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作家との会話
唐突だが



会話をするとき


ある場面において”グッ”と緊張する時が



私にはある。年を重ねるごとに段々と図々しく
なり、緊張の瞬間も減っているのが現状なのだが



こんな私でも細心に言葉を選び、足りない脳漿を
絞り出す瞬間がある・・・



それは作家と作品の事を会話する場面なのだが
一般的な”論理”ではなく、その作家が制作に
関することに触れる瞬間だ。。



作家は様々な”フェーズ(段階)”にその身を
置きながら制作に励んでいるのだが、コンセプト
が決まり、もしくは頑健なコンセプトを堅持して
いる場合は、冷静に話を聞き”応援”するという
立場において会話を成立させるのだが、それ以外・・


次のフェーズに向かおうとしている、、、これは
言葉が的確さを欠いているかもしれないが、、、、


ある意味作家の長い制作活動において過去を振り返った
場合、その瞬間が”谷底”のような場所に身を
置いている、そんな風景が読み取れた場合、こんな
鈍感な私でも少し言葉を選び会話には緊張してしまう。



基本的な私の作家との接し方は


何も言わないというスタンスである。




技術的なことは当然であるし、コンセプトに関しても
言うことは皆無といっていいと思う。それが私の
考え方である。



会話の基本は社会・政治・歴史・経済、、、こういった
ものにできるだけウェートを置きたいと心がけている・・
その方が、私として与えられるものが多いと確信している。



あえてお互いの接点について苦言を呈するとするならば、
流通に関する事であり、基本、制作を生業と成していな
い者達の脆弱な楽観的なる想像と、”掟””商道徳”
というべき、我々の領域に関するものについては口うる
さく言うべきであるとは思っているが、、、、



彼らが生息している領域に踏み込むことは
余程の事がない限り、近寄ろうとは思わない。



思う事は正直”多々ある”。
何度か口をつくような感覚を抑えた事も
否定はしない。


しかし、私はいつも黙ることにしている・・



それによってどのような反応が生まれるのか
正直分からない、、、、、言えば良いのか?



だからと言って我々の放つ言葉によって本質が進捗
するというような”稚拙な”変化によって変貌を遂げた
などという方が元来オカシイと私は考えているのと同時に
その程度の紆余曲折の中に身を置き悩んでいる程度では



どうなのか?とその本質すら疑ってしまう・・・



それよりも我々の仕事の本質は、彼らが得られない環境
の提示であり、その環境から受ける刺激を如何に与える
かの方がずっと大事であると思う。


その最大はやはり、バーチャルではなく実存としての
作品を多くの人に見せる、、、



これに尽きると思う。



私は何度もこのブログで書いてきたが、現代美術や
コンテンポラリーアートという総枠を商売の対象
としているわけではない。あくまで比類なき個人の
制作による”表現を”商売の対象としている。



現代美術やコンテンポラリーという言葉は説明上
の便宜としては使用する事はあるが、私個人の
考えを表出する場合にはそういったある種の
”ボタン”や”アイコン”を使用しようと思った
事はない。



そう考えたとき、多くの人に見せるという、この
概念の基本は、何者にも束縛されず制約されない
この時代に生きるものの表現を指しているのであり
現代美術の○○クンの絵画を・・・などと言うよう
な事は一切ない。



例えそれがサブカルチャー的であろうが、メインカル
チャーのエッセンスであろうが、アカアデミックであ
ろうがなんら関係ない。。



もっと言えば文学でも良い、音楽でも良い、舞踏でも
ファッションでも、webデザインでも、、、、、



表現という領域に限界はない。



我々がなにをもって選択したか、それが大事であると
同時に、大勢を前にしてその表現の強度が保つかどうか?



