June 25,2010
先日、松井監督(映画監督)がギャラリーにお越し下さった。
エトリケンジさんの個展以来、ご案内を差し上げているのだが
律儀にも毎回お越し頂いている。
先日も松本君の絵を見てもらい暫し歓談させていただいたの
であるが、本当に監督の話は面白い!
毎回、映画界の話を中心に監督には質問するのだが、どちら
かというと映画芸術的な話よりも映画ビジネス的な事を教えて
いただいている。
映画はご存じの通り一本完成させるのには莫大な資金を擁する。
松井監督が先般第30回モスクワ国際映画祭正式招待作品/
パースペクティブ・コンペティション部門にノミネートされた
作品、、『どこに行くの?』(主演柏原収史)などは、お聞きし
たところ一千万円という超破格の低予算で完成させ、、現地
モスクワの映画人達から”クレイジー”と驚嘆されたとお聞き
した。。。。。。。。
通常では考えられない予算も当然だが、国際コンペでこの予算
は驚愕である。通常ならばやはりその何倍もの資金が必要とい
うのが常識の世界らしい。
私が学生時分、、今のような映画の周辺を取り巻くビジネスが
不完全であった時代、邦画の危機がよく叫ばれていたのは覚え
ている。しかしどこをどうやってか皆苦労し資金をかき集め映
画を撮っておられた。
その時分、ATGという映画会社があり、私はよくこの映画会
社の作品を深夜テレビで見ていた。
今も私は邦画が大好きなのであるが、このATG映画には
独特の雰囲気、、汗、じとじとした湿気、、虚無というような
なんとも言えないやり場のない感覚が蔓延しており、なんとな
く十代の青年であった私、、男なら誰しも経験があると思うの
だが何とも言えない悶々とした感じ、、それが深く心に密着し
たのである。。。
松井監督にそのことをお話したところ、色々と教えていただ
いた。
-------------------------------
ATGとは(ウィッキペディア転載)
他の映画会社とは一線を画す非商業主義的な芸術作品を
製作・配給し、日本の映画史に多大な影響を与えた。また、
後期には若手監督を積極的に採用し、後の日本映画界を
担う人物を育成した。
ATGは良質のアート系映画をより多くの人々に届けるという
趣旨のもとに設立され、年会費を払って会員になると多くの
他では見られない映画を割安の価格で観られたため、若者
たちの支持を得た。60年代から70年代初めの学生運動、
ベトナム反戦運動、自主演劇などの盛り上がりの中で、シリ
アスな、あるいはオルタナティブな映画に対する関心は高か
った。当時は御茶ノ水近辺に主要な大学が集中しており、
新宿が若者文化の中心となっていて、ATGの最も重要な上
映館であった新宿文化は、話題の映画の上映となると満員
の盛況であった。このような状況と会員制度に支えられて、
大島渚『新宿泥棒日記』、羽仁進『初恋・地獄篇』、松本俊夫
『薔薇の葬列』など、当時の若者たちに大きな影響を与えた話
題作の製作が可能になった。
ATGの活動は、主に外国映画の配給を行っていた第1期、
低予算での映画製作を行った第2期、若手監督を積極的に
採用した第3期に大別することができる。
第2期(1967年 - 1979年) [編集]
テレビが一般に普及するにつれて、大手の映画会社は興行
を成功させるために、動員数が期待できる娯楽作品を中心
に手がけるようになった。このため、松竹ヌーヴェルヴァ
ーグの中心であった大島渚や吉田喜重のように、芸術映画
を製作したい監督は大手映画会社から去り、独立プロを立
ち上げて活動するようになった。
ATGはこれらの独立プロを積極的に支援し、独立プロと半分
ずつ予算を供出することで、「一千万円映画」と呼ばれる低
予算の映画製作を行った。一千万円という予算は当時の一
般的な映画製作費用の数分の一であるため製作には困難も
伴ったが、多くの作品がキネマ旬報ベストテンに選定される
など高い評価を受けた。
一方、これらの映画の中には興行的に失敗するものもあり、
ATGの経営は徐々に困難になり、加盟映画館も減っていった。
このような状況を受け、1979年には初代社長の井関種雄が
退任、佐々木史朗が社長となる。
----------------------------
私が深夜テレビで見ていたのは所謂第3期に当たる頃で
第2期に確立した予算方法が定着していた時分だったと
思う。
500万円を独立プロ側のこり500万円を東宝系列の
ATG側の捻出というスタイルである。
しかし残念ながら1992年にその活動を停止させたのであるが
このATGスタイルというのは、今から考えても画期的であ
り、あくまで素人考えではあるが、もし今このスタイルを実
行すれば、別の意味で展開が広がる?んじゃないの?と夢想
してしまう。。
東宝という親会社はエンターテイメントで収益を稼ぎ、その
