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八木くんとの出会い
八木くんと出逢ったのは今から4年前、彼が19歳の時だった。


きっかけは彼が母校の主催する学生オークションに出品して
いた事から縁が出来た。


ある人を介してBAMI galleryにやってきた彼、その時、何を
喋ったのかは細かく覚えていないが、私の率直な印象は・・・・


「なんと生意気な奴」


と言う事であった、、、、


私が最初に見た彼の作品は



午前二時四十七分 遠巻く光



午前二時十一分 遠巻く光


作品を描くために写真を多用している事がすぐに分かった
のでその事からくる利点と問題箇所をかなり細かく指摘した
のだが、真っ向から反論してくる姿には他の若者にはない
自分の作品に対しての自信を感じはしたが、、、同時に、、
生意気な印象も強く持った。


ただ、、、彼が語る深夜二時の街の風景に対しての思い
、、この事だけは、その当時と今も全く変わっていない事
は鮮明に覚えている。


その後、なぜ彼が私の周りに居るのか実は記憶にない。。。


おそらくたまに覗きに来ては色々な話をしていた??
のだろう。。。。


当然記憶にないから何を喋ったのかすら覚えていない。。


暫くして、多分最初の出会いから一年後だったと思うが
彼が豊橋トリエンナーレ星野眞吾賞展 入選・審査員推奨
を貰いましたと報告しに来てくれたのを覚えている。


それまでもチョクチョク画像ではあるが彼の作品を見ては
いた。


確かに上手い、年齢からすれば抜きん出たものを感じていた。

しかし今ひとつ何か食指が動かないものも感じた。


彼の豊橋トリエンナーレ星野眞吾賞展の作品を見た瞬間も
以前指摘した違和感を完全に拭えたものではなかったが、、


何か以前とは違う強い主体性がほんの少しの引っかかりを
生んだ。


敢えて偉そうに言えば、、この子の画力があれば入選は
ある程度予想はできる。それ以上は当然コンペに合う合
わないはあるだろうが、、、

しかし普通に考えれば順当だろうなと感じていた。。。。
だから入選・審査員推奨というのは特段驚きもし
なかったが、、、


うん?ひょっとして、、


何かテーマを与えもう少し数を描かせたら?
何か出てくるかも?という独特の期待感、
その匂いを感じたのである。


そこで当時、私が若者の出口兼実験場として利用していた
高松天満屋のアートギャラリーにての特集を企画した。


今だから言えるが、この高松天満屋のアートギャラリーに
新しい作家、特に若い作家を入れるとき、スタッフであっ
た青野女史と現場で調べていた事があった。


それは二つの事象である。


一つは、最初の一点の売約までのスピード
もう一つは単価である。


実は、一週間以内に反応がある場合は芽がある。
それよりも早い場合はかなりのモノが期待できる。


大抵、百貨店は一週間単位で催事が進行するが、
この場合の一週間は別の意味がある。ごく限られた
お客様への告知以外はせず、ほぼプロパー(店頭)にて
お買い周りのお客様にぶつける。


つまりLIVEだ!


その期間は大体3週間。長年やっていて掴んだサイクル
である。


そういう意味では乱暴であるが


その人間の持つ”星”も見る。

作品がどういうストーリーを産み出すか?


つまり出会いである。


高松天満屋という場所はそういうレスポンスが効いた
場所であった。当然、それは継続して若い作家を紹介する
ことにより生まれた環境であり、それをスタッフの青野女史
が丁寧にフォローし続けていたからでもある。



結論から言えば、八木君はどちらも合格であった、、、
と言うよりもこちらの予想を遥かに超えた。



青野女史から毎日届く接客報告を聞いていても、彼の作品
には独特の吸引力があることが分かった。


確かに合格である。。。が、、、まだ少し気になる部分も
あったが、、、、


その後ある作品を目にした時、、


ハッ!とさせられた・・・・


この子はひょっとして、、、




午前二時四十六分


この自動販売機の作品を見たのが、、実は今の私の行動の
きっかけとなる。


この子は並じゃない・・・

これは画力、描写力という技術面からの関心事ではない・・
中に秘めているものと、、ある種偏向的な鋭い視点だ。。。


彼が”夜が明るすぎる”と集約して語る、、つまり必要の
無い電力を湯水のごとく使い続ける現代の深夜二時・・・
こう象徴的に語ったのを初めて聞いたのは


3.11より以前であり、、


彼がそのことに囚われたのはもっと以前である
。。。。


これまでにないモノが生まれる??