それが何よりも大事なのであり、
ある意味我々はそれを判断する、
もしくは”待つ””探す””試す”という
事なのだ・・・と考えている。。。



が、先に述べたように何らかのフェーズに進む、
その瞬間に立ち会う事も避けられない事情としてあり、
その事を論点に話し合うこともある。。。



この場面・・・



これには瞬時に”グッ”と緊張感が高まる。。



先日そんな瞬間を偶然にも、、久しぶりに迎えた・・



先日の”タムラエビス”の新年会に雨森君が久々に
ギャラリーを訪ねてくれた。


昨年末に電話をくれて伺いたいという事を聞いたが
間の悪い事に私は年末まで出張であり、その機会を
逸したのだが、明けて新年に改めて足を運んでくれた
のである。


昨年末もギャラリーに来るには来てくれたのだが
東京で個展をしたときの新作の画像と現在
取りかかっている小作品の画像を置いて帰った
のだった。


そして今回、、
昨年の東京での個展の報告と、今制作している小作品
、、の感想を聞きにわざわざ足を運んでくれた。。



実は新作画像はそれまでに見ていた。


正直な感想は、彼には悪いが


あまり”前に出てくるものがない”という私の判断
があった。


良くは出来ている、シャープでありクールでもある。
しかし少し前にギャラリー島田さんで賞をもらった
小作品に比べると、何かが足りないような気がして
ならなった・・・


何よりも何か予定調和的な安定感があり、作品から
受けるモノよりも、制作過程ばかりが頭の想像として
浮き立つ、、、そのような感覚ばかりが支配したので
あった。



その事を正直に彼に伝えた。



すると、彼もある種の同意見をもっており



その同意を根拠づけるかのように現在取りかかっている
新作をカバンから取り出し、どうしたいかという事を
説明しだした。。。



その作品は無骨であるが、彼らしいモノに私は感じた。



彼と最初に出会ったとき、そのポートフォリオを見て
感心した。



若いが木工という技術部分においてはかなり高い次元
を有しており何の問題もないように感じたが、少し気
になる部分があったのも確かであった。



それは、技術ばかりが評価の対象にならないか?
これでは?と感じた。技術先行であるならばそれは芸術
表現といよりも職人の技術力ということであり、、これ
では伝えるものの前に皆まず技術部分でその感情が堰き
とめられてしまわないか?と感じたのであった。逆に言
えばそれほど木工の技術が優れていたという証左なのだ
が・・・



その事を正直に指摘したとき、彼も率直に認めた。



だから今こんな事を考えています、、と新作のコンセプトを
説明してくれた。



何も加工しない、無意識化で切る組む刺す、という基本の
ごくシンプルな作業に限定し造形物を作ろうという事で
あった。。



なるほどぉ~へぇ~



と、正直驚いた。これはある意味、勇気のいる行動だ、
今まで築き上げてきたものを一度瓦解させてゼロから
取り組む作業である。言葉にすると簡単であるが、
実際にはかなり勇気がいるのと、今までの自分という
形あるものに対する戦いであり、案外苦戦が予想され
る。ましてや絵画とは違い木工は時間的な拘束が長い
それから考えても、過去の自分と離反する作業はかなり
苦痛が伴うことは”素人”の私にも簡単に想像できた。



このとき私は、特になにも言わなかった・・


それから一年半


昨年の個展はある意味彼の新コンセプトの一つの
区切りであったのだ。



確かに、それまでの技術先行の作品からすれば
格段の変化と表現部分への表出は成功している
が、表現という肝心な部分への到達感が少し
希薄、、いや正直、辿りつかないような気がした
のであった・・



その事を伝え、先ほど言ったカバンから取り出した
作品へと話は移行したのである・・・




さすがに私がいちいち指摘するまでもなく、彼も
充分感じていて、カバンから出てきた作品は先にも
述べたが、武骨ではあるが、間違いなく表現という
ものの顔が僅かではあるが顔を覗かしていた・・



この日の話は



表現ということに執着した・・・



仕事の上で何気なくよく使う言葉ではあったが
こんな瞬間のこの言葉は私の頭と体を結構緊張させる。



そして何よりも



作家の領域に踏み込むことへの正直な躊躇と
緊張感・・・・・



彼の新作コンセプトは過去の作品への回帰的部分を
兼ね備えていた。これはその前の昨年の個展の新作
から逃避して回帰したという事ではなく、間違いなく
無意識化で創作するというコンセプトに基づいた
挑戦の栄養素を存分に含んだ上での回帰であった。



