June 22,2010
今年の春の東京アートフェアに伺ったとき
懇意にしていただいているK美術のギャラリストの
方から、今年の秋に京都で行われるアートプロジェクト
を手伝わない?とお誘いを受けた。
このプロジェクト自体は存じ上げていた。京都という
ロケーションを最大限活用した面白いもので昨年評判に
なっていた。
なにより面白いなぁと感じたのは、、京都の人が京都で
行うという良くありがちな”自己完結型”のものではな
く、他地域、東京の人が中心になって、京都を使うとい
う部分に大きな魅力と期待が感じられたのであった。。
京都は京都の人が一番分かっている!というのはある
意味当然なのだが、実は逆説的に言えば、京都は京都の人
が一番分かっていないという部分も客観的には如実に見て
とれる部分がある。
世界的に日本という国を見、その中の都市を想像した場合、
経済大国である我が国を代表するのは間違いなく東京であ
ろう。また、国政の面を考えてもそれは首都という機能か
ら同様の風景が浮かび上がる。
しかし、国という複合的要素考えた場合、根底にある文化
歴史という部分はどこが担っているのか?そう考えると日
本の場合、間違いなく奈良であり京都という事になる。
この事について京都の人は間違いなく誇りを持っている・・が
それはこの国の人に対してが大半である、、、、、、
しかし本来もっと世界的な視野により俯瞰した場合、そこから
浮かび上がる京都という実像を実は京都の人は案外イメージ
として持っていなかったりするのである。
実際に他国というものを我々個人がイメージしたとして、そこ
には確実に現代の様相以外に、歴史文化という要素が相当な量
でイメージの構築に必要不可欠であることは理解できる。
世界的、、、という規模まで拡大しなくても、端的には、、、
観光客の方々が抱くイメージと京都の人が持つ京都の
イメージには相当なギャップが存在する。。
良い意味でも悪い意味でも
京都は純度の高い”ガラパゴス都市”なのだと思う。。。
このガラパゴス感覚、、これが案外厄介で・・・・・・
生半可な知識のみで脱却しようと京都の人は過去色々
試みるのであるが、、、
これが”ダサイ””くだらない””内向的すぎて誰にも理解
されない”などという惨憺たる結果を迎えている・・・
良い例が
西陣織という地場産業が存在するが、、、
これで安直にネクタイなどを作ってしまい、平然と
京ブランドなどとして売り出したりする。しかも駅
のおみやげものとして陳列したり・・
本来京都のイメージを活用しUPを図る筈の施策が
完全な逆効果、、イメージダウンに直結しているので
ある。実際こんなものは京都以外の人に対して訴える
ものもなければ、、なにより京都人すら嫌悪する・・・・
すべてこの感覚なのである。。
しかし、先日も大きく取り上げられていたが、、、、
ドン ペリニヨン&特製桶シャンパンクーラというもの
ドンペリが京都の美しい桶に魅了され、特別に発注した
ドンペリ用のシャンパンクーラーなのだが、これなどは
外部の人が見る京都の美しい伝統の美であり、本来こう
いった形のモノこそが京都なのであろうなと改めて感じ
た。しかしこれを京都の人、所謂内部の人がプロモーシ
ョンできるのか?
というのが当該の最大の問題点であると思うのである・・
と、、まぁ長々と書き連ねたが、今回ご協力させていた
だくプロジェクトとはまさしく外部の方々が京都という
ものを最大限引っ張り上げるおもしろさが満載されていて、
二回目になる今回は一回目以上のインパクトがあることは
間違いないと思う。
昨日、このプロジェクトの主要メンバーの方々が京都に
集合しプロジェクトで使用する展示場所の下見を行われ
たのであるがそこへおじゃまさせていただいた。
私はあくまで縁の下のご協力なのであるが、皆様方が大変
丁寧な挨拶をしてくださり、リーダーである作家のN先生は
当ギャラリーまでお越し頂きました。
そこで改めて今回のプロジェクトについて懇切丁寧にご
説明いただきその思いをお聞かせ下さいました。
そこで大変勉強になったことが2つありました。
一つは現代人の生活において何が足りないか?