**********


その後一年は何もしなかった。彼も大学学部卒業と言う事
もあり、卒業制作の大作をかなりの時間をかけて描いていた
事もあった。





この卒業制作、約5Mの大作だが、めでたく
京都造形芸術大学卒業制作展 学長賞 
佐川美術館栗和田榮一賞受賞



そして佐藤国際文化育英財団 第22期奨学生の選抜された、、



2013年、、、

再度企画を練った。

一年で2回同じ百貨店で個展を敢行しよう!

春先に前回同様の実験場である高松天満屋アートギャラリー
にて


そしてその年の最年末に画廊にて!

当然この二つのハードルは制作点数と発表単価の上昇
を課題とした。


これは正直私の仕事としての思惑であり、つまり今後を
見据えてであった。


結果は、そのどちらもこちらの予想を上回る結果を残す。


そしてこれまでの購買客層とは全く違うお客様を吸引した
その状況はこちらを驚かせた。。。。


それから10ヶ月後の現在


満を持して向かえる


新たな試練として頂いた松坂屋名古屋店での挑戦!





恐ろしいスピードで猛進する彼と彼の作品


是非見ていただきたいと切に願います。。。



■八木佑介 日本画展

・2014/10/15(水)-21(火)
・10:00-19:30(最終日は16時)
・松坂屋名古屋店 南館 6階 第3画廊


〒460-8430
名古屋市中区栄三丁目16番1号
電話:052-251-1111


電車でお越しの場合

地下鉄名城線矢場町駅 地下通路直結(5・6番出口) /
地下鉄栄駅 16番出口より南へ徒歩5分

お車でお越しの場合

名古屋高速 白川出口、東新町出口、東別院から
お越しいただくと便利です。





▲TOP
八木佑介 日本画展 10/15~@松坂屋名古屋店
このブログにて


かなり以前・・・・・


釜君の松坂屋名古屋店終了時にお伝えいたしましたが


いよいよ来月・10/15(水)より

八木君の個展を松坂屋名古屋店様で開催させていただきます。





弱冠23歳

現在、京都造形芸術大学の院2年の現役大学生


正確な記録はないですが、おそらく最年少の個展開催
ではないかと感じております。



5月、釜君の松坂屋名古屋店での個展最終日に
関係者への挨拶及びスペースのチェックに来てくれた
日から約5ヶ月、その間、彼とはかなりの頻度で打ち合
わせし制作の進捗報告と相談を受けてきましたが、
それも現在最後の作品制作の追い込み状態です。



今回は全て新作20点弱にて臨む予定です。





午前二時二十分 S6 麻紙、岩絵具、顔料




午前二時二十八分 M8 麻紙、岩絵具、顔料




午前二時二十六分 S8  麻紙、岩絵具、顔料


上記掲載作品は今展の一端です。


以下は彼のステートメントです。


--------------------

深夜二時、無人の街はただ光に照らされながら佇んでいます。

私はそこで溢れかえる光と対面し、夜が明るいという事を改
めて感じます。

巨大な都市の風景の中に、まばゆく映し出された時代の姿を
描いています。

-------------------



八木君も私も全日在廊の予定です!!




■八木佑介 日本画展

・2014/10/15(水)-21(火)
・10:00-19:30(最終日は16時)
・松坂屋名古屋店 南館 6階 第3画廊


〒460-8430
名古屋市中区栄三丁目16番1号
電話:052-251-1111


■電車でお越しの場合
地下鉄名城線矢場町駅 
地下通路直結(5・6番出口) / 地下鉄栄駅
 16番出口より南へ徒歩5分

■お車でお越しの場合
名古屋高速 白川出口、東新町出口、
東別院からお越しいただくと便利です。


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プレスリリース


COMBINE 八木佑介 日本画展 松坂屋名古屋店 2014.10.15―21プレスリリース by COMBINE


▲TOP
エモーション
エモーションという言葉がある。


特にこれまで意識してこなかったが、ここ最近、、


否、ここ数年という方が正確かもしれない。


調べると、


心身の動揺を伴うような強い感情,感激,感動。

喜怒哀楽の感情。

理性・意志に対して感情,情緒。



大まかに把握すれば、感情であり情緒であると理解できる。


但し、基本言葉としての区分は名詞であり、用法によって
不可算名詞であり可算名詞、つまり複数と成り得ない状況
と複数と成り得る一般的な通念化としても存在する・・・・