資金を元に芸術映画及び監督の育成を図る。今だとここから
積極的に世界マーケットに打って出るプロモーションをブッ
キングすれば、、、
当時さほど、、、考えていたかもしれないが、今ほどの積極
性があったとは思えない世界マーケット進出を生み出せるの
ではない?と安直に考えてしまうのである・・・・
例えば松井監督の国際コンペの例を見てもそうだが、世界を
相手に闘う映画というのはやはり芸術作品である。決して
ハリウッド的なエンターテイメントではない。今盛んにコン
テンツ産業の輸出ということでアニメ漫画等を中心に語られ
るが、それ以外にも日本独特の映画という芸術が存在し、世
界に冠たる監督を多数輩出してきた。これを考えれば、先ず
根幹にある有能な監督を如何に輩出するかという機能をもっ
と強化しなくてはならない事に気がつく。
全て興行収益から逆算することだけで映画制作が完遂されても
それはその都度都度のビジネスの整合は図れても、最終的な
大枠での収益はどうなの?となる・・
例えば、世界マーケットに出られるのか?というビッグビジネ
スをにらんだ場合はいとも簡単にその方法が間違っていること
に気づかされる。
北野監督が評価された、これは嬉しい出来事ではある、しかし
もっともっと良い監督がこの国にはいる!挑戦させよう!とい
う機運が欲しいような気がするのである・・・
しかし無能なものまで面倒見ることはない。ここでATGが
上手いのは半分は自分たちで用意しろ!という事である。こ
れがなんとなくではあるが上手い整合を図っているのと同時
に、若い作家の育成にも役だっているような気がするのであ
る。
例えば面白い話を松井監督からお聞きしたのだが、市川 崑
という巨匠は、わざわざこのATGスタイルを使い股旅とい
う映画を完成させた。
それは何を意味しているかと言えば、、自分の作りたい映画
を作ると言うことに役立てたらしい・・・
巨匠となれば全てにおいてかなりの制約が生まれるし、その
構想を形にするとなれば大きな興行プロジェクトになり当然
莫大な資金が必要になる。こんなプロジェクトは数年に一回
という割合でしか生まれないから必然的に映画が撮れない
という時間を生んでしまう。そこで間隙をつくかのようにA
TGスタイルを選択すれば、大きなプロジェクトとはまった
く違う市川作品が生まれ、監督の思いも観客の満足感も別の
意味で充足される・・
ATGスタイルとは本質的に映画という興行の側面と芸術
という側面を上手く一時期補完できた産物であった。
しかし興行という側面はかなり水物で最終的には崩壊
したのであるが、今ならちょっと状況が違うのではないか?
と思うのである。。。。。
この話をしていたときに思ったのであるが、美術界も実は
このスタイルが当てはまるんじゃないか?と思ったのである。
特に◎独立プロを積極的に支援し、独立プロと半分
ずつ予算を供出することで、「一千万円映画」
と呼ばれる低予算の映画製作を行った。
◎ATGは良質のアート系映画をより多くの人々に届け
るという趣旨のもとに設立され、年会費を払って
会員になると多くの他では見られない映画を割安
の価格で観られたため、若者たちの支持を得た。
これらがそのまま当てはまる訳ではないが、なんとなく
活かせられるような気がしている。
いずれにしても二つの要素を取り上げたのであるが、
基本は資金である。ここの部分が点として律動して
いても決して大きなものにはならない。
できれば線となり面となる仕組み、そして基本はATG
は官ではなく民の共感のなかで成長したようにこの部分
の収攬をどのように果たすのかが大きな問題点であろう
と思う。しかしATGは最終的に興行面での採算性で追
い込まれた訳で、ここをどのように補完するか、そこが
生み出せればもう少し強固な地盤が生まれるような気が
する。又、世界との関係性をどう構築するかも同様の問
題としてある。。。。
私のような”芥子粒”ごとき存在が偉そうに語ったとこ
ろで何もないのであるが・・・・・・
私が身を置く環境から単純に類推しても
アートフェアやオークション、、、ミュージアム、、
ギャラリー、、コレクター一般・・・という点の存在が
垣間見える現状は、、もう少し大きなもしくは
”今までと違う”
枠組み、仕組みを必要としているのでは?
と思うのと同時に、、、、
絶対的課題は3点しかないと思う
◎世界との関係
◎一般へのより大きな浸透及び興行としての性格強化
◎絶対的な透明性と優劣の明確な判断
ここが今以上に発展しなければ、、いつまでも同じでは
ないのかな?と思うと同時に、ここ最近様々な方とお話
するの中でその必要性を感じているのが強い印象として
残った。。。
エトリケンジさんの個展以来、ご案内を差し上げているのだが
律儀にも毎回お越し頂いている。
先日も松本君の絵を見てもらい暫し歓談させていただいたの
であるが、本当に監督の話は面白い!
