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自己表出と支持表出
数日前、何気なく新聞のテレビ欄をみていて



NHK教育の吉本隆明の講演が目にとまった。



ETV特集、吉本隆明語る~沈黙から芸術まで~
昨年放映されたものの再放送なのだが、なんとなく
このタイトルに惹かれ見ることにした・・・



結論から言えば、実に面白かった。




もう老齢で、失礼だがともすれば言語が不明瞭な
部分も多々あったり、少し難解で分かりにくい部分
もあったのだが、全体には時間を忘れ引き込まれた。



正直、私は吉本隆明の著作を一冊も読んだことは
ない、よって彼の全体の仕事については全く知らない
と言ってもよい程度の知識しかない。そんな私でも
多少知っている事と言えば”知の巨人”という異名と
我々より10歳以上年上の方々にとってはカリスマ的
存在の”思想家”であるという事ぐらいだ・・・




しかしそのような先入観や足りない知識を前にしても
なんら気にならない程、私にとっては面白い講演だった。




番組は、吉本隆明が自らの思想の核心「芸術言語論」
を語った3時間の講演を記録、戦後60年以上かけて紡
いできたその思想の到達点を描く。というコンセプトのもと



吉本氏自らも



「僕の本なんか読んでいない人に、どうやったら分かっても
らえるかが勝負です。」



と語って居るとおり、いくつかのテーマに分かれて順に語った
のだが、その中の一つ、言語にとっての根幹の部分が私には
非常に面白く、乾いた砂が水を吸い込むような爽快な感
覚に浸れた。。




「自己表出と支持表出」




初めて聞く言葉であったが、この説明が非常に明瞭で
分かりやすかった。




一般に言語というものは様々な地域、国、コミュニティー
で時間と共に熟成され、文化として形成されてきたもの
であり、その役割の主たるモノとは”コミュニケーション”の
ツールであるということが概念化されていて、これが言語
というものを語るときの根幹であり、ここから出発すること
が言語の論理性としては妥当とされている。



しかし、吉本隆明の論理は先ず持ってこれから否定
するのである。


言語にとってのコミュニケーションというツール部分とは
あくまで枝葉末節でしかなく、全体の構造から言えば
僅かな部分でしかないというのである。言語というものを
巨木として想定した場合、コミュニケーションとして見える
部分は決して幹や根には当たらないという事なのである。。。



では、幹や根とは一体なんなのか?




沈黙であると喝破するのである。




沈黙では言語ではないではないか?と考えるのだが
そこがそもそも、言語というものを考えるときの間違いの
元になっている、、



ここで言語と呼ばれるものを冷静に解析すると、、



テレビの中では図解で説明が入り分かりやすかったのだが



例えば、美しい花を見たとする、


先ず人間はその時、心の中に美しいという言葉から
連想するものではない、見えない知識外の感情の昂ぶり
を覚える。



そしてその感情を自ら知っている言語に対して様々な
翻訳を開始する。当然知識豊かな人は言葉の数も
多いし、それを解釈する仕方の方法も多数持っている。


しかしながら、そうではない人でも芽生えた感情そのもの
が劣る訳でもなければ、量的に計れるものでもない。


ただ言葉に置き換える技術力に多少差があるという
程度でしかない。



ここで言語の二つの特質が生まれていることに気づく。



一つは心が感じている部分。
もう一つはそれを自らが習熟した文化によって言葉に
換えるという部分である。



実はこの二つの作業が言語と呼ばれるものには
元来存在し、元を辿れば、最初に個々が受ける
心の動き、これがすなわち言語の根幹に相当する
という論理である。



最初の作業が、自己表出
次の言葉につなげる作業が、支持表出である。



そう考えれば、なるほどと思う部分もある。




確かに先ほど、知識豊かな人はその変換技術に
長けていると書いたが、言葉そのものが違う場合
にはどうなのか?と考えられる。



英語、フランス語、ドイツ語、中国語、、、、、、、、




これは知っていれば或程度は使いこなせ、今のような
変換技術も取り入れられる事も可能だろう・・・・・



しかし、それ以外のマイナーな国の言語を考えた場合は
どうであろうか?言葉そのものがまったく通用しなければ
そもそもコミュニケーションなどは不可能なのではないか?



