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エトリ ケンジ  KBS京都 京プラス本編
放送スケジュールが2回も延期になり、



なかなかお伝えできませんでしたが、、




16日の夕刻やっと放映していただけました。



前回の生放送も実に良かったのですが




今回は録画による編集のため、、、、


ギャラリー空間もエトリさんのインタビュー
もより彫り下げた濃い内容に仕上げていただて
いるとスタッフ一同満足しております。。。




KBS京都 京プラスのスタッフの
皆さま、誠にありがとうございました。






*エトリさんのメーセージ!実に
 良い内容だと思います!


 是非注目してください!!






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自己表出と支持表出
数日前、何気なく新聞のテレビ欄をみていて



NHK教育の吉本隆明の講演が目にとまった。



ETV特集、吉本隆明語る~沈黙から芸術まで~
昨年放映されたものの再放送なのだが、なんとなく
このタイトルに惹かれ見ることにした・・・



結論から言えば、実に面白かった。




もう老齢で、失礼だがともすれば言語が不明瞭な
部分も多々あったり、少し難解で分かりにくい部分
もあったのだが、全体には時間を忘れ引き込まれた。



正直、私は吉本隆明の著作を一冊も読んだことは
ない、よって彼の全体の仕事については全く知らない
と言ってもよい程度の知識しかない。そんな私でも
多少知っている事と言えば”知の巨人”という異名と
我々より10歳以上年上の方々にとってはカリスマ的
存在の”思想家”であるという事ぐらいだ・・・




しかしそのような先入観や足りない知識を前にしても
なんら気にならない程、私にとっては面白い講演だった。




番組は、吉本隆明が自らの思想の核心「芸術言語論」
を語った3時間の講演を記録、戦後60年以上かけて紡
いできたその思想の到達点を描く。というコンセプトのもと



吉本氏自らも



「僕の本なんか読んでいない人に、どうやったら分かっても
らえるかが勝負です。」



と語って居るとおり、いくつかのテーマに分かれて順に語った
のだが、その中の一つ、言語にとっての根幹の部分が私には
非常に面白く、乾いた砂が水を吸い込むような爽快な感
覚に浸れた。。




「自己表出と支持表出」




初めて聞く言葉であったが、この説明が非常に明瞭で
分かりやすかった。




一般に言語というものは様々な地域、国、コミュニティー
で時間と共に熟成され、文化として形成されてきたもの
であり、その役割の主たるモノとは”コミュニケーション”の
ツールであるということが概念化されていて、これが言語
というものを語るときの根幹であり、ここから出発すること
が言語の論理性としては妥当とされている。



しかし、吉本隆明の論理は先ず持ってこれから否定
するのである。


言語にとってのコミュニケーションというツール部分とは
あくまで枝葉末節でしかなく、全体の構造から言えば
僅かな部分でしかないというのである。言語というものを
巨木として想定した場合、コミュニケーションとして見える
部分は決して幹や根には当たらないという事なのである。。。



では、幹や根とは一体なんなのか?




沈黙であると喝破するのである。




沈黙では言語ではないではないか?と考えるのだが
そこがそもそも、言語というものを考えるときの間違いの
元になっている、、



ここで言語と呼ばれるものを冷静に解析すると、、



テレビの中では図解で説明が入り分かりやすかったのだが



例えば、美しい花を見たとする、


先ず人間はその時、心の中に美しいという言葉から
連想するものではない、見えない知識外の感情の昂ぶり
を覚える。



そしてその感情を自ら知っている言語に対して様々な
翻訳を開始する。当然知識豊かな人は言葉の数も
多いし、それを解釈する仕方の方法も多数持っている。


しかしながら、そうではない人でも芽生えた感情そのもの
が劣る訳でもなければ、量的に計れるものでもない。


ただ言葉に置き換える技術力に多少差があるという
程度でしかない。



ここで言語の二つの特質が生まれていることに気づく。



一つは心が感じている部分。
もう一つはそれを自らが習熟した文化によって言葉に
換えるという部分である。



実はこの二つの作業が言語と呼ばれるものには
元来存在し、元を辿れば、最初に個々が受ける
心の動き、これがすなわち言語の根幹に相当する
という論理である。



最初の作業が、自己表出
次の言葉につなげる作業が、支持表出である。



そう考えれば、なるほどと思う部分もある。




確かに先ほど、知識豊かな人はその変換技術に
長けていると書いたが、言葉そのものが違う場合
にはどうなのか?と考えられる。



英語、フランス語、ドイツ語、中国語、、、、、、、、




これは知っていれば或程度は使いこなせ、今のような
変換技術も取り入れられる事も可能だろう・・・・・



しかし、それ以外のマイナーな国の言語を考えた場合は
どうであろうか?言葉そのものがまったく通用しなければ
そもそもコミュニケーションなどは不可能なのではないか?