だから以前の作品と被る部分があるにしても
それは似て非なるものであることは瞬時に理解できた
のと同時に、



作家とはこのような長旅を続けて




僅かに前に進むのか・・・と、、改めて物を生み出す
苦しみを感じたのであった。。。。



今の彼は



表現という、人が感受する部分に恐ろしく集中している。
ただ出来た、道具としての要素を完備する事により人との
接点を保つなどという事から大きな一歩を踏み出し、、、



ある意味もがいていた・・



この日、一番のクライマックスとなったのは



なぜ雨森くんの表現は”木”でないといけないか?
その必然性と、、自分の表現で木を木として活かせてい
るのか、その理由が見当たらない・・・という部分に突
き刺さった。



確かに樹脂でも石膏でもFRPでもそれ以外の素材でも出
来なくはない。


そういった選択肢があるにも関わらずなぜ木である必
要が・・



単純ながらも”実に重要な部分”に感じた。。




確かにそれまでの彼は木の固定的な観念として持たされて
いるフォルムの限界を飛び越えることを一つのコンセプト
として据えていたのは間違いない。だから大胆な曲線を強
調した作品や、もっとシンプルに組む刺す継ぐという木に
持たされた特徴を強調するようなやり方を選択肢の中軸に
据えた筈だったのであるが、、それが今や大きな問題のポ
イントへと導いたのである・・・



この日こんな他人が聞いたら”堂々めぐり”のような会話
を2~3時間彼と二人でしていた。。



そんな時私の脳裏をかすめるものがあった。。



木の根本的なイメージってなに?
もっと集約して言えば、固定観念や先入観を改めてまと
めて見ると、、そこには



温かさ、優しさ、柔らかさ、、生命感、、有機質、、・・・



しかし、それを作家があえて強調する必要性が果たして
あるのか?そんなものは固定的に観念化されている筈で
あり見れば記号化している筈でもあった。。。



実は逆なんじゃないの?という事に気づく。



木である必要には木の持っている固定観念と逆質のものとの
対比があって初めて木の意味が強まるのではないか?と感じた
のであった。



単純に言えば、金属と合体した木材を見た瞬間
木の意味というのか、、木の存在の意味を人は探り出す。



これが実は重要なような気がした。



そしてもっと言えば



木は緩やかな曲線や鋭角な造形を生み出せることが
木の最大特徴だと、誰しもが固定的観念を抱いているが
それも本来、本当の木の最大特徴的部分ではないのでは
ないか?と感じたのである・・・





木をへし折ると




その折られた箇所



他の材質にない”ささくれ立った”造詣が出現する




ここに生まれる無意識化の造形



これこそが本当の木の特質を象徴しているので
はないのか?




等々・・・・



・・・・・・・・・・・・・・・・




どれも解決策では決してない。



アイデアとも言い難いかもしれない。。



しかし、、




こんな様々な材料をこの日は



かなり二人して積み上げた。。。








3時間後



私は緊張から戻ってきたが




雨森君は今だあの場所に居続けている・・・
作家の生息領域・・・






後は




私は待つのみだ・・





彼の展覧会を用意しようと決心した。。

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時の肌ざわり
早いもので



年が明けてから



もう2週間が経った・・・



バタバタとしていたせいか
そんなに時間が経ったのか?