毎回、映画界の話を中心に監督には質問するのだが、どちら
かというと映画芸術的な話よりも映画ビジネス的な事を教えて
いただいている。
映画はご存じの通り一本完成させるのには莫大な資金を擁する。
松井監督が先般第30回モスクワ国際映画祭正式招待作品/
パースペクティブ・コンペティション部門にノミネートされた
作品、、『どこに行くの?』(主演柏原収史)などは、お聞きし
たところ一千万円という超破格の低予算で完成させ、、現地
モスクワの映画人達から”クレイジー”と驚嘆されたとお聞き
した。。。。。。。。
通常では考えられない予算も当然だが、国際コンペでこの予算
は驚愕である。通常ならばやはりその何倍もの資金が必要とい
うのが常識の世界らしい。
私が学生時分、、今のような映画の周辺を取り巻くビジネスが
不完全であった時代、邦画の危機がよく叫ばれていたのは覚え
ている。しかしどこをどうやってか皆苦労し資金をかき集め映
画を撮っておられた。
その時分、ATGという映画会社があり、私はよくこの映画会
社の作品を深夜テレビで見ていた。
今も私は邦画が大好きなのであるが、このATG映画には
独特の雰囲気、、汗、じとじとした湿気、、虚無というような
なんとも言えないやり場のない感覚が蔓延しており、なんとな
く十代の青年であった私、、男なら誰しも経験があると思うの
だが何とも言えない悶々とした感じ、、それが深く心に密着し
たのである。。。
松井監督にそのことをお話したところ、色々と教えていただ
いた。
-------------------------------
ATGとは(ウィッキペディア転載)
他の映画会社とは一線を画す非商業主義的な芸術作品を
製作・配給し、日本の映画史に多大な影響を与えた。また、
後期には若手監督を積極的に採用し、後の日本映画界を
担う人物を育成した。
ATGは良質のアート系映画をより多くの人々に届けるという
趣旨のもとに設立され、年会費を払って会員になると多くの
他では見られない映画を割安の価格で観られたため、若者
たちの支持を得た。60年代から70年代初めの学生運動、
ベトナム反戦運動、自主演劇などの盛り上がりの中で、シリ
アスな、あるいはオルタナティブな映画に対する関心は高か
った。当時は御茶ノ水近辺に主要な大学が集中しており、
新宿が若者文化の中心となっていて、ATGの最も重要な上
映館であった新宿文化は、話題の映画の上映となると満員
の盛況であった。このような状況と会員制度に支えられて、
大島渚『新宿泥棒日記』、羽仁進『初恋・地獄篇』、松本俊夫
『薔薇の葬列』など、当時の若者たちに大きな影響を与えた話
題作の製作が可能になった。
ATGの活動は、主に外国映画の配給を行っていた第1期、
低予算での映画製作を行った第2期、若手監督を積極的に
採用した第3期に大別することができる。
第2期(1967年 - 1979年) [編集]
テレビが一般に普及するにつれて、大手の映画会社は興行
を成功させるために、動員数が期待できる娯楽作品を中心
に手がけるようになった。このため、松竹ヌーヴェルヴァ
ーグの中心であった大島渚や吉田喜重のように、芸術映画
を製作したい監督は大手映画会社から去り、独立プロを立
ち上げて活動するようになった。
ATGはこれらの独立プロを積極的に支援し、独立プロと半分
ずつ予算を供出することで、「一千万円映画」と呼ばれる低
予算の映画製作を行った。一千万円という予算は当時の一
般的な映画製作費用の数分の一であるため製作には困難も
伴ったが、多くの作品がキネマ旬報ベストテンに選定される
など高い評価を受けた。
一方、これらの映画の中には興行的に失敗するものもあり、
ATGの経営は徐々に困難になり、加盟映画館も減っていった。
このような状況を受け、1979年には初代社長の井関種雄が
退任、佐々木史朗が社長となる。
----------------------------
私が深夜テレビで見ていたのは所謂第3期に当たる頃で
第2期に確立した予算方法が定着していた時分だったと
思う。
500万円を独立プロ側のこり500万円を東宝系列の
ATG側の捻出というスタイルである。
しかし残念ながら1992年にその活動を停止させたのであるが
このATGスタイルというのは、今から考えても画期的であ
り、あくまで素人考えではあるが、もし今このスタイルを実
行すれば、別の意味で展開が広がる?んじゃないの?と夢想
してしまう。。
東宝という親会社はエンターテイメントで収益を稼ぎ、その
資金を元に芸術映画及び監督の育成を図る。今だとここから
