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壷中天
今から思うと、いろいろ悩みがあった。




その時々は真剣に悩み、自身の生活の
中でその悩みはかなり大きなウェート
を占めていた。




しかし、時間がたち思い返すと、、、





“なんであんな事くらいで悩んでいたんだろう?”
と思うことが多々ある。




自分が成長した?というよりも経験の差なの
かなとも考える。



もちろんどんな解決の形であったとしても、、、
とりあえずは経過したわけで、、そのようなことが
同じ悩みとして改めて降ってくる事はない。。。。




だからか少し余裕をもって客観的に考える事が出
きるのだろう。



しかし仕事の場合は少し違う。自分が経験した事を
後輩がもしくは部下がというように間接的に経験値を
分かち合わなければならない状況が生まれ、完全に
他人の経験というような距離を取れない状況が介在
する。



本質は一緒なのだが、環境がその時々によって違い、
本筋の解決策は同様なのだが枝葉の部分で躓く事も
ある。当たり前である本質は他人の解決を見る訳で、
新たな経験でもある・・・・






悩みは尽きる事がない、人間は喜怒哀楽という感情
を持ち合わせているがその全てに渡って悩みは存在
する。


悩みの背面に喜びが存在し、悩みと同居する怒り,
怒ってしまう悩み、悩み哀しみ、哀しみ悩み、悩みか
らの解放策としての楽しみ,,悩む楽しみが存在する。




学生時分は基本的にはバーチャルな世界観で議論をする。




いわゆるシミレーションである。同じ悩みに対しても、
ネガティブな捉え方をするもの、ポジティブに向かう
もの、と両極存在するが意外とネガティブそれも厭世的
な考えが出てくることが多かった。




私の学生時分の世相はバブル真っ最中だった。




どこか享楽的なにおいが現実世界に漂い、労せずして
豊満な世界が約束されているような錯覚があった。
そのせいなのか楽観的で無責任な厭世観があったのは
事実です。





あるとき後輩と話をしているとき、テーマとして宇宙
の話がでた。




宇宙という言葉は知っているが、では実態としての
宇宙というと説明がつかない。



大体規模がわからないし、“果て”エンド“終わり”
があるのか無いのかが解らない。




地球にても昔は水平線の向こうは滝になっていると
いう論理が基本であったように、現在一般の我々から
すると宇宙の果てについての観念は水平線の向こうは
滝という論理と同様である。





そんな事を科学としてではなく哲学的論理で考えると
ものすごく深みにはまってしまう。




地球創生からの時間のなかで我々の人生は、時計に
例えると1秒にも満たないという話がよくあるが、
ものすごい虚無感を感じてしまう。




人に言わすとだから人間の存在はちっぽけで、その
人間の悩みなんか鼻くそほどの価値もないという、
相対性のかけらもない比較にて論理を展開する。




しかし私はかえってその話は虚無感と虚脱感を感じてしまう。




私が宇宙の実態の無い大きさに悩み虚脱感を感じていると
後輩は、、、、




「先輩!仮に宇宙の果てが数値として先輩に理解出来たとし
ましょう」




「その宇宙の範囲が実は水槽なんです!」




「?????」




「実はガリバーみたいな大きな人間がその水槽をインテリア
として家に飾ってるんですよ、、。。
そして地球やいろいろの星を栽培というのか飼育というのか、
とにかく鑑賞してるんですよ!なんか壮大でしょ!へっへっ」





「その上にまだ大きなガリバーみたいなやつが。。。。。」





。。。。。。。。。。。。。。








芸術家、、いや全ての仕事の世界観は




壺のように小さな入口のようだが





とんでもなく





奥行きがあり




広大無辺でなくてはならない・・





そんな事への、、憧れが止む事が無い・・・




自分の壷中天を




早く具体的として






持たなければ・・

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