でペースを掴むのはかなり
難しい事は、絵を描かない私でも容易に想像
できた。。
選んだ仕事も、、選んだモチーフも全てデメリット
の方が大きいものばかり、、、、、、、
なんと鈍臭いというのか?不器用というのか?
だから最初に出会った時、どうするの?
という疑問が先立ったのである・・・
しかしいずれにしても、意地悪ながら、それ見たことか?
的に会おうと、、、思った。。
数日後、釜君と一緒に現れた彼、確か仕事の話を
幾ばくかした後、、座っていた彼の脇を見るとポート
フォリオのファイルらしきものが・・・・
ちょっと見せて、、と取り上げた。。。
ページをめくった瞬間
しまったぁ!!と思った。。。。
なんで先入観だけで、この子の絵を丹念に見なかったのか・・
反省した。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
と、同時に
なんであんな小さな自画像然としたものを前回見せて
肝心なこのポートフォリオを持ってこなかったのか!
あほぉ!と怒りとも笑いともつかない妙な感覚を
持って彼を見つめると、はにかんだように笑っていた。。
重ね重ね、、、不器用というのか、、
確かに大学に入った時分の自画像は、お世辞にも
良いとは言えない代物でとても色んな意味で芽が
あるとは思えなかったが、、卒業を起点に遡る2,
3年の作品は優れていた・・・・・
中でも話には聞いていたが、108人の自画像の展覧
画像は圧巻であった・・・・・よくまぁこんなも
のを・・・
冷静に考えれば、、10メートルもの作品を描いた
学生が、この何年かの間に何人いるか?そう考え
れば単純ではあるが、それだけもすでに人より
数倍抜きんでている!
中でも一際、私の目を引いたのは”三人の男”
という作品であった。。。。

他の作品に比べ色がポップで綺麗だった事も一因
だが、その構成に引きつけられた。。。
一つは現代風俗、特にこの時代の空気を吸っている
若者像が的確に捉えられている点、、、
そして少し稚拙かもしれないが、その若者達に、左甚五郎
的な見ざる”言わざる聞かざるの”三ざるを演じさせてい
て、そのシチュエーションが電車の中、そして窓にその三
人を冷徹に眺める人間を映し込んだ構成はよく考えられて
いた。。。
正直、構成の要素をつなぎ止める接着剤が弱いのは否め
ないが、、しかし自画像というぶっとい縦軸と様々な要素の
横軸を上手く織り込んでおり、自画像という固定観念の範疇
からは心地よく飛び越える伸びやかさが感じられた。。。。
電車というシチュエーションを良く選択できたなぁ、、
と感心した。
電車という高速で移動する利器は、時間の経過を象徴
する。しかし、この絵の場合、どこから見る人の視線を想
定しているか?と考えれば、併走している電車?と考えら
れなくもない、、、、、、
ここが面白いのだが、アインシュタインの相対性理論では
ないが、併走する電車を見れば、停まって見えるという
事がある。これは松本君の自画像というよりも我々の
本性を明示していなくもない・・・・・・・
電車は目的地が必ずある。それまで閉じこめられる空間
でもある。しかし目的地に着けばその瞬間的な集団性は
解除され、また新たな集団形成となる。
仮にこの間この空間で反社会的な行為があったとして、
それを見ざる言わざる聞かざるという事で乗り越えても、
その反社会的なものは残りまた新たな集団にその対応は
引き継がれる。
しかし誰かがそれをいつか対応してくれるだろうという
のは、皆心の奥底の風景として持っているが、これを仮
に極端にも併走する電車に自分の視線を設定した場合そ
の三人の客観的な姿はどうなのだろうか?
その前に、窓に映る人間の像は何を案じしているのか?
他人でもあるが、三人の気持ちを集約した自画像と
いう捉え方も出来なくはない。。。
これらの車内の風景を包括して
併走する電車から見ている自分という事を考えれば
この社会の中での日々の自分の自画像に重なり合う
ような感覚の瞬間にたどり着く・・・・
もっと大きな捉え方として、、
電車、車内そのものを社会の変遷という例え方でもこの絵は
整合する。。。
時代の流れの中で、見ざる言わざる聞かざる・・・・・
それら全てを力強く表現?とまでは行かないが、その芽は
完璧に感じ取れる絵であったし、、、、
この絵を見たとき
ひょっとして・・・この子は、、、と私は感じたのと同時に
頑なで、鈍臭く、人に遅れを取りがち・・・
決してスマートじゃなく泥臭い・・・
なんとなく、これまで仕事をしてきた自分の姿が重なるような
気もし、、、、、、
その日から
彼との付き合いが始まったのでした。。。。