しかし、同じ花を見て感じるというこの心の部分に
人間的な断絶が存在するのか?と言えばそれは
違うのは誰でも理解できる。



故に、言語というものを考えた場合、我々はすぐに
コミュニケーションの最大ツールであり、それを遮断
することなく通用させるために、様々な便宜に応じ
習熟を果たそうとすることに最大の重きを置くが、実は
それは根本的な言語の意味からすれば順番としては
一番ではないという事が読み取れる。



では何が一番なのか?と考えれば、



やはり心の中に生まれる、言葉に変換される前の
人間がもつ情感そのものが言語の根幹なのでは
ないかという事に気づかされる・・・・



大事な事は、自己表出、この部分である。



私はこのCOMBINEというものを立ち上げた時から
今まで終始一貫して伝えていることは、優れた現代
美術であるとか、優れたコンテンポラリーとか、そういう
見た目の雰囲気の事ではない。



優れた”芸術表現”と言うことを軸に据えて考えてきた。



表現とは以前にも書いたが



表し現すという行為であり、



これがすなわち、自己表出と支持表出の作業を同時に
目に見える形で行うモノであることは今までの吉本隆明
の論理説明で多少理解していただけるのではないか?と
思っております。



表すということはすなわち絵を描いたり、形を作ったり
という事に相応するのですが、根幹的に大事なモノと
はやはり”現す”という事なのだと考えるのです。



この現すということの根幹は芸術家が今の時代を生き
そして過去を勉強し未来に思いを馳せるときに生まれる
我々凡夫には到底及びも着かない境地境涯であり、
この選ばれた芸術家の内面の中に生まれる優れた心の
動きを如何に他人に対して目に見える、もしくは同じように
芸術家自らの作品を介して見る人たちの自己表出を促
すか、、これが何よりも尊く、そして優れた行為なのか、それ
を伝えたいと私は常々身を焦がすような気持ちで思い仕事
をしているのです。



実はこの自己表出に国の違いや性差、貧富そんな境界は
存在しないのです。


誰もが与えらているものであり、それはコミュニケーションとして
流通している言葉なども軽々と跳躍していしまう力強さが
存在しているのです。



私はこれを日本から生まれた自己表出として出来れば
国内はもとより海の向こうの人達とも分かち合いたいと
いう気持ちが座右としてあります。



それぞれの文化の違いは感じ方、自己表出の多様な色彩を
生み出します、その時なにが優れてとか勝ち負けではなく、
その多様な中で、東洋の極東の他の文化圏にはない、独特の
感性を持って伝えると言うことは、今の時代に対してもの凄く
意味のあることなのじゃないか?と切に考えています。



決してアニメという表層的なものがそれを代表する
訳ではない思うのです。



西洋のもしくは経済のというような世界の軸を語るとき
様々なモノが持ち出されますが、根本は人間そのもの
にとってどうなのか?という基軸が大事であり、その時
世界が大事にする情報とは、この自己表出と呼ばれる
目に見えない感情なのではないか?と思うのです。




それが様々な決定や判断の舵を着る際必ず必要
となるように思うのです。全てが許容されること
は不可能である。しかしながら協調しある種の妥協
とともに最大公約数の領域を広げる作業は必ず必要
となる。その時の公約数はエゴであってはならない。




その時、日本の感受性を誰が一体伝えるのか?
この役割は、私は芸術家をおいて他には無いと
考えるのです。



政治家や経済界、軍事、どれもが到達しえない
国という仮装の枠組みの中で生き続けている
人間個人の感情を最大限に表出するのは、やはり
芸術だと思います。



日本を出来るだけ最短で語るとき
支持表出する場合・・・・



過去の時代の様々な政策を語るであろうか?
権力者を語るであろうか?