現代人が失いつつある感性とはなにか?
これは正直様々な考えがあるとは思いますが、こと、
このプロジェクトを考えられた根底に流れる部分で
必要不可欠な要素として上げれられたのが、、、、、
『 ハレとケ 』
という考え方で、現代ではあまり聞かない言葉なの
ですが、
ウィッキペディアから説明を引用すれば・・
--------------------------------------------------
「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、
時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。
民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、
ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」
、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。
また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ
(気枯れ)という。ハレの場においては、衣食住や振る舞
い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。
----------------------------------------------------
そうなのである、晴れ着などという言葉に代表されるよ
うに、昔は
おめかししてウキウキと伺う場所や機会またそういうも
のを大事にしていた部分があり、それが一つの節度をもっ
ており日常と非日常を厳然と区分けしていた。結婚式も
葬式もお祭りやその他色々なもの、例えば少し前の
百貨店なんかは近代的な”ハレ”の場としての役割を担
っていた。。
こういう精神性がなくなりつつある。全てが堅苦しい→
カジュアル→どうでもよい。
合理性=経済性=効率などという感性が世の中を支配し
これらの考え方は隅に追いやられつつある。。最大は時間
がないという貧しい感性か?
しかしなくなったか?と言えばそうではない、厳然と存在
はする、しかし気持ちがあっても場がなくなり、それを形
にしにくくなった。。。
などといいう風潮が攪拌され、今、改めて考えれば、、
そういえば”ハレ”の場がなくなりつつある・・・
アートとはまた、アートを展示し鑑賞いただく場とは
もっと広義に捉えれば
京都とはこの国の中の
『 ハレの場 』である。
この場をどのように作り出すか?これが大事なのである。
今この国の観光に対しての支出を考えれば相当な金額と
流動人口があることは間違いない。これは非日常を体感
する間違いない”ハレ”の場を求めているのだが、では
美術館は?と考えれば、確かに相当数の美術館と来場者
が毎年正確なのか不正確なのか分からない風聞として
は聞こえてくる。しかしその人数の合計を分子として全
人口を分母としたとき果たしてその割合は国民の”ハレ”
の場たり得るのか?という疑問もあるが、本当にそれで
美術館及び”アート”は役割を果たしているのか?
という疑問に直面する。
生涯美術館に行かない、もっと言えば絵を鑑賞しない人
がどれほど多くいるか?という逆の試算も成り立つ。乱
暴な意見として見られるかも知れないが、仮に生涯絵を
鑑賞した機会を正確にアンケートすればそれは如実に表
れると私は思う。
だから駄目なのではない。
単純に考えれば、それだけ”潜在的な人口があるという
証左であり、その部分にインパクトを与えることこそが
重要なのだと考えられる。
よく、幅広い方々にご覧頂き・・・などという謳い文句
を目にするが現実的に幅広くない鑑賞者人口に対して具
体的にそれを向上する施策とはなにか?と聞きたいとこ
ろとなるのは本来自然な流れである。。
今回のプロジェクトとはそれらを深く考えれた結晶とし
て具体化されたものである。
もう一つ感じたのは
やはり既存のプロジェクトではない今回のプランは、
個人が起案したところから始まっている。何もない
ところか一人の情熱が形を生み出しているのである。
その情熱に賛同する人達が集まり大きくなり、そして
これからも大きくなりつつある。
全ては一人の信念からスタートしている。
実際には様々な障害が立ちはだかったとおっしゃって
おられたが、当然だろうと皆は簡単に言う。しかし本
当に立ち向かう人がどれほどいるか?また”そうだろう”