と改めて感じた今日



久し振りの連休だ。。



来週はいよいよ上海へ、帰国後は
kappaちゃんの2回目の個展、その間
エトリさんと3月開催の展覧打ち合わせ



その後は田村さんのSTONEを高松で展開・・
・・・・・・






と、結構忙しくさせてもらえそう
である。



さて、、、



休みといってもさして凝った趣味を
持っているわけではない私にとって



唯一この何年かマメに続けている趣味が
ある・・



私と古い付き合いの人は知っているが



私の趣味は



散歩だ。。



長い時では2時間
短くても1時間弱程は近所を歩きまわっている。



幸いにして近くに木津川という大きな川があり
その近辺をうろついているのだが、木津川から
流れてくる小川で泳いでいる鯉をぼぉ~と眺め
たり、花を見ていたり、たまに”ヌートリア”を
眺めたりと私にとっては結構楽しい時間なのだ。。




その中でも




一番大好きなスポットが



この木津川沿いに昔からある集落で、小さな路地
が入り組みながらの区画を形成しており、昔の
ままの農家の家々が今だ軒を連ねている・・・



その区画に一歩足を踏み入れると




自分が知ることのない筈の




遠い昔に来たような感覚、、、




遮断された空間に迷い込むのと
同時に、何者かとの交信が始まる・・・






























完成に向かう”綺麗”さにはない



崩れ落ちていく瞬間の”儚き美しさ”



・・・・・・・・・・・・・・



時空の記憶として人の存在を




僅かな芳香を放ちつつ化石化していく



そこには



時という目に見えないものの



確かな”肌ざわり”を感じる・・・

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田村博文solo exhibition ABC朝日放送 NEWSゆう+(本編)
お待たせいたしました。


昨日放送の田村博文solo exhibition
ABC朝日放送 NEWSゆう+カルチャー


本編を公開させていただきます。


良い編集に仕上げていただき
スタッフ一同感謝しております。


ABC朝日放送 NEWSゆう+のスタッフの
皆様、誠にありがとうございました。


なによりも


コーナー最後でコメンテーターの方が
語った一言



これが



私にとっては非常に嬉しい一言となりました。




※番組ホームページでも取り上げていただいてい
おりますのでこちらの方もご覧下さい。

ゆうカルチャーという所で紹介していただいてます。

↓ ↓ ↓ ↓ ↓

http://webnews.asahi.co.jp/you/





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ダーウィン賞と死生観
実は、私、人の滑稽な死に方をインターネットで
探訪する趣味をもっています・・・・



それを探るのに、うってつけなのが



以下の”栄えある賞”であります。。。




-------------------------------------------------











人類は適者保存の法則に従って、優秀な種が子孫に
伝わりそれが人類の発展に貢献するのだが、逆に言うと、
種を伝えてはいけない人(すなわちア○)は遺伝子を伝
える前に死ななければならない。



それを素晴らしい方法で実践した人が貰える賞がこの
ダーウィン賞である。


これはこれでやはり人類に貢献するからである。
 



まぁ、、、アホは人類に対し遺伝子を残すな!


それと同時に、、アホはとんでもないアホな死に方


を実践してこそ遺伝子を残さなかった意義を伝えられ
人類に貢献を表名できた!・・・と、、


それらを大いに表彰するという、、


ダーウィン賞!



これはひどい話である。。。。。



が、、、以下をまぁご覧下さい・・・

(※最初の方が先日発表されたばかりの2009年度です。)





○ATMを破壊しようとしたら爆薬の量を間違えて自分達
が爆死してしまった2人組の強盗



○渋滞に巻き込まれ、トイレを我慢できなくなった男性
が車を降り、道路のフェンス飛び越えて向こうで用を足
そうとしたところ、そこは線路をまたぐ跨線橋の上だっ
たため下へ転落、死亡



○一度警察に救助されながら、自転車が惜しくて川に戻
り溺れた女性



○店舗に押し入った強盗、顔を金色のスプレーペンキで
塗装して変装していたために呼吸困難に陥り逃走しきれ
ず死亡(サウスカロライナ州)



○台風で停電、電気が回復しないのに業を煮やしたミル
氏が戸外でぶら下がっている電線を電動ノコギリで切断
しようとして感電、死亡(ニューヨーク州)




○変電所施設に侵入、変圧器の上に立って小便をしたと
ころ感電、死亡(テネシー州)




○鎮痛剤を処方してもらいたくて怪我をしようと走行中
の車から飛び降りた男性、勢いが良過ぎて死亡(ミネソタ州)