大体この感情や情緒というものを如何程理解しているか?
自らに問えば、かなり大きな疑問を感じる。


又、その人間が持つといわれているこの要素のメカニズム等
も実のところ良くわかっていない。


解っていないから問題か?と言えば日常生活で困る事もない。



しかし個人と言う殻の中ではそうかもしれないが、
他者という関係がある社会ではどうなのか?と考えれば、
相手を観る場合、正確には相手と自分が成立する環境に
おいては、大半はこの感情や情緒と言うものを一番に気
にしてはいないか?


ある意味それは立場によって大きく変わるが、特定個人
から不特定多数の組織、果ては観念的な社会という対象
にまでに、、


常に縦横無尽にアンテナを蔓延らしているようにも感じる。



そう考えれば、我々が生業としているものとは?この感情
と言うメカニズムをどう捉えているのか?と大きな不思議
が私の中にはある。



日常生活では困らないと先述している、しかし社会という
関係性においてはかなり支配的に拘束されるとも先述した。


このように大別したものと私が大きな不思議を感じると述
べる我々の生業において一番相違する点は何か?と考えれ
ば、我々は作品という自分と他者において客観的媒体もし
くは感情を左右させると言う意味においては触媒と呼べな
くもないものをその狭間に存在させ感情と向き合う事を
生業としている。



再度、エモーションという言葉を調べる。



これは明らかに英語であり訳語としては感情と通念化して
いるが、よくよく調べればかなりいい加減な纏め方である
とも感じる。



英語においては同様の内容を示す単語が他にも存在する。


日本語でそれを直裁に定義する語もない。



違いは、解らない。あくまで人間の持つメカニズムの大枠
という程度である。


しかしある一つの出口がある。心理学においては



“情動”。。。



ここで心理学の云々を述べるつもりはないが、再び情動
という言葉を調べる。



Wiki転載


------------------------



本来の日本語の意味としては、比較的短期の感情の動きの
ことである。

個体・個人を動機づけるものとしての英語affectの訳語と
しての「情動」は様々な議論を呼んでいる。


また専門用語として学問間で意味が異なる場合がある。


英語affectの訳語として選択された「情動」は、元来の
日本語の用法とは異なっている。


主に「興奮」が中心的であるが、「不安」「快不快」も
情動として扱える。


一般的な「怒り」「喜び」「悲しみ」を情動とするか、
感情とするかは、心理学、脳科学、医学、認知科学の
研究者の立場により異なる。



----------------



.wikipediaを正確なものと定義はしないが、ただ上記文章
から一つの事が解る。



情動と感情は相違する。



再度、Wiki転載



-------------------


人間の感情はその脳の発展した構造からきわめて複雑化
しており、簡単に区別・分類できるものではないが、
基本的には食欲や性欲など本能的な欲求にかかわる感情と、
人間が独特にもっている尊敬や慈しみなどの感情に大別す
ることができる。


情動とは医学や脳科学の専門用語として前者の感情を指し、
人間的な感情とは区別して考えられている。



-------------------



このことより解るのは感情という人間独特のメカニズムの
中に本能的な欲求をベースとする情動が存在する。


つまり全ては感情と言う枠内ではあるが特別な囲みとして
存在する情動というコアなメカニズムが存在するという事
が解る。



つまりエモーションとは、


個体・個人において比較的短期の感情の動きであり、食欲
や性欲など本能的な欲求にかかわる感情となる。



問題は、この差異を日常の言葉では分けられないという事
があることに気付く。



一般に、6種類の代表的な感情として、


1. 喜
2. 怒
3. 哀
4. 楽
5. 愛
6. 憎



と言うのがあるが、先ほど来より示している情動も
説明においてはこれら単語の意味を含む。


逆説的には日常生活においては言葉からの差異は作り
出せない。



私はこの感情と情動の差において考えた場合、先ず
時間軸が相違するという点から、本能に依拠する
度合いの差を一番感じる。



人間が独特にもっている尊敬や慈しみとは違う存在
としての情動=エモーションというものを考えれば、
尊敬や慈しみは本能との依拠度合いが格段に違う。



つまり情動とは人間が生物として持たされたもっとも
人間という種類の生物らいしいメカニズムではないか?
と考える。


では尊敬や慈しみは人間らいしいメカニズムではないのか?
となるが、これは相対化した人間の歴史によって積み重ね
たものであり人間の常軌をコントロールするものであり、
言葉を初めとする共通認識を保つ為に偽善とまでは言わな
いが人間が作り出したメカニズムのような気がするのである。



