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小橋順明 個展「私たちは土から生まれた、として-」
小橋順明
「私たちは土から生まれた、として-」
COMBINE/BAMI gallery
2020.12.02 (wed) - 2020.12.17 (thu)
OPEN 12:00~18:00
CLOSE 12/4.5.6.15.16
※最終日午後4時閉廊

★小橋順明在廊予定
2日(水)、8日(火)、17日(木)


青い風景
SM 2020
パネルにステンレスメッシュ、陶土、顔料

本展では近年の仕事「昆虫」作品とは別の「現象と形」シリーズ、平面の新作を中心に過去の作品と合わせて展覧します。
2003年より続けて来た素材との対話と作品の変遷を俯瞰的にご高覧いただけたらと思います。

「土に還る」とはよく使われますが「土から生まれた」とはなかなか使いません。
土に還るのは現実として納得いきますが、土から生まれるところを見た人は当然いないでしょう。
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」
とは旧約聖書「創世記」第2章7節の言葉です。
見た目の現実を超えて、私たちはこの大地と根源的につながっていなくてはならないのです。
「私たちは土から生まれた、として-」
これまで15年あまり、制作を通して土を焼くことによる「変化」「現象」というものと対峙してきました。
このような制作の中で、無限で多様な土の色、質感の変化が概念的な「フォルム」をも獲得していることに気づき、
それこそが「私たち」という存在の「在り様」なのではないのかと考えるようになりました。

「素材対話の提示」であったこれまでの制作に対して、この度の新作は、コントロールできる/できないの狭間で、より確信的に「表現」することに挑戦いたしました。
まだテクニックとしては実験的の域を出ないかもしれない制作ですが、
美術表現は「土と火」によって新しい次元への扉を獲得できると信じています。

■■■余談■■■

25年ほど前
絵を描いたり、物を作ったりするくらいしか続けていける自信の持てるものがなく、
かといって、都会で一人ぐらしをしたり、美大を受けるほどの勇気も余裕も志もなかった僕は
実家から通える距離の教育学部の美術科に引っかかりました。

悪い学生だったので留年してしまい、時間割の関係から陶芸のゼミを受けることになったのがすべてのはじまりです。

新しい素材を扱うのがうまくなっていくのが楽しくなりながら、先生とのやりとりが増えるようになると、
先生の言葉には何かいつも考えさせられるものがあったりして禅問答のようなやりとりを繰り返すうち
器というもののコンセプチュアルな部分(なぜそれがそこにあるのかということの意味)こそが器の、工芸の本質であると僕なりに考え始め、
器づくりは「なんでもない日々の営みの在り様」の表現、という思いで、機能美や民芸思想に傾倒しながら、陶芸沼は深く深くなっていきました。
その一方で
僕の中で、「器であること」と「その素材」がコンセプチュアルな部分で陶芸という文脈とは関係なく「分解」可能なものとなっていきました。
そのまま大学の先生に教わりたくて大学院に入り
現代美術や、7-80年代の現代美術的陶芸を知ることになります。


たとえばこういう感じ

大学院を出て、それでも羽ばたけない僕は、縁を頼って自宅から通える備前焼へ弟子入りすることになりました。
伝統産地にズブズブに浸かり(漬かり)ながら、
器ではない作品で、なにか表現したい、僕も何かできるはず、という思いが募っていったのでした。
2003年。
大学の恩師を頼って年数回のグループ展で実験的な制作をするようになりました。
備前焼で悪い弟子だった僕は、弟子の時間と備前焼の仕事場を使って「その」制作をさせてもらっていたのですが、
大正生まれの師匠は意外にも「やれやれ~」とニコニコしてアドバイスしてくれたり手伝ってくれたりしたのでした。