しかし、同じ花を見て感じるというこの心の部分に
人間的な断絶が存在するのか?と言えばそれは
違うのは誰でも理解できる。



故に、言語というものを考えた場合、我々はすぐに
コミュニケーションの最大ツールであり、それを遮断
することなく通用させるために、様々な便宜に応じ
習熟を果たそうとすることに最大の重きを置くが、実は
それは根本的な言語の意味からすれば順番としては
一番ではないという事が読み取れる。



では何が一番なのか?と考えれば、



やはり心の中に生まれる、言葉に変換される前の
人間がもつ情感そのものが言語の根幹なのでは
ないかという事に気づかされる・・・・



大事な事は、自己表出、この部分である。



私はこのCOMBINEというものを立ち上げた時から
今まで終始一貫して伝えていることは、優れた現代
美術であるとか、優れたコンテンポラリーとか、そういう
見た目の雰囲気の事ではない。



優れた”芸術表現”と言うことを軸に据えて考えてきた。



表現とは以前にも書いたが



表し現すという行為であり、



これがすなわち、自己表出と支持表出の作業を同時に
目に見える形で行うモノであることは今までの吉本隆明
の論理説明で多少理解していただけるのではないか?と
思っております。



表すということはすなわち絵を描いたり、形を作ったり
という事に相応するのですが、根幹的に大事なモノと
はやはり”現す”という事なのだと考えるのです。



この現すということの根幹は芸術家が今の時代を生き
そして過去を勉強し未来に思いを馳せるときに生まれる
我々凡夫には到底及びも着かない境地境涯であり、
この選ばれた芸術家の内面の中に生まれる優れた心の
動きを如何に他人に対して目に見える、もしくは同じように
芸術家自らの作品を介して見る人たちの自己表出を促
すか、、これが何よりも尊く、そして優れた行為なのか、それ
を伝えたいと私は常々身を焦がすような気持ちで思い仕事
をしているのです。



実はこの自己表出に国の違いや性差、貧富そんな境界は
存在しないのです。


誰もが与えらているものであり、それはコミュニケーションとして
流通している言葉なども軽々と跳躍していしまう力強さが
存在しているのです。



私はこれを日本から生まれた自己表出として出来れば
国内はもとより海の向こうの人達とも分かち合いたいと
いう気持ちが座右としてあります。



それぞれの文化の違いは感じ方、自己表出の多様な色彩を
生み出します、その時なにが優れてとか勝ち負けではなく、
その多様な中で、東洋の極東の他の文化圏にはない、独特の
感性を持って伝えると言うことは、今の時代に対してもの凄く
意味のあることなのじゃないか?と切に考えています。



決してアニメという表層的なものがそれを代表する
訳ではない思うのです。



西洋のもしくは経済のというような世界の軸を語るとき
様々なモノが持ち出されますが、根本は人間そのもの
にとってどうなのか?という基軸が大事であり、その時
世界が大事にする情報とは、この自己表出と呼ばれる
目に見えない感情なのではないか?と思うのです。




それが様々な決定や判断の舵を着る際必ず必要
となるように思うのです。全てが許容されること
は不可能である。しかしながら協調しある種の妥協
とともに最大公約数の領域を広げる作業は必ず必要
となる。その時の公約数はエゴであってはならない。




その時、日本の感受性を誰が一体伝えるのか?
この役割は、私は芸術家をおいて他には無いと
考えるのです。



政治家や経済界、軍事、どれもが到達しえない
国という仮装の枠組みの中で生き続けている
人間個人の感情を最大限に表出するのは、やはり
芸術だと思います。



日本を出来るだけ最短で語るとき
支持表出する場合・・・・



過去の時代の様々な政策を語るであろうか?
権力者を語るであろうか?



そんな事は決して無いのではないだろうか?それらは
日本という一面を表しているに過ぎず、全体を把握
するには到底至らない事であることは簡単に理解できる。



長谷川等伯の絵を見るとき
尾形光琳の絵を見るとき
利休の茶を考えるとき




これらの方が遙かに日本というものが理解できる領域
をもって居ることが分かり、日本人の中に存在する
自己表出という”沈黙”の部分が浮かび上がってくる。。。。。。




吉本隆明も講演の中で語っていましたが、




日本人の芸術の特徴とは




最高に集約し極限まで切り詰めることにより、ある一点の
伝えるべき事を最大に引っ張りだすという事だと説明して
いましたが、私も同感なのです。



芭蕉の俳句や利休の茶を考えたとき、それは明白に理解
出来るように感じます。




私は、これは日本人が自己表出により生み出したものを
日本人の独特な感受性によって支持表出し昇華した
一つの象徴的な特質だと考えています。




言語の本質的根幹は自己表出に現れる”沈黙”であり
この誰もが山積させている”沈黙”のなんたるかを、支持表出
として訴える技術者?というのが芸術家の根本であり、それは
この日本という国にとどめ置くことなく、他の国へも表出する
ことは、今の時代の必然であり使命のような気もするのです。





それをどのようにより大きくセッティングするのか?





それが私たちの仕事だと




吉本隆明の講演を見て




改めて勇気をもらったのでした。。。。

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