情動が比較的短期の感情の動きと定義しそれに対して総体
として理解する感情を長期的感情の動きと強引に定義すれば、
そこには人間の持つ知識や、それらからの認識による判断が
左右し、そこには相対的な平均を見出すという人間の歴史的
過程がにじみ出てくるようにも思うのである。



これは独善的な私なりの見方でしかないが



嬉しいや悲しいという感情の芯を本当に感じることは稀であり



そういう状況だからという装置が案外人間には備わっている。



つまりこれは他者に対して自らの状況を説明するための
メカニズムの匂いが案外強いのではないか?と感じるの
である。



確かに一人で泣く、喜ぶと言うのがあり、他者に対して
説明していない事も多々あるが、、、、



これは、自分への独り言から派生するもの


つまり、自分が自分に語りかけるという側面ではないか?
と私は思うのである。


少し抽象的だが、



「自分と言う自分の関係者。」



我々は始終喋り続けている。



他者と会話しない、一人っきりの状況でも


我々は「自分と言う自分の関係者。」に語り続けている。



これは残念ながら情動ではない。



さて、、、



我々が生業としているものとは?この感情と言う
メカニズムをどう捉えているのか?と大きな不思議が
私の中にはある。



という最初の疑問だが、



我々が考える作品を触媒とした世界において、果たして
これまで説明してきたものに対して、我々はどの部分と
向き合うのか?



我々は常に“感動”という事を“お経”のように言った
り言われたりするが、、



もっともつまらない表現は



“癒し”


“上手下手”だが、、、



これが果たして???



私は実は、芸術とはこの感情総体の中に存在する
“情動”という部分が一番肝要な箇所だと?常々
考えている。



この情動のやりとりが即ち“3秒の法則”にかなり
重要な要素として感じるのである。



3秒の法則とは、私が呼んでいるだけの事だが、
作品は3秒で判断される。



この3秒とはまさしく“情動”に他ならない。



つまり作り手の中にある情動と感じ手側の情動が
共鳴するのに長い時間は必要ない。



又、この情動を如何に作り出すのか?



このプロフェッショナルが“芸術家”だと私は考える。



じゃ、、、



この情動はどこにあるのか?



なにがそうなのか?



言葉では決して説明できない



そういうことだけは解る


・・・・・・・・・・・・

▲TOP
ルサンチマン
最近、物忘れが激しい、、物覚えも悪い、、、、


が、、、


たまにフラッシュバックのように、、


単語が“ポッ!”と頭に浮かぶ、、



はて、、なぜこの単語が、、意味が解らない・・・



しかし頭の片隅に引っかかっていたものが何かの拍子
に引き出しから出る。。



今は便利だ、すぐにNETで調べられる、、あーそうか。


だが、いつどこで得たものなのか?意味を忘れていると
いう事は、音や文字が記号としてだけ頭の中にあるとい
う事だ。



昔、大学時代に寺山修司の“さらば箱舟”という映画を
劇場で観た。


その一場面の中で登場人物がモノの名前を忘れていくと
いう状況があった。。



映画では狂気の兆しとして描かれているのだが、、



その人物が取った行動が面白かった。



モノの名前を忘れるのであるならば、、



モノに名前の書いた張り紙を付けようとする。






しかし天井のどこかから声が聞こえてくる



「文字を忘れたらどうするの?」・・・


あぁぁぁぁぁぁ!と、、


ある種の煉獄的状況に堕ちて行く。。。


先日もハッと頭の中に単語が、、


「ルサンチマン」???なんだ、なんだったか?
ロシアの部隊の名前か??NETという


電脳の泉へ直行=同期?!