そんな事は決して無いのではないだろうか?それらは
日本という一面を表しているに過ぎず、全体を把握
するには到底至らない事であることは簡単に理解できる。



長谷川等伯の絵を見るとき
尾形光琳の絵を見るとき
利休の茶を考えるとき




これらの方が遙かに日本というものが理解できる領域
をもって居ることが分かり、日本人の中に存在する
自己表出という”沈黙”の部分が浮かび上がってくる。。。。。。




吉本隆明も講演の中で語っていましたが、




日本人の芸術の特徴とは




最高に集約し極限まで切り詰めることにより、ある一点の
伝えるべき事を最大に引っ張りだすという事だと説明して
いましたが、私も同感なのです。



芭蕉の俳句や利休の茶を考えたとき、それは明白に理解
出来るように感じます。




私は、これは日本人が自己表出により生み出したものを
日本人の独特な感受性によって支持表出し昇華した
一つの象徴的な特質だと考えています。




言語の本質的根幹は自己表出に現れる”沈黙”であり
この誰もが山積させている”沈黙”のなんたるかを、支持表出
として訴える技術者?というのが芸術家の根本であり、それは
この日本という国にとどめ置くことなく、他の国へも表出する
ことは、今の時代の必然であり使命のような気もするのです。





それをどのようにより大きくセッティングするのか?





それが私たちの仕事だと




吉本隆明の講演を見て




改めて勇気をもらったのでした。。。。

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エトリケンジ Kenji Etori's Works Video
METAPHYSICAL BODY


エトリさんの以前のワークスである。




プロジェクターを使用したインスタ
レーションである。



プロジェクターにて都市映像を照射する。



その青みがかった都市映像を内包した
光線は、バニシングフィギュアーの空虚
なボディーを突き抜ける・・・・・・



壁面に映し出された都市
バニシングフィギュアーのボディーの
曲面に流れていく都市・・・・・・




人工的な創意で生み出され、膨張を続け
生き続ける都市、その都市空間の中で
DNAという生命体の原子を肉体という搬送
の道具を経由し存在し続ける人間・・・



二つの時間軸が瞬間的に交差する瞬間




誰の記憶でもない都市の記憶の残像が
残る・・・・・








というような展開にするか否か・・





実は今回の展示については、この点で
かなりの時間をかけてエトリさんを中心
に悩んだ。。しかし当ギャラリーの物理
的限界から、別のコンセプトを選択した。




空間性の選択よりも




エトリさんの作品鑑賞を中心に空間性を
構築することに決定した!





私はどちらもエトリさんの作品、これは
フィギュアー一体及びその空間を含んで
の事であるが、どちらを軸としても表現
としては高いポテンシャルと可能性があ
ると確信した・・・





ぜひ、今回の展示ではフィギュアーをじっくり
鑑賞していただき、それを中心にフィギュアー
が静かに佇む空間に日常を離れた瞑想的世界
を堪能していただきたい・・・

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エトリ ケンジ KBS京都 本編
おまたせいたしました。



エトリケンジさん2010年3月8日放映
「KBS京都 ぽじポジたまご」
生放送出演の本編をご紹介させていただきます。





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Fetishism
フェチという言葉がある。



元来はフェティシズムという、なんかファッション
ムーブメントの一つのような言葉みたいであるが、
現代ではフェチという言葉で大いに流通し認識さ
れている。



Wikipediaの定義を見ると



フェティシズム(英語:Fetishism)は、人類学・
宗教学では呪物崇拝、経済学では物神崇拝と訳される。


また、心理学では性的倒錯の一つのあり方で、物品
や生き物、人体の一部などに性的に引き寄せられ、
性的魅惑を感じるものを言う。極端な場合は、性的
倒錯や変態性欲の範疇に入る。



現代の日本でフェティシズムという場合、上記のうち
心理学的な意味における「性的フェティシズム」を指
すことが多い。本来、精神医学ではかなり深いこだわ
りを指すものであるが、省略形・俗語でフェチとも言い、
単なる性的嗜好程度の意味で使われている。



フェティシズムを向ける対象をフェティッシュ(fetish)、
フェティシズムの志向を持つ人をフェティシスト
(fetishist)という。



事らしい・・・



と言うことで、フェチだが、一般通念では性的嗜好を
表現する言葉として広く認識されている。



確かに元々の意味は少し違ったのかもしれないが、
本来的にはアンダーグランドに存在する言葉であった
はずが、現代は日の当たる場所に堂々と出てきている。



そして性的嗜好が元になった犯罪というショッキング
な側面に引きずられ、ほぼそれらを指し示す言葉とな
ってしまった。



めがねフェチ
ツインテールフェチ
脚フェチ
尻フェチ
パンストフェチ
タイツフェチ
ラバーフェチ
ミニスカフェチ




大きくは物質・人体パーツ・シチュエーション
に分かれるようだ。。。



なんかよく分からないが、ちょっと調べるだけ
でもこれらがジャーナルの如く流れ出てくる。




一般的に明るさはない。。




それらが性欲と結びつき、犯罪にまで至るケース
からこのフェチという言葉はダーティーなイメージ
を引きずるのであるが、、



実はもう一つその衝動について気づく点は


正常?という


大多数が持つ平均感覚を、平均的に有しているは
ずだと自覚していた自分が、実は内に平均からは
ずれる感覚がある!