などと簡単に言える人が本当にこれまでそのような事に
立ち向かった事があるのか?と逆に聞きたいくらいで
ある。大半は想像逞しく、その手前どころか何もしな
いのがほとんどじゃないの?・・・・
と、、思う。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
無信不立
信なくば立たず、だと思う。
リーダーのN先生の情熱に満ちあふれたお話を聞
いていて
『 井戸を掘る 』
勇気を教えてもらいました。。。。
懇意にしていただいているK美術のギャラリストの
方から、今年の秋に京都で行われるアートプロジェクト
を手伝わない?とお誘いを受けた。
このプロジェクト自体は存じ上げていた。京都という
ロケーションを最大限活用した面白いもので昨年評判に
なっていた。
なにより面白いなぁと感じたのは、、京都の人が京都で
行うという良くありがちな”自己完結型”のものではな
く、他地域、東京の人が中心になって、京都を使うとい
う部分に大きな魅力と期待が感じられたのであった。。
京都は京都の人が一番分かっている!というのはある
意味当然なのだが、実は逆説的に言えば、京都は京都の人
が一番分かっていないという部分も客観的には如実に見て
とれる部分がある。
世界的に日本という国を見、その中の都市を想像した場合、
経済大国である我が国を代表するのは間違いなく東京であ
ろう。また、国政の面を考えてもそれは首都という機能か
ら同様の風景が浮かび上がる。
しかし、国という複合的要素考えた場合、根底にある文化
歴史という部分はどこが担っているのか?そう考えると日
本の場合、間違いなく奈良であり京都という事になる。
この事について京都の人は間違いなく誇りを持っている・・が
それはこの国の人に対してが大半である、、、、、、
しかし本来もっと世界的な視野により俯瞰した場合、そこから
浮かび上がる京都という実像を実は京都の人は案外イメージ
として持っていなかったりするのである。
実際に他国というものを我々個人がイメージしたとして、そこ
には確実に現代の様相以外に、歴史文化という要素が相当な量
でイメージの構築に必要不可欠であることは理解できる。
世界的、、、という規模まで拡大しなくても、端的には、、、
観光客の方々が抱くイメージと京都の人が持つ京都の
イメージには相当なギャップが存在する。。
良い意味でも悪い意味でも
京都は純度の高い”ガラパゴス都市”なのだと思う。。。
このガラパゴス感覚、、これが案外厄介で・・・・・・
生半可な知識のみで脱却しようと京都の人は過去色々
試みるのであるが、、、
これが”ダサイ””くだらない””内向的すぎて誰にも理解
されない”などという惨憺たる結果を迎えている・・・
良い例が
西陣織という地場産業が存在するが、、、
これで安直にネクタイなどを作ってしまい、平然と
京ブランドなどとして売り出したりする。しかも駅
のおみやげものとして陳列したり・・
本来京都のイメージを活用しUPを図る筈の施策が
完全な逆効果、、イメージダウンに直結しているので
ある。実際こんなものは京都以外の人に対して訴える
ものもなければ、、なにより京都人すら嫌悪する・・・・
すべてこの感覚なのである。。
しかし、先日も大きく取り上げられていたが、、、、
ドン ペリニヨン&特製桶シャンパンクーラというもの
ドンペリが京都の美しい桶に魅了され、特別に発注した
ドンペリ用のシャンパンクーラーなのだが、これなどは
外部の人が見る京都の美しい伝統の美であり、本来こう
いった形のモノこそが京都なのであろうなと改めて感じ
た。しかしこれを京都の人、所謂内部の人がプロモーシ
ョンできるのか?
というのが当該の最大の問題点であると思うのである・・
と、、まぁ長々と書き連ねたが、今回ご協力させていた
だくプロジェクトとはまさしく外部の方々が京都という
ものを最大限引っ張り上げるおもしろさが満載されていて、
二回目になる今回は一回目以上のインパクトがあることは
間違いないと思う。
昨日、このプロジェクトの主要メンバーの方々が京都に
集合しプロジェクトで使用する展示場所の下見を行われ
たのであるがそこへおじゃまさせていただいた。
私はあくまで縁の下のご協力なのであるが、皆様方が大変
丁寧な挨拶をしてくださり、リーダーである作家のN先生は
当ギャラリーまでお越し頂きました。
そこで改めて今回のプロジェクトについて懇切丁寧にご
説明いただきその思いをお聞かせ下さいました。
そこで大変勉強になったことが2つありました。
一つは現代人の生活において何が足りないか?