○ハムの無線アンテナをあげていたら送電線に当たっ
てしまい感電死した3人の家族(フロリダ州)




○彼氏の車があまりにトロいので仕事に間に合わない、
歩いた方がマシだと走行中の車から降りた女性、実は
結構スピードが出ていて転落死




○軍での訓練中、道路に寝ていたら車に轢かれて
即死(ルイジアナ州)




○エールリング湖に遊びにきていた30歳男性、大雨
で湖が氾濫しているのに乗じてベッドのマットレスを
持ち出しサーフィンしようとして水死(ルイジアナ州)




○家の下に金が埋められていると夢で見た男性、毎日
床下を掘っている最中崩れた土砂に埋まって死亡(インド)




○1000フィートの崖を滑り降りるチャレンジに失敗、
滑落して死亡(オレゴン州)




○バスに乗り遅れ走ってきた女性、方向転換したバスに
轢かれる(カナダ)




○庭にあるレンガの小屋を自分で壊そうとしていた男性
、崩れてきたレンガにつぶされ死亡する(イギリス)



○26歳の洞窟探検家、頭から入っていったら先が細く
なっている場所で動けなくなり、救出できずに死亡(ユタ州)




○ヘリウムを吸って声を変えて遊びたかった学生二人
がヘリウムで一杯の気球に飛び込み窒息死

ジェイソン・アッカーマンとサラ・リッドマン
(両方とも21歳)が南フロリダ州のレイクビュ-で、
地面に落ちてしぼんだ気球から足が出ているのを発見
されました。この二人はヘリウムガスを吸って遊ぼう
と思ったらしく、広告用に浮いていた気球を地面
まで引っぱり、気球の中に潜り込んでヘリウムを吸
い過ぎ、酸素欠乏で窒息死したようです。




○ロケット弾を分解しようとしてハンマーで
叩いた男性、爆死


ブラジル人男性です。ロケット式の手榴弾を解体し
ようとして最初は車のタイヤで前後に轢いて壊そう
としたのですがうまくいかず、あげくの果てには自
分でハンマーを持ち出してきてがつんとやったら大
爆発。彼は当然爆死、彼の職場と車6台が大破した
そうです。





○「千個のヘリウムガスを詰めた風船で宙に浮いた
後海へ流  されて死亡したカトリックの聖職者」


パーティ・バルーン(いわゆる普通の風船ですね)
での飛行時間19時間という記録を超えるべくチャ
レンジしたわけですが、以前彼を指導したことが
あるというパラグライダーのコーチ、リヒトナウ
氏は彼のことを「向こう見ずで頑固、いつも慌てて
いた。だから別に驚いていない」とコメント。




○「愛車のポルシェを守ろうと電車に向かって
いきひかれた人」


ポルシェ・カイエンで走っていた彼は踏切で車
がスタックしてしまい動けなくなったのです。
しばらくすると彼は車を飛び出し、こちらへ向か
ってくる電車に向かい手を振りながら走っていった
そうです。ーおそらくポルシェを守るためにー




○のどの痛みのためお酒を飲めなかった58歳のテ
キサス州の男性が、 仕方なくお尻からシェリー
酒を浣腸して摂取し死亡





○真夜中過ぎに道路で全裸で死んでいるのを発
見されたサウスカロ ライナのカップル。両方
とも21歳。その後、ピラミッド型の屋根 をし
た建物の屋上できれいに折りたたまれた二人分
の服が発見さ れ、どうも屋根の上でセックス
していて落下したらしいことが判 明した。





○地面に金属のロッドを打ち込み、自身を高圧
線に感電させてほくろ を直そうとして感電死
した東ドイツの男性。





○荒れた納屋を解体しようとしてチェーンソー
を使用していたとき に大事な柱を切ってしま
い、建物の下敷きになってしまったウエスト
バージニアの男性。




○近づいてくる電車の線路の上で、どれだけ長
くたっていられるか というチキンゲームに勝
ったイリノイ州の人。


 ....あまりに勇敢すぎて轢かれてしまったようです。




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因みにこれは事実かどうか?ダーウィン賞に
ノミネートされたかどうかも怪しいが、ある
方のサイトに掲載されていたものであるが、
こういった内容である・・