と、、


気づいたとき、その世の中一般の平均感覚と自分
が有している希少性感覚の狭間に生まれる妙な感
覚、、、これが時間経過と共に肥大化し、押さえ
きれない衝動を持つに至るのである。。



他人に理解されなくても良いという趣味的な範囲、
これは見えている部分において一般的な許容範囲
を指すのだが、それらに対しての配慮が著しく無
くなることにより、常識としての”羞恥心の平衡
感覚が破壊された瞬間。。



自分は変質者なのだろうか?という相対感を欠落
させてしまう原因が生まれ、それがやがて厳然と
認識せざるおえなくなることにより、フェチの世
界へ突入していく。。




しかし、実際はこの人間の感性の中で相半する関係、
平均的な感覚と逸脱した感性こそが秘められた欲望
の源泉であり、実は上手に操ればある意味楽しい趣
味であったりということも考えられる。



問題は表面露出であり・・



してはいけない、しかし押さえられない。。的な
心理環境が絶対存在するはずで、その狭間の心理
感覚の範囲におれば楽しい趣味で終わるものが、
そのゾーンから僅かでも突出し偏向嗜好を全面に
だした、もしくは出している人は即時“変態”と
いう人間社会の次のカテゴリーに送り込まれるの
である。



だから犯罪前と犯罪後ではその人間のカテゴリー
も大いに違ってくる。。



まぁ犯罪という極端な区別は問題があるが。。。




以前、Uという優秀な経済学者が起した“のぞき”
などはその典型ではないだろうか?



捕まる前は人に言えない内なる個人のフェティシ
ズムであっただけのものが、それを世の中で具体
に実行したとき、それはもう“フェチ”とは呼べ
なくなってしまっている。



彼にとってはスカートの中という世界が夢の世界で、
それが本来見れない場所で見れるということに大い
なる快感が生まれたのであろう。



しかしその橋渡し行為が世の中では“のぞき”
と呼ばれ犯罪になるのである。




この行為を、金をはらって出来るような場所で
思いを遂げても、それはあくまでバーチャルな
世界でしかなく、本意を遂げた事にはならない
どころか、、、



ある意味、似て非なる最たるものになってしまう
のだろう。。




もしくはひょっとすると“のぞく行為”そのもの
が彼のフェティシズムかもしれない。



だから究極は人でも猿でも車でもなんでもよかっ
たのではないだろか?



それはまだ彼のフェティシズムが未成熟で平均的
な男性の女性に対する欲望が混入していただけか
もしれない。




極端かもしれないが、のぞきの度合いが成熟の極
に達すると、、、、



ひょっとすると、走っている車の床面が見てみたい!
凄く興奮するなどという極地があるのかもしれない。。




この場合、その欲求を実際の行動に移した場合、、、
確かに変態ではあるが、、、もっと別のゾーンの人
になるのだろう・・・・・・



。。。。。。。。。。。。。。。。




しかしフェチにとって、その真の実感とは、現実
との距離感こそが至福の感覚であり、これこそが
大きなフェチ原動力でありエネルギーである。




これがある意味、現実が近づいてしまう、、、、、、



例えば先ほどの例のように実際に”のぞく”
などという事が目の前可能であるという状態が生
まれると、もしくは希求すると、これは実に危険
なのだ。




ある意味フェチが夢想するものは本来物質的な
側面が大きいのだが、本質は空虚な世界のイメ
ージの増幅でしか無いのではないだろうか。



それは枯れない泉の如く次から次から溢れ、
無理に押さえると水道管のバルブのように破裂
してしまう危険性を孕んでいる・・・・



この危険とは


一線を越え



破裂してしまう、、、、、、、、



そうなった時、目が覚め、、、、



平均的嗜好社会に戻ろうとしても、


すでにその扉は閉じられており、フェチの
社会からも抽出されてしまっているのである。。。



単純に”変態”というごくありふれた境界
の曖昧な世界の住人となり・・・・



フェチというどこか人間的に軽やかな無責任
な存在からは放逐されてしまうのである・・・




だから大半はバーチャルなイメージ世界に
棲息し、現実との乖離の中で悶々と過ごすの
だが、ある線を越えた瞬間、地雷地帯を踏み
分けるような危険な行軍となるのだ。



だから、イメージの増幅こそがフェティッシュ
にとっては一番大事なのだろう。



それ以上の具体的行動による欲望追求は危険な
行為なのである・・・



とまぁこんなに難しく考えなくても良いの
だけど。。。




しかし、対象や内包しているものの種別を別に
して、人間はある意味すべてフェティッシュ
なんではないだろうか、先天的に気づいたものや
後天的に育んでいるに関わらず様々な形があると
思う。



そして、それが案外現世の自分が写し出されてい
る世の中のキャラクターと大いなるギャップが
存在していることがあり、それがよりフェティシズム
感覚を増幅させるのである。。





えー!!

