April 14,2010
唐突であるが、、
私は版画好きである。
これについての根拠はハッキリとしている、
偏に、小さい時分、確か小学校の高学年だった
と思うが、その時に受けた版画の授業がことの
他楽しかった思い出があり、それが今も繋が
っているのである。
絵を描くことは比較的好きな子供であったから
図工と呼ばれる授業全般楽しかったのだが、取り分け
版画、木版画を始めてやった時の記憶は今も鮮明に
残っている。
絵を描くということは頭の中の想念を具体的に体を
使ってそのイメージに繋げていく作業であり、時として
イメージ通り、時としてイメージからかけ離れ、それが
良かったり悪かったりというような結果が待っている。
子供であるから特別な着地点を求めて描きだしている
訳ではないが、しかしながら高学年ともなれば、多少
色気づき、他人よりも対象物に対する模倣性を気にかける
ようになり、その精緻さがイコール絵が上手いか下手かの
バロメーターとして捉えるようになってくる。付け加えて
言うならばそれが他人との差であり優越感の度合いとな
る。
まぁこの段階で全ての純粋な感性は崩壊し”小さな大人”
と化すのであるが・・・
しかしこの時分に行った版画というものに絵画にはない
少し違うものを感じたのであった。
確かに絵画と同様の2次元の結果が残り、当然そこには
対象やイメージしたものとの再現性による上手下手と
いうものがあるのだが、なんというのかそこに至るまで
の制作プロセスがかなり違うなぁと感じたのであった。
絵を描くという行為は、なんとなくであるが、自分の中、
内側にあるものを如何に吐き出すかという事と、想念とする
ものとの距離を制御しもって作り上げるという感覚がある。
端的に言えば”吐き出す”というのか”放出”するというのか
動的であり運動的なのだが、、、、
版画というものの作業過程を感覚的捉えると、まったく逆
とまでは行かないが、かなり相違することに気づかされる。
吐き出す、放出するという感覚的なものに肉体的作業
スピードが著しく合致しないのである。端的に言えば
即時結果が現れてこない。
これは当然といえば当然なのだが、仮に下書きという
エスキースが存在したとしても、そこから版をつくり
刷りという作業を経て結果に至るわけであるから、絵の
ような即時結果のものとは感情のコントロール方法が
大きく違う。
ここが実は非常に面白い点であり、絵画が放出、吐き出し
の感覚的作業と考えれば、ある意味、版画は放出、吐き出しを
改めて仕舞い込む作業のようなところがあることを感じるの
である。
一度想念と化したものを、先ずは絵画と同じようなスタート
ラインに立ち取り掛かるのであるが、そこから突っ走る
絵画とは異なり、出来る限り放出、吐き出したものを、精緻
に整理し、ピースと化したのち上手くつなぎ合わせるような
作業を組み立てるのが版画のような気がするのである。
絵画が放出、吐き出しの作業とすれば版画は差し詰め
収納と整理の作業のように感じたのであった。
棟方志功のようにいきなり板に彫り出す作家もいるが、
それはある意味作業風景の画像としては絵画的であり、
本人も”板画”などと呼んでいるようであるが、実際、
本質的には絵画と同様ではなく、作業を一部分ショート
カットしているだけであり、熟練した技術がカットした
部分を埋めているだけであり、他の版画とそれほど大き
な違いがあるようには感じない。
やはり、内省的整理の行き届いた比較的動的スピード
の早い版画家、版画制作作業ということだと思う。
・・・・・・・・・・
もうひとつ版画について言うならば、実は描くという
行為とは程遠く、私などは立体制作に近い?のでは