積極的に世界マーケットに打って出るプロモーションをブッ
キングすれば、、、
当時さほど、、、考えていたかもしれないが、今ほどの積極
性があったとは思えない世界マーケット進出を生み出せるの
ではない?と安直に考えてしまうのである・・・・
例えば松井監督の国際コンペの例を見てもそうだが、世界を
相手に闘う映画というのはやはり芸術作品である。決して
ハリウッド的なエンターテイメントではない。今盛んにコン
テンツ産業の輸出ということでアニメ漫画等を中心に語られ
るが、それ以外にも日本独特の映画という芸術が存在し、世
界に冠たる監督を多数輩出してきた。これを考えれば、先ず
根幹にある有能な監督を如何に輩出するかという機能をもっ
と強化しなくてはならない事に気がつく。
全て興行収益から逆算することだけで映画制作が完遂されても
それはその都度都度のビジネスの整合は図れても、最終的な
大枠での収益はどうなの?となる・・
例えば、世界マーケットに出られるのか?というビッグビジネ
スをにらんだ場合はいとも簡単にその方法が間違っていること
に気づかされる。
北野監督が評価された、これは嬉しい出来事ではある、しかし
もっともっと良い監督がこの国にはいる!挑戦させよう!とい
う機運が欲しいような気がするのである・・・
しかし無能なものまで面倒見ることはない。ここでATGが
上手いのは半分は自分たちで用意しろ!という事である。こ
れがなんとなくではあるが上手い整合を図っているのと同時
に、若い作家の育成にも役だっているような気がするのであ
る。
例えば面白い話を松井監督からお聞きしたのだが、市川 崑
という巨匠は、わざわざこのATGスタイルを使い股旅とい
う映画を完成させた。
それは何を意味しているかと言えば、、自分の作りたい映画
を作ると言うことに役立てたらしい・・・
巨匠となれば全てにおいてかなりの制約が生まれるし、その
構想を形にするとなれば大きな興行プロジェクトになり当然
莫大な資金が必要になる。こんなプロジェクトは数年に一回
という割合でしか生まれないから必然的に映画が撮れない
という時間を生んでしまう。そこで間隙をつくかのようにA
TGスタイルを選択すれば、大きなプロジェクトとはまった
く違う市川作品が生まれ、監督の思いも観客の満足感も別の
意味で充足される・・
ATGスタイルとは本質的に映画という興行の側面と芸術
という側面を上手く一時期補完できた産物であった。
しかし興行という側面はかなり水物で最終的には崩壊
したのであるが、今ならちょっと状況が違うのではないか?
と思うのである。。。。。
この話をしていたときに思ったのであるが、美術界も実は
このスタイルが当てはまるんじゃないか?と思ったのである。
特に◎独立プロを積極的に支援し、独立プロと半分
ずつ予算を供出することで、「一千万円映画」
と呼ばれる低予算の映画製作を行った。
◎ATGは良質のアート系映画をより多くの人々に届け
るという趣旨のもとに設立され、年会費を払って
会員になると多くの他では見られない映画を割安
の価格で観られたため、若者たちの支持を得た。
これらがそのまま当てはまる訳ではないが、なんとなく
活かせられるような気がしている。
いずれにしても二つの要素を取り上げたのであるが、
基本は資金である。ここの部分が点として律動して
いても決して大きなものにはならない。
できれば線となり面となる仕組み、そして基本はATG
は官ではなく民の共感のなかで成長したようにこの部分
の収攬をどのように果たすのかが大きな問題点であろう
と思う。しかしATGは最終的に興行面での採算性で追
い込まれた訳で、ここをどのように補完するか、そこが
生み出せればもう少し強固な地盤が生まれるような気が
する。又、世界との関係性をどう構築するかも同様の問
題としてある。。。。
私のような”芥子粒”ごとき存在が偉そうに語ったとこ
ろで何もないのであるが・・・・・・
私が身を置く環境から単純に類推しても
アートフェアやオークション、、、ミュージアム、、
ギャラリー、、コレクター一般・・・という点の存在が
垣間見える現状は、、もう少し大きなもしくは
”今までと違う”
枠組み、仕組みを必要としているのでは?
と思うのと同時に、、、、
絶対的課題は3点しかないと思う
◎世界との関係
◎一般へのより大きな浸透及び興行としての性格強化
◎絶対的な透明性と優劣の明確な判断
ここが今以上に発展しなければ、、いつまでも同じでは
ないのかな?と思うと同時に、ここ最近様々な方とお話
するの中でその必要性を感じているのが強い印象として
残った。。。