熱心な動物園飼育員、フリードリッヒ・リーズ
フェルト(ペーダーボルン・ドイツ)は、彼が
担当していた象のステファンが便秘をしたため、
22倍量の下剤を飲ませ、ベリーやイチジク、
プルーンなどの通じによい食べ物を大量に取
らせた。やがて糞詰まりの象はその大便を一気
に排出したが、フリードリッヒは90kg
もの便の下敷きになり、窒息死してしまった。



当局者によれば、フリードリッヒ(46)は苦しむ
象のために、オリーブオイルの浣腸をしようと
していて、この難にあったということだ。
「象の予期せぬ突然の大量排便をまともにく
らい、リーズフェルト飼育員は地面に打ち倒さ
れてしまった。そこにあった岩で頭部をうち、
意識を失ったところに、


「なおも象は排便を続けたんだ」、


警察当局者は驚きを隠さずに語っている。





。。。。。。。。。。。。。。。。。。





人の死は決して笑ってはいけない出来事であることは、
小学生の低学年、いや幼稚園児でもわかっていること
である。。



が、


どうだろう??



ダーウィン賞とは・・



なんと凄いことを堂々とやっているのか?実は偶然
知ったのであるが、もちろん、私の滑稽な死に方探
訪はこのような定義からではない。。



単純な、そうごく単純な疑問からでしかない。



私が滑稽な死に方探訪をするキッカケは、実はいつ
だったか思い出せないのであるが、二つの事件が引
き金になっている。今や大量に放出されるニュース
の中の深い地層に埋没してしまったであろうが、間
違いなく私は見たのである。




一つは、確か高校生くらいだったと思うが、あまり
にもの事で唖然とした。


そんなことで人の生涯が閉じてもいいのだろうか?
という実に気持ちの中で整理あるいは解決できない
事柄であり、非情な虚無観がドシッと心を支配した
出来事だったのである。



どういった事件かと言うと、



深夜、繁華街では酔客が少なくなった時点でゴミ
回収車がそれぞれのゴミ置き場のゴミを回収して回る。
このゴミ回収車は皆ご存知だと思うが、車の後部に口
が大き開いており、この口にゴミを次々に放り込む。
中の詳しい仕組みはよく分からないが、掘り込んだ
ゴミをドンドン車の内部に押し込んでいき圧縮してい
くのである。



そしてこの車の後部に常時作業員が左右立ち乗りの
体勢でおり、ゴミ置き場に到着するとサッと手際よく
降り、次々にゴミを掘り込んでいくのである。



この回収車がある町をいつものように深夜回ってい
るとき、ある泥酔した人間が



「おー!それに俺も乗せてくれぇ~!!家まで連れ
て行ってくれぇ~!」



と叫び、無理やり後部にある作業員が立ち乗りす
る位置に乗り込んできたのである。。



しかし、泥酔状態でのことであり、バランスを崩し、
体がゴミを吸い込む口に落ち込み、そのままゴミと
一緒に車の中に入り込んでしまい死んだのである…



この事件を見たとき、正直悪いが“大笑い”
してしまった。。



よく子供が玉のついた椅子などにのり、ウワァーと
勢いよく走らせるという事をするが、まったく同じ
感覚にしか見えなかったのである。。



なんでこんなことで死ぬのか?残された家族はどう
なるのか?それよりも一体全体、人間はいつどこで
死ぬか分からないとは言え、まさかこんな事でとい
う解決しない疑問が大いに高まった。




そしてこの事件、ニュースでも僅かしか取り上げら
れず、今も私は必死に探しているが見当たらないの
である。。しかしこの死に方、映像を思い浮かべると
、、、



なんとも、どうしようもない気持ちにさせられる。。



もう一つは、私と同世代以上の方なら覚えていると思
うが、青酸カリ入りコカコーラ事件である。



これも店頭に置いていてある商品のコカコーラに
青酸カリが混入していての事件ならまだ犯罪として
納得?もいくのだが、これがそうではないのだ。



公衆電話ボックスにあった飲み残しのコカコーラを
飲んだ人が死んだのである。



これは確か私が小学校位のニュースだったと思うが、
なぜ?人が飲み残したものを平気で飲むのか?