現代人が失いつつある感性とはなにか?
これは正直様々な考えがあるとは思いますが、こと、
このプロジェクトを考えられた根底に流れる部分で
必要不可欠な要素として上げれられたのが、、、、、
『 ハレとケ 』
という考え方で、現代ではあまり聞かない言葉なの
ですが、
ウィッキペディアから説明を引用すれば・・
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「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、
時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。
民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、
ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」
、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。
また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ
(気枯れ)という。ハレの場においては、衣食住や振る舞
い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。
----------------------------------------------------
そうなのである、晴れ着などという言葉に代表されるよ
うに、昔は
おめかししてウキウキと伺う場所や機会またそういうも
のを大事にしていた部分があり、それが一つの節度をもっ
ており日常と非日常を厳然と区分けしていた。結婚式も
葬式もお祭りやその他色々なもの、例えば少し前の
百貨店なんかは近代的な”ハレ”の場としての役割を担
っていた。。
こういう精神性がなくなりつつある。全てが堅苦しい→
カジュアル→どうでもよい。
合理性=経済性=効率などという感性が世の中を支配し
これらの考え方は隅に追いやられつつある。。最大は時間
がないという貧しい感性か?
しかしなくなったか?と言えばそうではない、厳然と存在
はする、しかし気持ちがあっても場がなくなり、それを形
にしにくくなった。。。
などといいう風潮が攪拌され、今、改めて考えれば、、
そういえば”ハレ”の場がなくなりつつある・・・
アートとはまた、アートを展示し鑑賞いただく場とは
もっと広義に捉えれば
京都とはこの国の中の
『 ハレの場 』である。
この場をどのように作り出すか?これが大事なのである。
今この国の観光に対しての支出を考えれば相当な金額と
流動人口があることは間違いない。これは非日常を体感
する間違いない”ハレ”の場を求めているのだが、では
美術館は?と考えれば、確かに相当数の美術館と来場者
が毎年正確なのか不正確なのか分からない風聞として
は聞こえてくる。しかしその人数の合計を分子として全
人口を分母としたとき果たしてその割合は国民の”ハレ”
の場たり得るのか?という疑問もあるが、本当にそれで
美術館及び”アート”は役割を果たしているのか?
という疑問に直面する。
生涯美術館に行かない、もっと言えば絵を鑑賞しない人
がどれほど多くいるか?という逆の試算も成り立つ。乱
暴な意見として見られるかも知れないが、仮に生涯絵を
鑑賞した機会を正確にアンケートすればそれは如実に表
れると私は思う。
だから駄目なのではない。
単純に考えれば、それだけ”潜在的な人口があるという
証左であり、その部分にインパクトを与えることこそが
重要なのだと考えられる。
よく、幅広い方々にご覧頂き・・・などという謳い文句
を目にするが現実的に幅広くない鑑賞者人口に対して具
体的にそれを向上する施策とはなにか?と聞きたいとこ
ろとなるのは本来自然な流れである。。
今回のプロジェクトとはそれらを深く考えれた結晶とし
て具体化されたものである。
もう一つ感じたのは
やはり既存のプロジェクトではない今回のプランは、
個人が起案したところから始まっている。何もない
ところか一人の情熱が形を生み出しているのである。
その情熱に賛同する人達が集まり大きくなり、そして
これからも大きくなりつつある。
全ては一人の信念からスタートしている。
実際には様々な障害が立ちはだかったとおっしゃって
おられたが、当然だろうと皆は簡単に言う。しかし本
当に立ち向かう人がどれほどいるか?また”そうだろう”
などと簡単に言える人が本当にこれまでそのような事に
立ち向かった事があるのか?と逆に聞きたいくらいで
ある。大半は想像逞しく、その手前どころか何もしな
いのがほとんどじゃないの?・・・・
と、、思う。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
無信不立
信なくば立たず、だと思う。
リーダーのN先生の情熱に満ちあふれたお話を聞
いていて
『 井戸を掘る 』
勇気を教えてもらいました。。。。
