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松ちゃんの絵と影武者の思い出
今、当ホームページをご覧いただいている
皆さまはお気づきだと思うのですが、今週
から次回展覧の告知を様々な形で行ってお
ります。


次回は松本央くんの個展で2回に分けロングラン
の展開となります。


2回行う展覧の骨格としては


今という時点を中心に



過去、、といっても彼が大学卒業前後に考えてい
た事と、、、


今、働きながら描き続けいる自分が考える表現
についてという二つのストーリーを軸にそれぞれ
を前後半で展開いたします。



この二つの展覧の底流に流れているものは


一つであり、それは彼独特の自画像という手法に
よる表現とそこから訴えるものへの挑戦です。



そして、それぞれのポイントとなる作品をDMに
据えさせていただきました。


こういう内容を様々な形でアシスタントの石本
と検討しながら告知を進めているのですが、、、



彼の自画像に対する考えを、様々なレポートや
プレスリリースに纏めていて、、



フッと感じた事がありました。。。



それは、、



黒澤明監督の影武者です。。



すこし当時を思い起こしました・・



。。。。。。。。。。。。。。。。。。。




私は、13歳の時が実質的な“映画館”へ足を運ぶ
デビューであった。



この年、私は初めて自分の意志で、これが見たいと
いう思いをもって、天平の甍と影武者を劇場に見に
行った。



どちらもプロモーション規模も大きく話題の大作であり、
封切り前から見たいという欲求、ワクワク感が高まって
おり、実に待ち遠しい新作であった。



今のようにネット、dvdやレンタルビデオなどがない
時代、そして日本映画が衰退しきっていた当時は、大掛
かりな予算を使うこともままならない状況下で出てきた
これら映画はいやがうえにも注目の的だった。



商業的に今のような仕組みが出来上がる前、それこそ
完全な興行という意味合いが強かった日本の映画は、
観客動員のみが興行収入の全てであり、博打のような
様相がプロモーション側にも漂っており、その中で大
博打的に封切られる映画は今のプロモーションにはな
い凄みがあった!



所謂、劇場での次回作の宣伝に使われる



史上空前の規模

空前絶後のスペクタクル

過去最高の観客動員必至!

抱腹絶倒、感動の渦!!



というような壮大な宣伝文句を乱発し


そして最後に

撮影快調!!!




と観客の期待をこれでもかと、豚骨スープのよ
うな濃厚さと、そしてとてつもない暑苦しさで
引き出していた!!!我々もそれに引きずられ、



おぉ!と単純に驚き、封切りを待っていた…



しかも、その監督が黒澤明となれば、世間の注目
は他のどの作家よりもボルテージは高く、当時ま
ったく黒澤明や日本の映画界の事を知らなかった
私ですらその盛り上がりの波の中に飲み込まれた!



私は黒澤明に関心や興味があった分けではない。
影武者というテーマが気になっただけである。


この時分より歴史小説にのめり込みはじめ、まぁ、
多くの人間がそうだと思うのだが、分かりやすく
て面白い戦国時代が私も例に漏れず起点となった。



そのタイミングで封切られた影武者という内容に
私はミートしただけであり、黒澤作品というモチ
ベーションではない理由で劇場に行かなくては!
と思ったのである・・




劇場で見るのはいい。



いや、映画はもともと劇場用に全てが作られている
わけであるから、劇場以外、テレビなどで見るのは
別物と考えていても相違ないと思う。



映画の内容そのもの以外の、劇場が持つ雰囲気も
作品の要素には欠かせない無いものだと私は考え
ている。。



あの、すぅーっと暗くなり、ふんわりと暗闇の中
に誘ってくれ、ついさっきまでの日常と綺麗に分断
してくれるのは、色々な芸術が存在すが映画独特の
ものであり、特にその部分が私は大好きだ。



そして人間が実物大よりも大きく迫ってくる、その
迫力は色々なメディアが存在するが、追随を許さな
いくらいの迫力と感動を有する。



これを最大限満足するため、私は基本的に映画は一人
で見に行くことにしている。



一人で暗闇の中、その世界に没入したいたからであり、
デートでは過去映画館をほとんど使わなかった。



気が散るのである。


何か話し掛けられるのも嫌だし、相手のことを気に
かけるのも煩わしい、そして一番嫌なのは、終わっ
てから感想を喋りあうのが一番鬱陶しいのである。



私は映画を見た直後は秀作であろうが、駄作であろ
うが、何故か不思議と感想が出てこないのである。



ゆっくりと時間をかけ自己分析するのに時間が欲し
いのと、実はその時間が私にとっては一番至福の
時間であり邪魔をしてほしくないのである。。。。



とにかく映画館は出来るだけ一人で行くことにして
いる。



さて、影武者であるが、正直、面白かったのである
が、皆が騒ぐのと同じ重みで私の天秤が水平を保っ
たか?というと当時13歳の私は、そういった感覚
がなかった。



確かにスケールや迫力というものには凄さを感じた
のであるが、感動?というものはあまり感じなかった…



歴史的な事象として武田信玄が亡くなってから3年
間回りの大名との紛争がなく、その死が隠されてい
たということは想像に難しくないことであり、映画
のストーリとしてもリアリティはある。