と感じるくらい、言葉としては”作る”という方が
しっくりくる感じがするのである。当然感情のコントロール
と作業効率、実際に”彫る”という行為からの連想
でもあるが、それ以上に、かなり理性的に制御しなければ
到達し得ない結果から逆算する作業性はまさしく彫刻
に近いのかも?と人知れず考えたものであった。。。。
いずれにしても、私が版画が楽しかったのは
いろいろな長い作業時間を経た後に
刷り上ったものが、まったくイメージと違うものが
生まれたり、最初の絵をイメージしてから具体的
作業に突入しその間の試行錯誤が物理的要因にかなり
制約されるのが新鮮であり、意外と絵画以上に自分と
向き合わなければならない時間の濃度に驚かされたこ
とが、、、、
小さい時分の版画という、、、
遠い記憶の筈のものがいつまでも近くに存在する
理由となったのである。。。
そんな私であるから
当然、COMBINEには版画作家さんという方々には居ていただ
いている。
その中の奥野さんとは
もうかれこれ3年近くの付き合いである。
最初に出会った日の事は、今でも覚えている。
版画協会の図録から当時事務局を担当されていた
方へ連絡し、その方の取次ぎにより、奥野さん本人と連絡
し会う事となった。
3年前の夏、暑い日であった。
待ち合わせ場所は東京の池袋、、
少し早めについた私は奥野さんを待っていたのであるが、、
携帯に連絡が入り
奥野さんは自らの風体を私に伝えてきたのでした。
和柄のアロハに云々・・・・
確かにありがたい事であり都会の雑踏の中でお互いが
すんなり会うには、お互いの特徴を前もって伝えて
おくのが賢明である・・・・が、、、、、、
目を細め遠くを眺めていると
”あっ!あの人や!”
と、、直感的に感じる人がいるのも又事実であり
私もそうなのだが・・・
関西風味が漂うというのか・・・・
作品の繊細さとは裏腹に、、、
奥野さんはそんな人であった・・・・
その日以来、奥野さんとは様々な話をしたし、一緒に
高松まで行ったこともあった。
COMBINEを始めるにあたり協力を求めた時も二つ返事で
快諾していただいた。
・・・・・・・・・・・・・
なぜ奥野さんだったか?
版画協会の図録には多数の作家が掲載されているが
この答えは直感でしかなかったのであるが、、、、
このブログの最初に書いた
収納と整理という版画独特の”凝縮感”にとても
惹きつけられたのであった。。。
エッチングという版のサイズに限界がある手法に対して、
版を分割しモンタージュする事によって作品を大型化する
アイデアも実物を見て感心した。
そして、、
もうひとつ付け加えるならば
画面上の黒と白の配分
バランスがとても良かった!
黒=墨
この色は日本人にとって
他の色とは比べ物にならないほどの雄弁さがあり、、
そのバランスは
他の何をおいても重要視しなくてはならない
箇所である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
作品内容は、
少し内容の組み立て方が硬いかな?
小説や詩を読むといよりも
漢詩を読み下すようよな硬質感があったのも事実
であったが、それよりも版画独特の彫刻的作業、
による多面的な内容展開とジオラマティックな奥行き
アイコンのように現れる”ポップな意匠”が
見る人に大きな入り口を与える所に観念的なもので
ガチガチに構成しないポップさが非常に面白かった・・し
一貫して”おんな”をテーマの軸として据え
ている部分など、、、凛とした作品の主体性が
私を強くひきつけて放さなかった。
そんな奥野さんの作品だが
今回展示しているのは
全て新作である。。。。

