RECENT POSTS
懐に出面ある夜のちんちろりん
昨日、京都新聞の夕刊を見ていて



おもしろい論評に出くわした。



こういう言い方をすると大変失礼だが、
私の個人的感想としては、決して読み
やすい流麗なものではなく、どちらか
と言うと、大きくガクッガクッとする
ような、ともすれば”ウン?”と何度も
読み返すような・・・・



しかし、ハッとさせられた。。



その理由は、角度が面白かった?
いや正確に言うと鋭かったのである。



その論評が対象としたのは、一つの俳句
であった。



「懐に出面ある夜のちんちろりん」



出面(でずら)とは建築現場などの労働者
に支払われる日当のことらしい。



そして”ちんちろりん”だが、、、



普通俳句で考えば季語というものに当たる
ものが内包されていなければならない、


文章から考えればこの”ちんちろりん”が
季語であり、鈴虫=秋であると即時判断で
きる。


労働者が僅かな労賃を懐に鈴虫の音色
を聞いているという・・すこし寂寥感
ある句という印象がこの句の持つ味わい
となる。


それを論評したのか?となるが、実は
そうではない。。



この”ちんちろりん”とはもう一つの
枝が伸びているのである。



"ちんちろりん”とはサイコロ賭博という
意味が、実は出面との関係で読み解ける
部分が存在するのである。



そうなると、これは季語ではなくなり
俳句ではなく唯の詩となる・・・・



この詩の意味の解釈とは、僅かな労賃を元手
にサイコロ賭博に興じる境涯を、ある意味た
くましく、またある意味刹那的に、表現して
なくもない・・・



先の解釈との間に感覚的に微妙な違いが生
まれる。



夜の情景が変わる。



一人鈴虫の音色に耳を傾ける人間と




”ちんちろりん”に大勢の労務者と興じ
ながらも、一人自分を客観的に見ている
風景と・・・




詩と句という境界がこの解釈を面白く
しているのだが、ここで詩と句の境界
を取り払い、この二つの解釈を合体
させたならどうなのだろうか?




実はさほど違和感を感じるほどの事は
なく、両方の意味から、実は労働者という
主体、人間性と社会との関係が如実に浮か
び上がるのに気づく・・



さて、、



ここで答えのようなものを出すのだが、



この句者が誰かと言えば




東アジア反日武装戦線のメンバーで、
“狼”部隊のリーダー格。


お召し列車爆破未遂事件(虹作戦)及び
三菱重工爆破を含む9件の「連続企業爆
破事件」を起こし、三十年の独居房生活
、死刑判決が確定している獄中の俳人。



これを聞けば



「懐に出面ある夜のちんちろりん」



という句か詩か分からないが




この文章は



もっと違う意味が浮かび上がってくる。
この文章の必然性というのか?



この人物でなければというものが・・・



この文章は悔恨なのか、虚無なのか?それ
は分からないが、間違いなく、そんな時代
や価値が変化してしまった社会、歴史を感
じざるを得ない・・・し、何かの断片、欠片
としての残像のように見える・・



なんとなくではあるが



芸術、芸術作品とは



もっと言えば、現代美術などという
モノは・・・・・・



実はこのような構造




全てとは言わないが



こういう構造を結果論として表現するのではなく、
誰も気づかない未来を形にしてこそ成立している
のではないのか?という事に改めて気づかされた
のであった。。

▲TOP