バブル崩壊後、オブジェなどの現代陶芸はまだ元気に見えた時代でしたが、アツかった(と僕は思っていた)7-80年代に比べて、むしろ理論的には先祖返りというような状態。僕には、とても冷え冷えした意味のない世界に見えました。
失われた20年は陶芸にも影響していると思いました。
僕は「時代の空気だけでやりたいことをやり、実験的途上のまま終わった」(僕はそう思っている)7-80年代の無責任陶芸の次世代的なしりぬぐいのようなことをしたいと思いました。
それは
やきものという素材をコントロールする技量を得ながら、陶芸としての見た目も立場も文脈も完全に捨て去るという方向性でした。
陶の最も重要な部分だけを残して、新しい思考、技術で、素材の組み立て方、扱い方、存在のさせ方から、すべてを陶芸から外し美術として提示する作家はいなかったので、それをすれば良いものができると思いました。。
今から思えば、当時ー2000年代に美術として評価された陶芸は文脈と立場、市場を美術的なものににシフトしただけのもので、ハードな部分では完全なる陶芸でした。


小橋:2003年から2012年の作品

http://www.kcv.ne.jp/~atsumasa/works.html

焼くことによっておこる「変化」を全身で表現するような作品。
常温から1200度の土の変化を閉じ込めようと考えていました。


土の塊を部分的に焼く。2007



地面を焼く。2008


誰からも良いとも悪いとも言われない制作と発表が続きます。。。。
しかし、当時は充分に意義を感じていました。ただただ、自分が納得したくて作っていたのです。


2009年
僕は備前焼のろくろ職人を経て、器を作る作家として独立していました。
制作はといえば
大学時代から続けてきた「機能美としての急須の制作」「民芸的な思考で作る器」そして「実験的でコンセプチュアルな火と土の作品」という3本柱でした。
器の制作をしながら、どうにもならない何かを焼き、発表し続ける。
器の制作は人の目に触れることで、コンセプトの輪郭はより明確となり、作品もより鋭く洗練されていきます。
一方
ある時から、ファインアート作品制作の先が見えなくなりました。
このままでは、この実験的作品が実験的なまま終わってしまう。これを本当に「作品」にし、また新しい作品を作れる自分であるためには、「仕事」にしなくてはならないと考えるようになっていました。
事態は深刻。年齢も33を過ぎてなんの人脈もない。
しょうがないので、ポートフォリオを作りました。どこに持ち込めばいいのか。
 器の営業なのに持ち込むポートフォリオが現代美術のためものだったり、それを岡山や、香川でしていたのですから、今から思うとめちゃくちゃなのですが、
そのような中、出会ったのが今のCOMBINE/BAMI galleryでした。

その時のこと、COMBINE/BAMI galleryディレクターの5年前の過去ポスト

http://combine-art.com/html/blog/ueyama/post/blog.php?post_id=2048

その後は、ファインアート作品についてCOMBINE/BAMI galleryの専属作家として、マネジメントをお願いするようになり今に至っています。

この出会いによって、僕は同時代性を表現するとはどういうことかを考えるようになり、
僕の持っているものが、どう生かせるか、社会的に意味のあるものとなりえるか、僕は作家として作り続けていいのか
というある種厳しい現実と向き合うことになりました。

そうして生まれたのが「昆虫」シリーズでした。

その時のこと、COMBINE/BAMI galleryディレクターの5年前の過去ポスト

http://combine-art.com/html/blog/ueyama/post/blog.php?post_id=2049

昆虫作品には、僕の幼少期からの「モノづくり」、産地に肩まで浸かって得たもの、美術として土をどうしていくべきか考え続けた日々のすべてが詰まっています。


一方、2003から続けてきた直接的に土の変化を見せる作品も、一つの具体的な方向性を得て、地道に進化してきました。



塊だった土は、パネルに塗られ、絵画的な構造を持つことで変化は平面に絵画的フォルム、マチエールとして提示できないかと本展のステイトメントの通り模索中です。
本展では特に表現としてコントロールするために素材、焼き方、いろいろなことを試しました。
とにかく自分でも見たことのないもの、かつ、これがしたかったんだ!というものができていくのは純粋に楽しく、
今だけはその喜びに身を任せることを許してもらいたいと思います。


今となってはすべての作品、出来事が立体的に感じられ、今、未来とつながって見えます。
これからが良くなっていくと信じて。


作品の存在に気づかれず鑑賞者に踏まれ、半年間雑草の防除に役立ったという、ある種滋味深い作品的変化を見せていた「地面を焼く」作品から12年。。
初の平面作品での個展。
ご都合よろしければぜひご高覧、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。


赤い風景
SM 2020
パネルにステンレスメッシュ、陶土、顔料

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