そこまで計算された愉快犯の計画だったのか?



子供心にまったく理解できなかったと同時に、
こんなことで人が死ぬのか?と、とてつもない壁に
ぶち当たったのを覚えている。このころからかなぁ?



無差別殺人なる行為が社会現象として現れ出した
のは?しかし殺した方も殺されたほうも、




なんだかなぁ?となる・・





これら事件以外にもあったとおもうのであるが




とにかく、私はこれらの不思議な死に方に異常な
興味があるのである。



人間社会って?



この時代の死に方って?



少し前、マウスの実験を読んだ。ネズミ算という
言葉があるように、倍々で生み増やすのであるが、
一定の数を超えると狂乱・錯乱状態に陥るらしい
のである。そして共食いが始まり、また一定の数
に戻ると正常にコミュニティーが機能しだす。




人間社会も数だけではないが、何か近いものを
感じる。




ありえないような死に方が存在する。。



滑稽な死に方は本人が望むものではないが、なにか
社会的な現象が少なからず要因としてあるような気
がするのである。



その中に自分もいるという実感が、こういった極端
な事例からわずかながら私の場合感受できる導線と
なるのだ・・




今、改めて自分が死ぬ瞬間を考えるとどうなのか?



出来ればこのような滑稽な死に方はごめんだと思うが、
しかし、死ぬと言う事柄、事実は例えどのような形で
も結局本質は同じじゃないかなぁ?とも思う…



死んでしまえばその因果など本人にとっては関係ない
ことだ。



死ねばすべて終わり?であり、その因果については
残された者たちが考える事象でしかない。



だからこそ私はなぜか強烈に滑稽な死に方というも
のに惹かれるのである。



こんな事で死ぬのか??と・・・



死は、



突如あり得、皆平等なのだということ。



明日の予定を気軽に話し合うが


そんな保証は誰にもない。


 


まぁいずれにしても死ぬのだからそれまでは・・
  


長生きしたい。



できれば私は幸せに死にたい。



フランダースの犬のネロのように、たくさん
の天使に天上まで連れて行ってもらいたい



そう



ふわぁ~と!



どんなに格好つけても私はそうだ!



よく、いつ死んでもいい!などと格好を
つける奴がいるがあんなものは信じられない。



私の祖母は84歳で亡くなった。死ぬ直前、
いつ死んでもいい!とよく家族に言っていたが、
あるときニュースでサバに細菌が繁殖し食べた
人が死亡するという事があったとき、サバが大好
きだったはずにもかかわらず




”サバは食べない”と言い張っていた・・・



人間なんてそんなもんだと思う。



私はとにかく長生きしたい



最後滑稽だろうがなんだろうが構わないが




今知り合っている誰よりも長生きしたい。



それはひとえに




もし、死んでから“めっちゃオモロイ”
ことがあったら・・・




悔しいから…





それが長生きしたい理由。。。

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田村博文 ABC朝日放送 NEWSゆう+Making(atelier)
1月5日放送予定であった


ABC朝日放送newsゆう+の田村さんの
取材放映が急きょ13日に変更になったの
ですが・・・


いよいよ明後日にせまりました。



明後日のおおよそ午後5時半前後です。
今回の放送はディレクターに確認した
ところ約5分という結構ロングなので
私も楽しみしております。



そこで本日、アシスタント石本と私のブログ
にてその模様をMakingムービーとして分割掲
載いたしますので是非お楽しみください。


石本のブログにてはギャラリー内の取材


私のブログにてはアトリエにてのアナウンサー
の体験取材のMakingムービーをご覧ください。



尚、本編は後日UPさせていただきます。
関西以外の方にもご覧いただくことができ
るようにいたしますので今しばらくお待ち
ください。











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