Wikiより

主に弱者が強者に対して、憤り・怨恨・憎悪・非難の
感情を持つことを言う。


ふむふむ。。。


更に読み進むと、、



社会的に強者であれば、嫉妬や反感といった感情に主体的
に行動することができるため、フラストレーションを克服
することができ、そのため、仮にルサンチマンの状態に陥
ったとしても、一時的なものでしかないとされる。




反対に社会的な弱者はルサンチマンから逃れられない。
フラストレーションをむしろ肯定し、何もできないこと
を正当化するようになる。

社会的な価値観を否定したり、反転した解釈を行うよう
になる。こういった自分の陥っている状態を正当化しよ
うとする願望こそ、奴隷精神の最大の特徴であるとする。




こうしたルサンチマンの表れの例として、敵を想定し、
その対比として自己の正当性を主張するイデオロギーに
ある。

こういったイデオロギーは、敵が悪の元凶とし、だから
反対に自分は道徳的に優れていると主張する。
「彼らは悪人だ、従ってわれわれは善人だ」ということ
になる。



敵として想定される存在は、自分が無力だと感じさせる
対象が選ばれる。例えば、貧しさに無力を感じるルサン
チマンの敵は資本家や大企業となる。



さらに、そのルサンチマンの敵が拡大すると、対象が社会
全体になる。「世界はどうしようもなく悪によって支配さ
れている。


したがってわれわれのほうが世界より優れている」と拡大
解釈されるようにもなる。



このような状況に至ると人は陰謀論や急進主義、刹那主義
を受け入れ易い心理に陥る。また、人によってはそうした
不満以上に「この世界では(自分は)報われない」という
厭世観や自己の無力感を持つようになり、放蕩や自殺に至
る場合もある。



はぁ・・・なるほど、、、



一つの単語にこれほどの意味があるのか?と思う反面、、


この手の輩はいるなぁ~とも納得、、、まぁ“SNS”など
はルサンチマンで溢れかえっている不健康な場所だなどと
も改めて感じてくる。。。又、、


ルサンチマンという一つの単語で押さえ込めば、、なんと
わなしに可愛くも感じられ、、


狂気・凶器感覚も低減する。。


大体説明を読んでいても、、



フェーズもあるだろうし、、角度もあり、多様である。


さしずめ、、敵などというカウンターの存在が既に、
あいつはそうだと思うならば、思われた相手も同じ
感覚を持つ。



つまり極論だが、、全てが双方向性で、、全てがそうだ
という事になるような気もする。。。



なんだかなぁ・・・である。



・・・・・・・・・



今日ルサンチマンする?


ルサンチマンでも食べるか?



まったく知識がなければ、、



あの人はルサンチマンだ!などと言えば、、



なんか偉い人のようにも思える。。


という間違った用法でもさして違和感がない・・・



しかしながらなんでフラッシュバックのようにこの
単語が突如浮かんだのか、、不思議である。


間違いなく今までのどこかで一度は頭の中に入って来
たのだが、、内容が蒸発して、言葉という容器だけが
残っていたのだ・・・・



そんな事を考えていると、、なぜか今度はある視覚的な
イメージが頭を過ぎる、、、








ウォルフガング ・ライプ WAX ROOM


1950年、西ドイツのメッチンゲンに生まれる。


1968年デュービンゲン大学に入学し医学を学ぶ。


1974年医学では人間の生や死、精神の問題を解決出来
ないとして、芸術に身を転じる。



面白い経歴だ。



この人の作品は11年前に香川県の丸亀にある
猪熊弦一郎現代美術館で現代書家の先生と一緒に観た。



その時はよく解らなかったが、時がたつにつれて感覚的
に沁みこんでくるようなものを感じるようになった。



日常の近くから遊離するような、そうして溶解していく
ような光を感じ、、シームレスな安息と、、


ある種の虚脱。


なるほど、、経歴からの独特な作品に対しての強度ある
極度な客観性が純度を上げていると感じた。


ルサンチマンとライプ


どうでも良い個人的な亡羊とした漂白感覚なのだが、、、


二つには、何か串の刺さったものを感じた



ある日のある時点であった。。。

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Lotus
蓮が好きだ。我が田舎には小さな蓮畑が色々とある。










散歩に出るとかなり長い時間、蓮を眺めている。何が惹きつ
けるのだろうか?とにかく飽きない。。。。








ロータス創業者のコーリン・チャップマンは仏教思想で、
「俗世の苦しみから解放されて夢がかなう実」とされる
蓮にちなんで名付けたらしい。





泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が
仏の智慧や慈悲の象徴、、、








泥から生え気高く咲く花、まっすぐに大きく広がり
水を弾く凛とした葉の姿が、俗世の欲にまみれず
清らかに生きる象徴。。。





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