送られてきた作品を見たとき
アッ!と驚かされた。。

変わった!!!
これまでの漢詩を読み下すような硬質な構成から
なんともいえない
伸びやかな作風になっていた・・・・

登場する”おんな”もこれまでは
どこか”虚脱感”や”厭世的”な空虚な雰囲気を
漂わせていたのが、、、、、
なぜか今回の作品に登場する女性は
自意識をもった
ある意味艶かしさが出ており

それを取り巻く背景などは、これまでの作風から
すれば、簡略化したなぁ?と思われても仕方が
ないほどシンプルに構成されている。
しかし、、、それが実は
中心の女性の内容を際立たせることに大いに成功している
のであった・・・
かなり長い時間、電話でしかやり取りしていなく
会ったのも久しぶり、新作の実物を見たのも久しぶり
の私にとって、この劇的な変化は
嬉しいものとなった!!
そしてこの変化を奥野さんに聞かなくてはと、、、
「なにか、、心境の変化とかあったんですか?」
「へへ・・まぁ、、いろいろありますわ!」
奥野さんとは
多くを決して語りはしない
そんなアーティストです。。。。
私は版画好きである。
これについての根拠はハッキリとしている、
偏に、小さい時分、確か小学校の高学年だった
と思うが、その時に受けた版画の授業がことの
他楽しかった思い出があり、それが今も繋が
っているのである。
絵を描くことは比較的好きな子供であったから
図工と呼ばれる授業全般楽しかったのだが、取り分け
版画、木版画を始めてやった時の記憶は今も鮮明に
残っている。
絵を描くということは頭の中の想念を具体的に体を
使ってそのイメージに繋げていく作業であり、時として
イメージ通り、時としてイメージからかけ離れ、それが
良かったり悪かったりというような結果が待っている。
子供であるから特別な着地点を求めて描きだしている
訳ではないが、しかしながら高学年ともなれば、多少
色気づき、他人よりも対象物に対する模倣性を気にかける
ようになり、その精緻さがイコール絵が上手いか下手かの
バロメーターとして捉えるようになってくる。付け加えて
言うならばそれが他人との差であり優越感の度合いとな
る。
まぁこの段階で全ての純粋な感性は崩壊し”小さな大人”
と化すのであるが・・・
しかしこの時分に行った版画というものに絵画にはない
少し違うものを感じたのであった。
確かに絵画と同様の2次元の結果が残り、当然そこには
対象やイメージしたものとの再現性による上手下手と
いうものがあるのだが、なんというのかそこに至るまで
の制作プロセスがかなり違うなぁと感じたのであった。
絵を描くという行為は、なんとなくであるが、自分の中、
内側にあるものを如何に吐き出すかという事と、想念とする
ものとの距離を制御しもって作り上げるという感覚がある。
端的に言えば”吐き出す”というのか”放出”するというのか
動的であり運動的なのだが、、、、
版画というものの作業過程を感覚的捉えると、まったく逆
とまでは行かないが、かなり相違することに気づかされる。
吐き出す、放出するという感覚的なものに肉体的作業
スピードが著しく合致しないのである。端的に言えば
即時結果が現れてこない。
これは当然といえば当然なのだが、仮に下書きという
エスキースが存在したとしても、そこから版をつくり
刷りという作業を経て結果に至るわけであるから、絵の
ような即時結果のものとは感情のコントロール方法が
大きく違う。
ここが実は非常に面白い点であり、絵画が放出、吐き出し
の感覚的作業と考えれば、ある意味、版画は放出、吐き出しを
改めて仕舞い込む作業のようなところがあることを感じるの
である。
一度想念と化したものを、先ずは絵画と同じようなスタート
ラインに立ち取り掛かるのであるが、そこから突っ走る
絵画とは異なり、出来る限り放出、吐き出したものを、精緻
に整理し、ピースと化したのち上手くつなぎ合わせるような
作業を組み立てるのが版画のような気がするのである。
絵画が放出、吐き出しの作業とすれば版画は差し詰め
収納と整理の作業のように感じたのであった。
棟方志功のようにいきなり板に彫り出す作家もいるが、
それはある意味作業風景の画像としては絵画的であり、
本人も”板画”などと呼んでいるようであるが、実際、
本質的には絵画と同様ではなく、作業を一部分ショート
カットしているだけであり、熟練した技術がカットした
部分を埋めているだけであり、他の版画とそれほど大き
な違いがあるようには感じない。
やはり、内省的整理の行き届いた比較的動的スピード
の早い版画家、版画制作作業ということだと思う。
・・・・・・・・・・
もうひとつ版画について言うならば、実は描くという
行為とは程遠く、私などは立体制作に近い?のでは