しかし、それが映画の支柱でないことは十分理解し
ていたが、かといって…??何が大きな柱としてこ
の映画が組み立てられているのかは、理解できなか
った。



だから当時の私は、映画のスクリーンから体感できる
スケールと迫力、音響の方が見た感覚として全面を覆
ってしまい、その底流を流そうとしていた核心がまっ
たく見えなかったのであった。。。。



これ以来、黒澤映画は見ていない。



中学を卒業し高校に入学するころからビデオという
ものが一般の家庭にも当たり前に普及し、皆、レン
タルビデオで映画を見るようになると、我々がリア
ルタイムで見ることが出来なかった過去の映画など
も容易に鑑賞でき、友人達同士で映画を話す内容に
も現在封切られている映画と同様のボリュウムで
過去の秀作映画が普通に会話に現れるようになって
きたのである。



いや、どちらかと言うと、それまで大人たちの占有
であった過去の秀作が開放されたという色合いが強く、
過去の映画を話す方が多かったかもしれない。。



そういった会話を友人などとしていると必ずと言って
いいほど黒澤の存在に突き当たり、大半が感動したと
語るのである。。



しかし、私は影武者を見て以降、さしずめ日本の映画
界の巨人であることは過去の賞歴から知識としては得
ていたが、感動するということにはなにか解せないも
のを常に抱えていた。



それと、生来の天邪鬼気質が、皆が良いというものに
迎合を許さなかったのもその要因であったことは自分
でも十分理解していた。



なぜ、皆が口をそろえて良いというのか?いつも私は
そういう印象をもつものが目の前に提示されると、独特
のアレルギーが出て好きにならないという頑なな傾向
を示す癖がある。


しかしこれは意固地になって認めないということも
僅かな割合ではあるが、よくよく冷静に考えると、
やはりそういったものは、基本的に好きではないので
ある。



だからこの感覚を私は内面として自己批判しているわ
けではなく基本的には肯定している。しかし、圧倒的
に肯定されているものを、特に根拠も示さず嫌いとい
う事はかなり危険な行為であり、過去何回か痛い目に
あった。



話は逸れるが、その具体的な内容として、私はサザン
オールスターズとビートルズが嫌いではないが、好き
でもない…



これが、過去何度も痛い目にあった。あのメロディア
スな・・やめておこう。。。



話を戻すが、あまりにも皆が黒澤を良いというのと、
黒澤を知らずして映画は語れないであろう!的な圧力
が凄まじく…



うーん・・見てみようかな?と言う気持ちがポツっと
芽生えたころ、偶然京都駅前にあった小劇場(今もあ
るかどうか知らないが?)で黒澤ウィークという企画
があった。

じゃ、、まぁ一度見てみるか!という事で行くことに
した。



何作か見て・・



うん?面白い!なぁ、いや凄いなぁ・・



あの13歳の時、感じたものとは明らかに違う。。。



ひょっとしてこの監督って??



ものすごい芸術家では・・・(偉そうに・・恥。。)



そして何作目かに”七人の侍”が上映された。。



すっ、スゴイ!



これは…



息を呑んだ。。。



これが、白黒映画??



いや、これ作ったのいつ???



・・・・・ボコボコにヤラレタ…




それまでの、、、

黒澤?そんなにスゴイ?へぇー

俺?べつにぃ…




なんて言っていたのが、猛烈に恥ずかしく感じた。。



なんと・・無知とは恐ろしいのか…



とにかく凄かった。圧倒された。



当時の東宝があまりにも膨大な予算を消費する黒澤に、
映画撮影の進行をストップさせ、出来たところまで社
の幹部で見て中止かどうかの判断をするという結論を
下し、上映会を開いたが、あまりにもの凄さに、即時
続行を決定したというのは有名な伝説として残ってい
るが、それはこの映画を見れば良く分かるし、当然の
結果だとも思う。



映画は興行であるから、端から博打の色彩は強いので
あるが、しかしそれでも通常の試算は商業的な採算が
あってビジネスとして考えるのが普通であり、資金が
無尽蔵にあるわけではないから、基本的には封切る前
から予測のつく採算ラインを割り込めばお蔵入りか中
断というのが普通であろう。



しかし映画そのものが普通ではなかったのである。そ
れは奇異なという意味ではなく、世界中の誰もが見た
ことのないスケールと内容・・



この迫力とは、ビジネスで雁字搦めに計画を遂行する
人間に対し、ある意味での大博打を打たせるだけの説
得力があったのと、多少なりとも映画という芸術を商
売にしている人間の中に宿る活動屋の魂の琴線を弦が
切れんばかりに弾いた結果だったと推察できる。



そして単純に“続きが見たい!”という人間の根底に
ながれる欲望を鷲づかみにしたのだと思う。。。



そう感じてから、あの影武者…あの映画・・



と、再度見る必要に駆られたのだったが、そのままに
なってしまった。。



それから数年後、何気なくレンタルビデオに立ち寄り、
フッと当時の宿題を思い出した。



あっそうそう、あの宿題がまだ片付いていない!
迷うことなく影武者を借り、家で見た。。。。。。。





あっ!