あの人がーーー!!




そう考えると、宗教も政治も学問もそこに取り
かかる発端はフェティシズム的発想なのかもし
れない。


社会正義と社会悪は表裏であり、所属する集団
によってその感性は大いに違ってくる。



自分は人より世の中を良くできる、出来れば頂点
に立ち良くしたいという感性は、凄い立派な人だ
という認識があるようだが、これは指向性(嗜好性)
によっては大いなる疑問と成り得る。



たとえばそのような人物が現代において共産主義者
であった場合どうだろうか?



また逆に、権力の中枢に居るにも関わらず力に対
してのフェティシズムが働かない輩では上手くいか
ないのも事実である。



ある意味”中道”などと呼ばれている偏向傾向の
少ない集団においても、リーダーのフェティシズム
がある波長で人民につながらなければ、権力奪取に
は至らない。



そしてフェティシズムはイメージの増幅でしかな
い、だから政権の運営基盤はイメージという理想
を元にするのだが、現実とは常に乖離し、そして離反、
破綻する。



集団がイメージとの乖離をいつも許さないのだ。。



あんたはこうなんや!!という強固なもの。。



宗教の場合は宗教側が無理に集団のイメージに合わ
せるのであろう。



逆の乖離感が生まれるが、元々現実とは超越した
関係にあり、現実も偏向気味のイメージ世界であり、
振幅があくまでバーチャル内の出来事でしかないた
め破綻には至らない。



では芸術は?



まぁはっきり言えば


世間から認められない存在であるならば


絵画フェチでしかないだろう、、、


そんな存在の人間が


人前に自分の描いたモノを晒すなどというのは
先ほどの論理に照らし合わせれば



変態行為・・・なのかもしれない。。。


シコシコ家で描いている分には”フェチ”でよいが、、、


これは、、大して売れない業者も然りであり



ひょっとすると私などは



日々変態行為に溺れているのかも。。。。。



くわばら、、くわばらである・・・




話は変わるが、集団という意味で、



以前も何かの番組であったが、数人の男女が頭から
足の先までを覆い被るウェットスーツのような物
(たぶんもっと薄手でコントなんかで着るタイツ
みたいなもの?)を着衣し、お互いに寝転がり、、、



“スリスリ”し合い快感に浸るフェチ集団が放映
されていた。。



聞くとこの集団は、あくまでお互いもしくは複数
で着衣したものをこすり合わせ“スリスリ”する
事に快感があり、男女での行動の場合、性行為の
ように相手の性器を掴んだり揉んだりすること、
そして会話は御法度なのだそうだ。。。



私は是を見た瞬間、笑ったが、でも世の中は広い
とも大いに感じたし、すこしやってみたいなぁ!



なんか気持ち良さそうだなぁ~とも正直思った。。



気づいていない自分のフェティシズムを呼び起さ
れたような。。。。



この人たちは真剣にその快感に何時間も耽ってい
るのだ。。。。。。。。。。。


だからといって他人に迷惑をかけているかと言う
と、決してそうではない。



具体的に“スリスリ”しているが、実は肉体の
快感だけなら皆して集まる必要もない、そこに
はイメージの増幅という言葉に出来ない大きな
快感が存在するのだろう。



そしてもう一つ驚いたのは、この集団の欲望の
パワーは全国組織なのである。。


ある意味侮れない!!



と、とにかく結構なフェチが存在する。



そしてネットという現代の通信手段がこれら
嗜好の人たちを繋げ、本来一人で抱えていた
欲望がネットにより集団ができ、一気に世の
中に噴出している。



よく昔は“恥ずかしげもなく!”などという
言葉を大人から聞いたが、現在ではそん
な言葉も一種の“合いの手”くらいしか意味
をもたなくなってしまっている。。



恥ずかしげもなく!みんなで見ましょう!



やりましょう!



と言われると、自分のフェティシズムが分かって
いないと





ある種の間違った勇気が生まれるのも事実だ。。。





そんな集団性って




どうなん??

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