と感じるくらい、言葉としては”作る”という方が
しっくりくる感じがするのである。当然感情のコントロール
と作業効率、実際に”彫る”という行為からの連想
でもあるが、それ以上に、かなり理性的に制御しなければ
到達し得ない結果から逆算する作業性はまさしく彫刻
に近いのかも?と人知れず考えたものであった。。。。
いずれにしても、私が版画が楽しかったのは
いろいろな長い作業時間を経た後に
刷り上ったものが、まったくイメージと違うものが
生まれたり、最初の絵をイメージしてから具体的
作業に突入しその間の試行錯誤が物理的要因にかなり
制約されるのが新鮮であり、意外と絵画以上に自分と
向き合わなければならない時間の濃度に驚かされたこ
とが、、、、
小さい時分の版画という、、、
遠い記憶の筈のものがいつまでも近くに存在する
理由となったのである。。。
そんな私であるから
当然、COMBINEには版画作家さんという方々には居ていただ
いている。
その中の奥野さんとは
もうかれこれ3年近くの付き合いである。
最初に出会った日の事は、今でも覚えている。
版画協会の図録から当時事務局を担当されていた
方へ連絡し、その方の取次ぎにより、奥野さん本人と連絡
し会う事となった。
3年前の夏、暑い日であった。
待ち合わせ場所は東京の池袋、、
少し早めについた私は奥野さんを待っていたのであるが、、
携帯に連絡が入り
奥野さんは自らの風体を私に伝えてきたのでした。
和柄のアロハに云々・・・・
確かにありがたい事であり都会の雑踏の中でお互いが
すんなり会うには、お互いの特徴を前もって伝えて
おくのが賢明である・・・・が、、、、、、
目を細め遠くを眺めていると
”あっ!あの人や!”
と、、直感的に感じる人がいるのも又事実であり
私もそうなのだが・・・
関西風味が漂うというのか・・・・
作品の繊細さとは裏腹に、、、
奥野さんはそんな人であった・・・・
その日以来、奥野さんとは様々な話をしたし、一緒に
高松まで行ったこともあった。
COMBINEを始めるにあたり協力を求めた時も二つ返事で
快諾していただいた。
・・・・・・・・・・・・・
なぜ奥野さんだったか?
版画協会の図録には多数の作家が掲載されているが
この答えは直感でしかなかったのであるが、、、、
このブログの最初に書いた
収納と整理という版画独特の”凝縮感”にとても
惹きつけられたのであった。。。
エッチングという版のサイズに限界がある手法に対して、
版を分割しモンタージュする事によって作品を大型化する
アイデアも実物を見て感心した。
そして、、
もうひとつ付け加えるならば
画面上の黒と白の配分
バランスがとても良かった!
黒=墨
この色は日本人にとって
他の色とは比べ物にならないほどの雄弁さがあり、、
そのバランスは
他の何をおいても重要視しなくてはならない
箇所である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
作品内容は、
少し内容の組み立て方が硬いかな?
小説や詩を読むといよりも
漢詩を読み下すようよな硬質感があったのも事実
であったが、それよりも版画独特の彫刻的作業、
による多面的な内容展開とジオラマティックな奥行き
アイコンのように現れる”ポップな意匠”が
見る人に大きな入り口を与える所に観念的なもので
ガチガチに構成しないポップさが非常に面白かった・・し
一貫して”おんな”をテーマの軸として据え
ている部分など、、、凛とした作品の主体性が
私を強くひきつけて放さなかった。
そんな奥野さんの作品だが
今回展示しているのは
全て新作である。。。。

送られてきた作品を見たとき
アッ!と驚かされた。。

変わった!!!
これまでの漢詩を読み下すような硬質な構成から
なんともいえない
伸びやかな作風になっていた・・・・

登場する”おんな”もこれまでは
どこか”虚脱感”や”厭世的”な空虚な雰囲気を
漂わせていたのが、、、、、
なぜか今回の作品に登場する女性は
自意識をもった
ある意味艶かしさが出ており

それを取り巻く背景などは、これまでの作風から
すれば、簡略化したなぁ?と思われても仕方が
ないほどシンプルに構成されている。
しかし、、、それが実は
中心の女性の内容を際立たせることに大いに成功している
のであった・・・
かなり長い時間、電話でしかやり取りしていなく
会ったのも久しぶり、新作の実物を見たのも久しぶり
の私にとって、この劇的な変化は
嬉しいものとなった!!
そしてこの変化を奥野さんに聞かなくてはと、、、
「なにか、、心境の変化とかあったんですか?」
「へへ・・まぁ、、いろいろありますわ!」
奥野さんとは
多くを決して語りはしない
そんなアーティストです。。。。