と、気づいた。。

これが分からなかったのか…




この映画・・戦国時代の時代考証などをまったく
知らなければ、武田信玄のことを何も知らなく、
只の“殿様”西洋で言う“王様”として単純に
仮定すれば、この映画の骨格がものすごい色彩
を帯びて浮かび上がってくる…・



影武者とは、人間に内在する自分じゃないか?



表面の自分・・これは他人が判断する客観的な自分
であり、ある意味正確ではあるが、しかし本当の自
分というものであるかは、内在する自分とのギャッ
プを常に人間は悩みとして抱えている。世間のイメ
ージと心の内に存在する自分。。。




人間は生きたいようには生きられはしない、しかし、
じゃぁどのように生きたいかと問われても、明確に
出来る人間もまた少ない。それは現実的には不可能
であったり、そこからくる諦め、反抗。。



これはイメージとしての自分から始まり、結局行き
着くところはシンプルな人間としての素直な自分と
いう、よく分からない自分の気持ちとイメージに帰
着していくような気がするのである。。




人間は心の中に存在する自分像を想像し、先々の生
きかたの台本を書きつづけ、演出するのである・・



しかし、表面にそれを出せるのはごく僅かであり、
いつしか、ある種の逃避が心の中を支配し、もしく
は片隅に存在することに気づき、その気持ちと付き
合い続けている。。



それが人間の影だったりするのではないだろうか??




この映画の影武者の現実社会でのポジションは盗人
である。。



武田信玄という人間と顔は同じだが、まったく生活
環境も生い立ちも教養も、全てにおいて正反対な存
在が世の中に具体的に出現するという想定は、表面
的な見える部分での同一性と、常に人間が抱えてい
る内在する人間のギャップを具体的な陰影として表
しているのでは?という部分に突き当たった。。



これは…あまり斬新なテーマではないかもしれないが、
しかし、影武者という、本来、人間としては“無”の
存在をモチーフにしているところが、他の似通ったテ
ーマ性とは光彩が格段に違い、そして同じ時系列でそ
のギャップを見せていない所にこの映画の妙味も存在
する。



影武者のあまりにも武田信玄像とのギャップのある行
動のみで、信玄の存在を浮かびあがらせ、そしてイメ
ージさせる。



こういう手法が中盤から終盤にいたると、ひょっとし
て信玄という存在は現実的な史実内の想像として固定
的なイメージはあるが、人間としての信玄は誰も分か
らないという根本的な問題に皆を誘導する。



それがある時から、信玄と影武者に仮託していたもの
が取り払われ、人間そのものに存在する、二面性であ
ったり、多面性であったり、真の自分という人間が常
に抱える永遠のテーマへと運び込むというところが、
実は大いなる支柱ではないかと気づいたのである。。




人間は誰しも、他人と会話しているとき以外にも話し
をしている。



それは誰と話をしているのだろう?



歩いていても、電車に乗っていても、車を運転してい
ても・・



人間は常に話をしている。


頭の中なのか?


心の中からなのか?


音無き声を発している・・・


一人悩みそで解決策を考えたり


実社会での失敗を何度も何度も悔やんだり


時には一人ほくそ笑んだり。。。


時には他人を想像し、話かけたり、




しかしこれなんかは落語のような、記憶
にある他人の言語以外の未来予測は自分
で考えてセリフを作っている・・



いつも話している、ずっと話している。。



これは命続く限り行うのだろうか?



・・・・



しかしこの声は他人には聞こえない。



誰とはなしているのだろう?



間違いなく自分である。



自分が自分に?ではどういう自分がどう
いう自分に話ているのだろう?



世間的な固定化されたイメージの自分が、
それとはギャップのある心の内の自分?



心の内にある自分と自分の会話に、世間的
なイメージの自分がオブザーバーとして会
話に参加している?



色々なケースがあるだろう…



しかし、どれが本当の自分で主役なのだろうか?



どちらが影武者なのか?



主役に語りかける自分は本物ではないのだろうか?
演出の上語りかけているのだろうか?ではその演出
と台本は誰が書いたのか?



考え出すときりがない。。しかし、人間は常に
こころの内で見えない自分と語りつづけている。。



この映画は、私にとってはそういった事を語りかけ
ているように思えた。。



今日も私は



私に話し掛けている


遠い未来の



自分を想像し


今日、心の中に数人いる



自分と


会話している。。



命差し出す影武者を決めているのかもしれ
ない。。



しかし



この会話の中だけは







嘘はない。。



嘘は存在しようもないから・・・


嘘が嘘にならないから。。。。。。

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